「……ねぇ、翔太郎。まだ朝のホームルーム始まってないのに、なんで給食が配膳されてるの?」
璃桜の言葉に、翔太郎は自分の弁当袋を抱きしめながら遠くを見た。
「……逆に聞くけど、なんで“朝の登校”が“3時間かかった”と思う?」
教室の中はすでにカオスだった。
誰もが“のんびり動いている”ように見えるのに、時計の針だけが異様に速い。
いや、違う。
“自分たち以外が極端にスローモーションで動いている”のだ。
教師が黒板に字を書こうとするが、チョークの動きがミリ単位で遅い。
給食当番がスプーンを持ち上げるだけで3分。
「なにこれ!?みんな“超高精細スローモーション映像”になってる!!」
翔平が泣きそうな顔で叫ぶ。
そして、その中心。
窓際の席で、静かに本を読んでいるのが――純だった。
周囲の空気だけが、まるで“水中”のようにねっとりと遅く、彼の周囲にだけ“別の時間軸”が流れているのがわかる。
璃桜が分析を始める。
「これは……“時間同調型アニマ”ね。純の“自分のペースを守りたい”という願望が空間全体に伝播して、周囲の時間感覚を巻き込んでる」
「つまり今、世界が“純のリズム”に従って動いてるってことか……!」
翔太郎は辺りを見回しながら言った。
「だけどおかしい。純って、確かにマイペースだけど、ここまで“他人を巻き込む”ようなタイプじゃなかったはずだ」
「ええ。だからこの現象は、“無自覚の圧”……彼自身が“周囲に無理に合わせないように”って、過剰に守りに入ってる証拠よ」
そのとき、教師が黒板に書きかけていた「きょうのもくひょう」が、ついに“き”の字まで完成した。
翔平が机に頭を打ちつけながら呻く。
「やっと“き”……このままだと授業終わる前に3学期入るって!!」
「このままだと、卒業式で“君が代”が1音ずつ分解されて流れるぞ……!」
翔太郎がため息をついた。
純はと言えば、変わらず静かに、ゆっくりと本をめくっていた。
彼にとって、それが“いつも通り”。
ただ、“世界がそれに引っ張られてる”ことに、まるで気づいていない。
翔太郎たちは、ついに決断する。
「……直接、話そう。純に。これ以上“彼の心の安全地帯”が膨張したら、世界が全部“昼寝時間”になる」
璃桜が頷く。
「彼にとっての“自分の時間”と、“みんなと過ごす時間”は、両立できるって教えてあげなきゃ」
教室全体がゆっくりと“粘性ある空間”に変質する中、翔太郎たちは“時の迷宮”の中心、純の元へと歩き始めた。
翔太郎が足を一歩踏み出すたびに、周囲の空気が“もにゅっ”と音を立てて揺れた。
まるでゼリーの中を泳ぐような感覚。何もかもが遅く、重たい。歩くだけで疲れる世界。
璃桜は額に汗を滲ませながら、それでも前を向いた。
「この空間、“純の時間”で構成されてる。“焦らず、乱さず、急がない”……その哲学が、空間の構造にまで染みついてるのよ」
翔平はほぼ這うように進んでいた。
「ちょ……誰か……カロリーメイト的な何かくれ……このテンポ……体育の長距離走よりキツい……」
「むしろ時間が長く引き伸ばされてる分、体感ではフルマラソン超えてるわよ。あとで水分補給忘れないで」
翔太郎はようやく純の席のそばまで辿り着き、目の前で静かに立ち止まった。
「……純。聞こえてるか?」
純は静かにページをめくる。
「……翔太郎くん。うん、聞こえてるよ。君たちの声は、ちょっとだけ早口に聞こえるけど」
その声も、まるでラジオのチューニングがズレたような“ゆるい波動”をまとっていた。
翔太郎は静かに椅子を引き、純の隣に腰を下ろす。
「なあ、これ……お前の“ペース”が、世界を巻き込んでるって気づいてるか?」
「……うん。なんとなく。ここ数日、周りが“急いでる”のを見てると……なんだか、気持ちがざわついて、苦しくて」
純の声はいつも通りの穏やかさだった。けれど、その奥にある“申し訳なさ”が滲んでいた。
「だから、世界を“ゆっくりにした”んだ」
「……でもな、それ、俺たちにはちょっとだけ、しんどい」
翔太郎の正直な一言に、純は少しだけ笑った。
「知ってる。でも、僕は“急がされる”のがすごく怖いんだ。誰かと話してても、すぐに“答えなきゃ”って焦って、頭が真っ白になるんだよ」
「わかるよ。俺も昔、“沈黙が怖かった”から、無理にでも喋り続けようとしてた」
「……でも、君はちゃんと相手のペースに合わせてくれるじゃないか。僕は……逆に、それができないんだよ。合わせようとすると、壊れる」
「だから、自分のペースでいられる世界を作った。違う?」
「……そうかもしれない」
翔平が背後から必死に叫んだ。
「でもなぁあああああ!!お前のペースで給食食べたら、一週間かかるんだよぉおお!!」
純はくすっと笑った。
「それは……ごめん」
璃桜がやってきて、そっとノートを開く。
「純。あなたは“自分のペースを守る”ことに罪悪感を持たなくていい。けれど、周囲を止めてしまうのは、やっぱり違うのよ」
「……そうだね。でも、どうしたらいいかわからないよ。“僕の時間”が壊れたら、僕は僕じゃなくなる気がして……」
「じゃあ、こうしよう」
翔太郎が笑った。
「お前の“ゆっくり”は、お前のもの。でも、俺たちが急いでるときは、ちょっとだけ“合図”くれ。『今は僕の時間』って。それで、お互いに“確認”しながら過ごせばいいじゃん」
「……それって、わがままじゃない?」
「いや。“対話”だよ。“一人だけで世界を作る”んじゃなくて、“一緒に作る”ってこと」
その言葉に、純はゆっくりと、ページを閉じた。
「……それなら、できるかもしれない」
その瞬間。
空間に張り詰めていた“粘性”がふっと解け、教室全体が“普通の速度”に戻っていく。
黒板のチョークがようやく“きょうのもくひょう”の“う”を書き終えた。
翔平がバンザイした。
「やっと、時間が動いたあああああ!!今日という日が“今日”のうちに終わる奇跡ぉおお!!」
純はそっと立ち上がった。
「……僕は、まだうまくいかないかもしれない。でも、“ゆっくりでも、歩いていく”って決めたよ。君たちと一緒に」
翔太郎は頷いた。
「それで十分だよ。ゆっくりでも、ちゃんと進んでりゃ、それが“本物”だって、俺は思う」
(第25話 完)