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【第29話】悠、夢に住みはじめる

 ――廊下の角を曲がった瞬間、そこに広がっていたのは“雪原”だった。

「おいおい、朝のホームルームに向かってたら“夢の国”に来ちゃったみたいなんだけど……?」

 翔太郎は頬を引きつらせながら、校舎内に出現した異常な空間を見渡した。

 目の前には、一面の銀世界。靴の裏にはしっかりと雪が付着し、白い息が宙に浮く。

 璃桜が静かに言う。

「……現実変質率が高すぎる。“夢転写型アニマ”ね。夢で見た情景を、現実に引きずり出す能力」

 その中心――中庭に立っていたのは、真っ白なマントを羽織り、目を閉じて微笑む悠だった。

「……雪の精霊が、僕に言ったんだ。“今日は寝ていた方が正解だよ”って」

「いやいやいやいや、“今日寝てた方がいい”のは誰しも思ってるけど、マジで空間ごと夢にするのはやりすぎだからな!?」

 翔平が後ろで叫ぶ。

 その瞬間――

 雪原の向こうに、巨大なキノコの森が出現した。空には逆さまに浮かぶ月が並び、時計塔の鐘が水中のように鈍く響いた。

「完全に夢じゃねーか!!」

 璃桜がノートを開いて眉をひそめた。

「悠の精神状態が、夢に強く依存してる。つまり今、彼は“夢の世界の方が正しい”と感じてるのよ」

「……あいつ、昨日“現実に疲れた”って呟いてたな。多分、無意識で“逃げた”んだ」

 翔太郎は、真っ白な息を吐きながら中庭に足を踏み出した。

「悠!」

 悠はゆっくりと振り向いた。

 その目には、焦点がなかった。けれど、笑っていた。

「ここは静かで、誰も急かさないんだ。問題も、成績も、未来も、全部“来なければ存在しない”って言ってくれる。いいだろう?」

「……気持ちは、わかるよ。俺も現実が嫌になるときはある」

「だったら、来ればいい。この世界は、優しいぞ」

 その言葉と共に、翔太郎の足元がゆらりと崩れ、地面が“ふわふわの雲”に変わる。

「おいぃいい!?靴のグリップが効かない現実ってなんなんだよ!!」

 翔平の悲鳴が後ろで響いた。

「……でも、悠。お前がいる“夢の世界”って、誰も触れられない場所だよな?」

 悠が微笑んだまま、問う。

「それが、なにか?」

「誰にも頼れない場所に、ずっといたいと思う?」

 その瞬間――

 悠の表情が、ふっと陰った。

「……本当は、ちょっとだけ寂しい。だけど、現実で失敗するのも、誰かに怒られるのも、怖いんだ」

 翔太郎は、手を伸ばした。

「だったら一回、戻ってこい。失敗しても怒られても、俺らが一緒に“笑い話”にしてやるからさ」

「夢の世界が悪いわけじゃない。でも“夢だけ”じゃ、生きていけないって、お前自身が一番わかってるんじゃないか?」

 悠は――黙って、空を見上げた。

 そこには逆さの月。

 そして、ほんの少しだけ、涙のような雪が舞っていた。



 雪が舞う。

 でもそれは、“冷たい”というより、“音もなく包み込む”ような優しさだった。

 空に浮かぶ巨大な逆さ時計からは、秒針がぽとぽとと落ちていた。地面に落ちるたび、どこかで誰かの“ため息”が聞こえる。

 翔太郎は、そんな“ファンタジーすぎる風景”に、ちょっとだけうっとりしていた。

「……にしてもすげぇな。夢の中って、こんな自由で、こんな綺麗なんだな」

 後ろで璃桜が静かに言う。

「これは悠の“無意識”が作った世界。彼にとって、“理想の静けさ”と“逃げ場所”が、この風景なのよ」

「でもよ……本当にそれだけなのか?」

 翔太郎は中庭の中心、雪の塔に立つ悠を見つめながら呟く。

「俺には、“綺麗なだけじゃない”気がする。こいつ……ずっと、この場所で“待ってた”みたいな顔してた」

 璃桜が目を伏せた。

「悠は“問題を解決したい”というより、“問題のない世界にいたい”タイプ。でも、その裏で――“誰かに声をかけてほしい”とも思ってるのよ」

「矛盾してるな」

「人間なんて、だいたい矛盾でできてるわ」

 翔平がそのとき、横からひょっこりと顔を出した。

「なぁ、俺に任せてくれない?“夢の住人”って、ちょっと憧れてたんだ」

「お前が行ったら、火に油だろ」

「大丈夫。“夢の中でしかできないボケ”を、ひとつ用意してきた」

 翔平はそう言って、空中に向かってジャンプした。すると――

「おおおお!?空中に“跳ね返された”!?」

 彼の体は宙でぐにゃんと曲がり、ゴムのように地面にバウンドした。

「うおおお……この世界、“ジャンプ制限”がある……ってことは、“まだ無意識の拒絶”が残ってるな……!」

 璃桜が分析する。

 翔太郎は、真っ直ぐに悠に向かって歩き出した。

「なぁ、悠。お前、今ここにいて幸せか?」

 悠は静かに、雪の塔の上から答えた。

「うん。何も起きないし、誰も傷つけないし、誰にも傷つけられない。ここは、“完璧な避難所”なんだ」

「でも、そこに“俺たち”はいないじゃんか」

 悠のまつ毛が、少しだけ震えた。

 翔太郎は続ける。

「お前、気づいてるんだろ?この夢が“終わらない”ってことは、どこかで“現実に戻らなきゃ”って思ってる証拠だよ」

「……思ってるよ。でも、それと同じくらい怖いんだ。“戻ったあとにまた傷ついたらどうしよう”って」

「だったらさ。せめて、“戻る時くらいは誰かと一緒”にしようぜ」

 悠の目が、大きく見開かれた。

「現実は怖いし、面倒なことも多い。でも、俺たちは“逃げ場所”にはなれなくても、“帰る場所”にはなれるかもしれないだろ?」

 その瞬間。

 空に浮かんでいた逆さの月が、ゆっくりと回転を始めた。

「世界が……回り始めた……!」

 璃桜が呟く。

「悠の中で、“変化”が始まってる。この夢は、“自分を守るための壁”だった。でもその壁に、今、扉が開こうとしてる」

 雪が溶ける。

 空が青に戻る。

 草木が芽吹く。

 そして、悠の足元から、夢の塔が静かに崩れていった。

 悠は、一歩、翔太郎のもとへと歩みを進める。

「……ありがと。ずっと、誰かに“迎えにきてほしかった”んだ、俺」

 翔太郎は、笑った。

「ようこそ、お帰り。現実ってやつへ」

(第29話 完)


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