朝の校門前。なんだか今日はやけに空気が澄んでいるように感じられた。
「……おい、あれ、見てみろ。あの人、動いてなくね?」
翔平の一言で視線を向けると、校門前に立つ中年の男性が、まるで銅像のように静止していた。けれど、そのポーズといい、衣服のシワの再現度といい――どう見ても“彫像”そのものだった。
「え、マネキン……?ってレベルじゃないよなこれ」
「近寄らない方がいい。これは……“変換型アニマ”。感動に反応して、“現実のもの”を“美術作品”に変換してしまう現象」
璃桜の声が、背後から響いた。
「……で、その原因となってるのが――たぶん、華子」
「またかよッ!?あいつ何かしらやらかすよな!!」
翔太郎が慌てて駆け出した先、中庭の花壇に立つ華子が、陽光に照らされた花を前に、うっとりとした表情でスケッチブックを開いていた。
「美とは――瞬間に宿る」
そう言って、彼女が指を一本、空にかざす。
その瞬間、花壇のチューリップが、“ガラスの工芸品”になった。
「うわあああああああああああ!!」
翔太郎が後ろから抱きかかえるように華子を止めた。
「待て!これ以上“美”を撒き散らすな!街が“展示会場”になるぞ!!」
「だって、だって……この世界は美しすぎるの!私はこの感動を、永遠に残したいのよ!!」
「その“永遠”で人がどんどん“生き物じゃなくなってる”って気づいてくれ!」
そこに瑞紀と純が駆けつけてきた。
「お、おばあちゃんが“刺しゅう絵”にされた……!動かないけど、すごく上手に縫われてる……!」
「俺の弁当が“油絵”に……しかも、具が写実的すぎる……!」
璃桜が、冷静にノートをめくる。
「このアニマ、“美への感動”に反応するから、感性の鋭い華子に取り憑くと危険すぎる。解除するには、“瞬間の美”よりも、“時間の流れ”の価値を伝える必要があるわ」
翔太郎がため息をつきながら呟く。
「つまり、華子に“今この瞬間をアートにするより、誰かと一緒に笑ったり怒ったりしていく方が美しい”ってわからせればいいってことだな」
華子が振り返る。
「笑う顔も、怒る顔も、みんな“一瞬”の感情の結晶よ?それを“永遠”に変えることに、何の矛盾があるというの?」
その瞳には、確かに純粋な熱があった。
だが――その純粋さゆえに、世界はどんどん“止まり”、そして“冷たく”なっていく。
「……じゃあ、やってみせるしかないな。美じゃなくて、“今の熱”を」
翔太郎は、真っ直ぐに彼女の前へ歩み出た。
「今この瞬間のお前の顔、今まで見た中で一番“人間らしい”ぞ、華子」
「……!」
翔太郎の声が中庭に溶けた瞬間、空気が一瞬止まったように感じた。春の午後、淡く光る陽光の下で、華子の顔がゆっくりと翔太郎の方を向く。その瞳は、相変わらず“何かを見つめている”ような、けれどその“何か”が今は翔太郎自身であるような、不思議な輝きを湛えていた。
「人間らしい顔……」
華子は、胸の前でそっと両手を重ねながら呟いた。
「それって……どんな顔?」
「泣きそうだけど笑ってる顔、だな」
翔太郎は真っ直ぐに答える。
「感動してるくせに、口では文句言ってるとことか。さっきだって、自分で“この世界は美しすぎる”とか言いながら、ガラスの花見てちょっと泣いてたろ」
「……見てたの?」
「うん。で、“この人、感動しすぎて逆に美術館爆破するタイプだな”って思ってた」
「爆破しないわよ!!」
華子が思わず声を上げると、璃桜が横で小さく頷いた。
「そう、その反応よ。今のあなた、作品じゃなくて“会話してる”」
「……あ」
華子が口をつぐむ。
その瞬間、近くの木に変化が現れた。
ついさっきまで“青銅製の風景画”に変えられていた桜の木が、ゆっくりと“本物の枝”へと戻り始めたのだ。風に揺れた枝が、かすかに花びらを散らすと、まるでそこに“鼓動”が戻ったかのような錯覚を覚える。
「つまり、感動を“誰かと共有”してるときは、このアニマの力が弱まるんだ」
璃桜が静かに分析する。
「“独り占めする美”じゃなくて、“一緒に味わう時間”こそが、華子を“表現者”から“生活者”に戻す鍵なのよ」
「そんなこと……あるのね」
華子は、掌を見つめながら呟いた。
「私、ずっと“形に残すこと”に執着してた。“今”が過ぎ去るのが怖くて。誰かの表情も、風のにおいも、忘れてしまうことが……たまらなく、嫌だったの」
「でも、忘れてもいいこともあるし、忘れたくないことは“誰かと一緒にいた”って記憶が残るだろ?」
翔太郎は、あくまで平然とした顔で言った。
「たとえば俺、さっきの“花がガラスになった”の、たぶん10年後も忘れてると思うけど――」
「えっ」
「でも、お前が“それで泣きそうになってた顔”は、きっとなんとなく、ずっと残ってる気がする」
華子の口元がふるりと震えた。
「……なにそれ、ずるい。そういうの、私が一番好きなやつじゃん」
「そう思ったなら、もう“彫像”じゃなくて“抱きしめてくれる人”の隣にいればいい」
「なにそれ、プロポーズ?」
「違うわ。人間的発言ってだけだわ!」
璃桜がぴしゃりと割り込む。翔太郎はすぐさま顔を背けた。
「あ、あの、ごめん、無意識だった。そういうのマジで無意識なんだ俺!」
「いいよ。翔太郎、そういうの“アートの逆”って感じで好き」
「どういう意味だよ!」
しかし、その会話の中、街のいたるところで変化が起きていた。
ベンチに座っていた“ブロンズ像のおじいさん”が、くしゃみとともに人間に戻り、「どこまで昼寝してたんだろう」と頭を掻きながら立ち上がる。
歩道の脇に設置されていた“花瓶に入った野菜”も、普通の八百屋の野菜に戻り、通りがかった主婦が「あらやだ、ちょっと新鮮じゃないの」と呟く。
「……この街、ちょっとだけ“生き返った”気がするな」
翔平がどこからともなく現れ、空を見上げて言った。
「アートって、“死んだ瞬間を保存する”って側面もあるけど、今の華子の感情はむしろ“生きる瞬間”を引き止める力になってる」
「でも、それってたぶん、保存じゃなくて共有だよね」
華子は、スケッチブックをそっと閉じた。
「“描く”ことはやめない。でも、“残す”ためじゃなく、“一緒に感じた証拠”として描きたい。今は、そう思える」
翔太郎はうなずいた。
「その方が……俺は、好きだな。なんか、“人間”って感じで」
「またそれ。今日の翔太郎、やたら褒めてくるわね。なに、アニマでも憑いてるの?」
「いや、なんか“普通に思っただけ”なんだけど……って、俺もう“普通”でいいわ!!」
璃桜が小さく笑った。
「それ、翔太郎にとっては最大級の肯定よ」
夕暮れ、街にはふたたび雑音と風のにおいが戻ってきた。完璧な構図じゃない、少し歪で、でもあたたかな景色の中で、華子はそっと息を吐く。
「やっぱり、“未完成”って美しいのね」
(第32話 完)