「……翔太郎、今日の朝ごはん、オムライスだったの。ケチャップで『ファイト』って書いてあったんだけど……うん、すっごくまずかった」
「えっ、なんかその話、感動的な導入かと思いきや地味に辛辣だな!?」
「いや、だから……“まずかった”っていうのは嘘で……」
「は?」
「……ほんとは、“おいしかった”。でも、口から出ると“逆の意味”になるの……」
教室に着いたばかりの翔太郎は、璃桜の妙な言動に首をかしげるばかりだった。
彼女はいつも冷静沈着で、言葉選びには誰より慎重なはずだ。だが今日は、口を開くたびに“妙な違和感”が付きまとっていた。
「うん……今日の天気、最悪ね。傘いらなかったし、濡れて最悪だった」
「……いや、今日ずっと快晴だし、“傘いらない”のは合ってるし……てことはそれ嘘なのか?」
「……正解」
「なにその、嘘の中に真実を混ぜたパズルみたいな会話!?」
翔平が顔を覆いながら頭を抱える。
「これは……“逆信号アニマ”ね」
璃桜の隣にいた圭が、眼鏡をクイッと押し上げながら呟く。
「発した言葉が、意図と逆に出力される現象。つまり、“真実”を話そうとすると“嘘”になる。逆に“嘘をつこう”とすると、それが“真実”になる」
「じゃあ……『翔太郎、嫌い』って言われても、実は……」
「それ以上言うなァアアア!!」
翔太郎が耳をふさいで叫んだ。
璃桜は、ちょっとだけ顔を赤らめながら、ぽそっと呟いた。
「……“翔太郎なんて大嫌い”よ。全然信用してないし、いつも変なこと言うし、うるさいし、顔も見たくない」
「うぉぉぉぉおおおお!嘘ってわかってても心にくるぅううう!!」
璃桜が無言で頭を下げた。目の端には、じんわりとした申し訳なさが滲んでいる。
だが次の瞬間――
校内放送が響いた。
『璃桜さん、職員室までお越しください。“校長に対して失礼な発言をした件”について確認があります』
「……え?」
「さっき廊下で言ってた“校長のスーツって洗ってない感じがする”って、あれ……」
「“すごく清潔感がある”って言いたかったのに!!」
「なんという、逆転人生!」
こうして、璃桜の“すべてが逆”な一日が始まったのだった――
薄曇りの午後、教室の隅に残された静寂が、先ほどまでの喧騒を徐々に吸い込んでいく。真由子との“ありがとう合戦”で一時は笑い声と感謝の言葉が空間を満たしていたのも、今は遠い過去のように感じられる。璃桜は、窓辺に立ちながら、深く息をついた。今日の出来事は、いつも彼女が大切にしてきた「言葉の選択」が、あっという間に自分の意思とはかけ離れた形で外に流れ出し、周囲に大きな影響を及ぼしてしまうという恐怖を伴っていた。自分の内面の真実を、口に出すたびに必ず反転してしまう不条理さに、彼女は耐えかね、何度も心を叩いていた。
「……私、どうしてこんなに、真実をしゃべれないんだろう」
璃桜は、手にした観測ノートに何度もペンを走らせながら呟く。彼女は、常日頃から自らの発する言葉に慎重であった。まるで、言葉一つひとつが「現実を作り替える力」を持っているかのように、正確に選び、磨き上げる日々を送ってきた。しかし、今やその努力すら裏切られ、彼女の本来の声は、何かしらのアニマの干渉によって「偽りの出力」として固定され、周囲に流されてしまう。
教室のドア越しに、クラスメイトたちのざわめきが聞こえる。誰もが、彼女の発言のたびに微妙な違和感を覚え、視線を逸らしていた。ある者は、自分の中で「それは違う」と反発しながらも、誰にも言えずにいる。そんな中、璃桜自身は、内心の不快感と戦いながら、ついに決心を固める。
「私には、自分の真実というものがある。それを、もう誰かの基準に合わせるために変えたくはない。もし仮に私の口から出る言葉が、いつも逆に伝わってしまうのなら、今こそ、静かに心の中でその真実を確かめるべき時かもしれない」
彼女は、窓の外を眺めながら、過去を思い起こす。幼い頃、家族と一緒に穏やかな夕暮れを見たあの瞬間。父親が「君は特別な子だ」と微笑みながら言った言葉。そんな思い出が、今の彼女の心にほのかに温かく灯っていた。だが、同時に彼女は、社会という大きな機械の中で、常に「礼儀」や「正しさ」といった形式に縛られて生きることへの限界も感じていた。
「本当の私を、そのまま伝えられなくても、私は私でいたい」
璃桜は小さく呟くと、自身の指先でテーブルの上をトントンと軽く叩き始めた。その音は、かすかに規則正しく、しかし心の中で渦巻く混沌を少しだけ整理するかのようだった。
教室の中は、まだ一部の生徒が自分の席で話し合っている。誰一人として璃桜の言葉の「真意」を尋ねようとはしない。彼らはただ、日常の中で許される範囲で「おとなしく」振る舞い続ける。しかし、璃桜はその中で、あえて自分の感情と対話することを選んだ。
「もしかして、私の声は……出ないまでも、表情や仕草でしか伝わらないのかもしれない」
彼女は自分の眼差しを、真剣に鏡に向けたような気がして、思い切って自分の表情をみつめ返す。そこには、いつもの穏やかな微笑みだけでなく、どこか苦渋を含んだ影が重なっていた。
「私には、真実を語る『自由』があるはず。けれど今は、それすら奪われてしまっている」
その言葉を、璃桜は心の中で繰り返した。彼女は、まるですべての重みが溶けていくのを待っているかのように、深い呼吸を続けた。
やがて、部屋の隅から、ゆっくりと声が響いた。誰かが、静かに、しかしはっきりと――
「璃桜さん、あなたはそのままで十分美しい」
その声は、以前から近くにいた誰かが、彼女の内面の苦悩に気づき、そっと心を込めて囁いたものだった。翔太郎か、あるいは真吾の、柔らかい声かもしれない。誰であれ、その一言は、璃桜の内側に閉じ込めた真実を、かすかに解放する力があった。
璃桜は目を細め、静かにその声に耳を傾けた。彼女は、もう過ぎた無数の“選択肢”や、“自分の声を奪われる恐怖”を思い出していた。しかし、今は違う。
「ありがとう……」
その一言は、これまで彼女が内に秘めてきたすべての想いの重みを、ほんの少しだけ軽くする魔法のように、空気に溶け込んでいった。
外では、夕暮れの光がやわらかく校庭を染め、風が窓を通り抜ける音だけが、かすかなリズムを刻んでいた。生徒たちは、いつものように静かに教室へ戻り、誰もが自分自身のペースで日常へと戻ろうとしていた。
璃桜は、重いノートを握りしめながら、ふと一つの考えに至った。
「もし私が、これから先、ありのままの自分を語ることができなくても、誰かがその心を感じ取り、受け止めてくれるなら……それでいいんじゃないか」
その思いは、やがて彼女の顔に穏やかな微笑みをもたらした。完璧な言葉ではなくとも、その目には十分な輝きが宿っていた。
そして、教室の隅にいた翔太郎がそっと声をかける。
「璃桜、俺たちは全部知ってる。お前のこと、全部。だから、安心して自分の気持ちを大事にしてくれよ」
その言葉に、璃桜はしばしの沈黙の後、ゆっくりと頷いた。
「わかった……ありがとう」
その瞬間、壁の向こうに映っていたアニマの残像が、やわらかく光の中に消え、教室全体に「真実」が少しずつ戻っていくような、温かくも切ない空気が漂い始めた。
(第31話 完)