――廊下の角を曲がった瞬間、そこに広がっていたのは“雪原”だった。
「おいおい、朝のホームルームに向かってたら“夢の国”に来ちゃったみたいなんだけど……?」
翔太郎は頬を引きつらせながら、校舎内に出現した異常な空間を見渡した。
目の前には、一面の銀世界。靴の裏にはしっかりと雪が付着し、白い息が宙に浮く。
璃桜が静かに言う。
「……現実変質率が高すぎる。“夢転写型アニマ”ね。夢で見た情景を、現実に引きずり出す能力」
その中心――中庭に立っていたのは、真っ白なマントを羽織り、目を閉じて微笑む悠だった。
「……雪の精霊が、僕に言ったんだ。“今日は寝ていた方が正解だよ”って」
「いやいやいやいや、“今日寝てた方がいい”のは誰しも思ってるけど、マジで空間ごと夢にするのはやりすぎだからな!?」
翔平が後ろで叫ぶ。
その瞬間――
雪原の向こうに、巨大なキノコの森が出現した。空には逆さまに浮かぶ月が並び、時計塔の鐘が水中のように鈍く響いた。
「完全に夢じゃねーか!!」
璃桜がノートを開いて眉をひそめた。
「悠の精神状態が、夢に強く依存してる。つまり今、彼は“夢の世界の方が正しい”と感じてるのよ」
「……あいつ、昨日“現実に疲れた”って呟いてたな。多分、無意識で“逃げた”んだ」
翔太郎は、真っ白な息を吐きながら中庭に足を踏み出した。
「悠!」
悠はゆっくりと振り向いた。
その目には、焦点がなかった。けれど、笑っていた。
「ここは静かで、誰も急かさないんだ。問題も、成績も、未来も、全部“来なければ存在しない”って言ってくれる。いいだろう?」
「……気持ちは、わかるよ。俺も現実が嫌になるときはある」
「だったら、来ればいい。この世界は、優しいぞ」
その言葉と共に、翔太郎の足元がゆらりと崩れ、地面が“ふわふわの雲”に変わる。
「おいぃいい!?靴のグリップが効かない現実ってなんなんだよ!!」
翔平の悲鳴が後ろで響いた。
「……でも、悠。お前がいる“夢の世界”って、誰も触れられない場所だよな?」
悠が微笑んだまま、問う。
「それが、なにか?」
「誰にも頼れない場所に、ずっといたいと思う?」
その瞬間――
悠の表情が、ふっと陰った。
「……本当は、ちょっとだけ寂しい。だけど、現実で失敗するのも、誰かに怒られるのも、怖いんだ」
翔太郎は、手を伸ばした。
「だったら一回、戻ってこい。失敗しても怒られても、俺らが一緒に“笑い話”にしてやるからさ」
「夢の世界が悪いわけじゃない。でも“夢だけ”じゃ、生きていけないって、お前自身が一番わかってるんじゃないか?」
悠は――黙って、空を見上げた。
そこには逆さの月。
そして、ほんの少しだけ、涙のような雪が舞っていた。
雪が舞う。
でもそれは、“冷たい”というより、“音もなく包み込む”ような優しさだった。
空に浮かぶ巨大な逆さ時計からは、秒針がぽとぽとと落ちていた。地面に落ちるたび、どこかで誰かの“ため息”が聞こえる。
翔太郎は、そんな“ファンタジーすぎる風景”に、ちょっとだけうっとりしていた。
「……にしてもすげぇな。夢の中って、こんな自由で、こんな綺麗なんだな」
後ろで璃桜が静かに言う。
「これは悠の“無意識”が作った世界。彼にとって、“理想の静けさ”と“逃げ場所”が、この風景なのよ」
「でもよ……本当にそれだけなのか?」
翔太郎は中庭の中心、雪の塔に立つ悠を見つめながら呟く。
「俺には、“綺麗なだけじゃない”気がする。こいつ……ずっと、この場所で“待ってた”みたいな顔してた」
璃桜が目を伏せた。
「悠は“問題を解決したい”というより、“問題のない世界にいたい”タイプ。でも、その裏で――“誰かに声をかけてほしい”とも思ってるのよ」
「矛盾してるな」
「人間なんて、だいたい矛盾でできてるわ」
翔平がそのとき、横からひょっこりと顔を出した。
「なぁ、俺に任せてくれない?“夢の住人”って、ちょっと憧れてたんだ」
「お前が行ったら、火に油だろ」
「大丈夫。“夢の中でしかできないボケ”を、ひとつ用意してきた」
翔平はそう言って、空中に向かってジャンプした。すると――
「おおおお!?空中に“跳ね返された”!?」
彼の体は宙でぐにゃんと曲がり、ゴムのように地面にバウンドした。
「うおおお……この世界、“ジャンプ制限”がある……ってことは、“まだ無意識の拒絶”が残ってるな……!」
璃桜が分析する。
翔太郎は、真っ直ぐに悠に向かって歩き出した。
「なぁ、悠。お前、今ここにいて幸せか?」
悠は静かに、雪の塔の上から答えた。
「うん。何も起きないし、誰も傷つけないし、誰にも傷つけられない。ここは、“完璧な避難所”なんだ」
「でも、そこに“俺たち”はいないじゃんか」
悠のまつ毛が、少しだけ震えた。
翔太郎は続ける。
「お前、気づいてるんだろ?この夢が“終わらない”ってことは、どこかで“現実に戻らなきゃ”って思ってる証拠だよ」
「……思ってるよ。でも、それと同じくらい怖いんだ。“戻ったあとにまた傷ついたらどうしよう”って」
「だったらさ。せめて、“戻る時くらいは誰かと一緒”にしようぜ」
悠の目が、大きく見開かれた。
「現実は怖いし、面倒なことも多い。でも、俺たちは“逃げ場所”にはなれなくても、“帰る場所”にはなれるかもしれないだろ?」
その瞬間。
空に浮かんでいた逆さの月が、ゆっくりと回転を始めた。
「世界が……回り始めた……!」
璃桜が呟く。
「悠の中で、“変化”が始まってる。この夢は、“自分を守るための壁”だった。でもその壁に、今、扉が開こうとしてる」
雪が溶ける。
空が青に戻る。
草木が芽吹く。
そして、悠の足元から、夢の塔が静かに崩れていった。
悠は、一歩、翔太郎のもとへと歩みを進める。
「……ありがと。ずっと、誰かに“迎えにきてほしかった”んだ、俺」
翔太郎は、笑った。
「ようこそ、お帰り。現実ってやつへ」
(第29話 完)