朝の校門前、通学路。春の光が差し込む、いつも通りの風景――の、はずだった。
「おはようございます。あの、私……ここで何か、誰かを待ってる気がするんですけど……」
杏菜が自分の声に違和感を覚えながら、立ち止まっていた。
前日もその前の日も、同じようにこの場所で“初対面の誰か”を待っている気がしていた。そして、その度に現れるのが――
「……君も、初めまして、って顔してるね」
翔真が、斜め後ろから現れてそう言った。
「え……え?あの、私……どこかで……」
「うん、たぶん五回目くらいの“初めまして”だと思う」
「なにそれ怖っ!?ストーカー系の人!?」
「いや違う違う、たぶん君も俺と同じで、“一日がループしてる”感じ、してない?」
杏菜が言葉を失い、次に顔をしかめる。
「……あ、思い出した……ような気がする。昨日も……同じセリフで私が驚いてた」
「でしょ?やっぱり今日も“リピート”だ」
翔真がポケットからメモを取り出して見せた。
『この会話をしたら三度目』
と書かれていた。
「ほら、俺なりにちょっとずつ“昨日”を覚えようとしてるんだ」
「ってことは……本当に、何度も繰り返してるってこと!?」
「そう。“アニマ”の影響かどうかはわからないけど、少なくとも俺と君だけは、記憶を少しずつ持ち越してる」
杏菜が、頭を抱えた。
「最悪……!デートの練習も会話の練習も、全部“明日には初対面”ってことじゃん!」
「いや、なんで“デート前提”なの!?」
「なんか前のループで言った気がする!」
翔真が笑う。
「この調子だと、今日も“同じような一日”になるんだろうけど……」
「……でも、少しだけ違うわ。だって私、あなたの顔、前より“ちゃんと覚えてる”もん」
「嬉しいこと言うね」
杏菜は笑いながら、真面目な顔になる。
「つまり私たちは、記憶は繰り返しても、“感情”はリセットされてないってことかもしれない」
「記憶がダメでも、心が残ってる、って感じかな」
「……ラブコメみたい」
「でも現実はアニマコメだからな!」
翔太郎の叫びが、遠くから飛んできた。
「お前ら、そろそろループの出口探せよ!!学年末テストに3日連続で挑んでんだぞこっちは!!」
「ほんと!? えっ、じゃあ今日も“同じテスト”受けてんの!?」
「毎回少しずつ問題違うのが腹立つんだよおおおお!!」
昼休み。屋上。青空が広がるが、その下にいる翔真と杏菜は、何ともいえない空気に包まれていた。
「……で、今日で何回目だったっけ?」
「えっと、たぶん……八回目、かな?」
「わぁ……ついに“初対面じゃない初対面”が一週間分……ってもう曜日の感覚ないな」
杏菜が弁当箱を開ける。中身は卵焼きとウィンナーと、おにぎり。
「今日のは、ちょっと塩強めかも」
「それ昨日も言ってた気がする」
「えっ!?あたし昨日もこの弁当だった!?毎日同じもの食べてるってこと!?」
「いや、内容が少しずつ違ってるっぽいんだよ。昨日は鮭、今日は昆布だったし。つまり、外界は繰り返してるけど、細部は毎回更新されてるってことじゃないかな」
翔真が理論的に説明しながらも、その手にはすでにループ観測メモ10ページ分が挟まれていた。
「でもさ、結局“俺と杏菜”以外、誰もループのこと気づいてないってのが一番こわくない?」
「うん、うちのクラスメイトとか、毎回同じ話してるんだけど、微妙にボケのテンポずれてきてて地味にストレス」
「翔平とか、“ツッコミのリズムが1ミリずつ遅れてる”のが気になるんだよね」
「観測する側の恐怖やば……」
「でも、逆にそれがヒントだと思う。時間の流れが完璧に固定されてるなら、ズレないはずだし」
「じゃあ……ループの“開始点”を変えられたら、何か起きるってこと?」
翔真は小さく頷いた。
「今まで、起きる時間も登校も、全部いつも通りにしてたからな。今日の放課後、少しずつ“パターン”変えてみよう」
「具体的には?」
「いつもは真っ直ぐ帰ってるけど、今日は途中で寄り道する。俺は商店街に寄ってみるつもり。杏菜は?」
「私は図書室。なんか“記憶が重なる感覚”があったのって、本を読んでるときだったから」
「じゃあ、お互い“今日だけ”は違う選択してみよう」
二人は弁当箱を閉じた。
そして、同時に気づいた。
「……あれ?私……今“翔真”の名前、自然に呼んだ……」
「……俺も“杏菜”って、さっき何の引っかかりもなく言ってた」
「やば……“名前の記憶”が、ついに残ってる」
「ってことは……俺たち、今日でループ抜けるかもしれない」
その時――
空が、ピシィッと“亀裂のように”裂けた音がした。
屋上の風が一瞬止まり、鳥の鳴き声も、教室の喧騒も、すべてが“サンプル音源”のように停止した。
「来る……これは、アニマのコアが動いてる合図だ」
翔真がメモ帳を握りしめ、立ち上がった。
「杏菜、今日は本気で動く。明日を“変える”ために」
「うん。……もう、“今日の私”だけじゃ、足りないから」
二人は、屋上から駆け出した。
時計の針が、かすかに“逆回転”を始めていた。
放課後の校舎は、少しずつ影を落とし始めていた。陽が傾きかけた廊下には、日中の喧騒とは違う、静かで柔らかな時間が流れていた。
翔真は校門を出たあと、そのまま住宅街を抜けて駅前の商店街へ向かった。
通りはどこか懐かしい匂いがした。惣菜屋からはコロッケの揚がる音が聞こえ、書店の前には立ち読みの高校生。豆腐屋の看板犬が寝ぼけたようにあくびをしていた。
(この景色も、もう何回目なんだろう)
翔真は自分の内側で、時折うっすらと浮かぶ“デジャヴ”の正体を追っていた。アニマの影響によってループしているのは確か。だが、繰り返しながらも彼と杏菜だけが記憶の一部を保持し、少しずつ“前に進める”感覚を得ている――そこに何か意味がある気がしてならなかった。
「お兄さん、今日も来たね」
商店街の花屋の店主がにっこり笑う。
「“今日も”って……初めてのつもりなんですけど」
「そうかい?この顔、三日前にも“この花が気になります”って訊いてた気がするけどねえ」
翔真の背筋がぞわりとした。花屋の店主の言葉は、彼の記憶にあるものとは一致しない――なのに、彼女の表情は「確かに見た」人間のそれだった。
「……もしや、俺たち以外にも“少しだけ記憶を持ってる人”がいる……?」
商店街を歩く人々の中に、そんな違和感を持つ者が数人いるとしたら。ループの鍵は“記憶”だけじゃなく、“感情の濃度”なのかもしれない。
***
一方そのころ、杏菜は図書室の奥の隅で、薄い青い背表紙の本を手に取っていた。
タイトルは『時間とわたしの歩き方』。著者は不明、貸出記録もない。けれど、なぜか手に取るたびにページが違う内容になっている。
(この本、前回は“運命の改行”って章だったのに……今日は“いちどしか来ない一日”って書いてある)
内容は奇妙だった。“時間が繰り返す世界では、感情だけが真実を導く”という主張が繰り返され、最後にはこんな一節で締めくくられていた。
――たとえ記憶が残らなくても、心が揺れたなら、それは次の日にも微かに波紋を残す。君が“本当に誰かを想った日”は、繰り返しの中で唯一、未来を変える鍵になる。
杏菜はその言葉に、ふと翔真の顔を思い浮かべた。昨日の彼は、今よりもっと他人行儀だった。今日の彼は、妙に“自然”だった。つまりそれは、翔真の中でも“私のことを知っている”という実感が強くなってきているということ――つまり、彼も“感情に引っ張られている”のだ。
(だったら、私も――ちゃんと伝えよう)
杏菜は立ち上がり、図書室をあとにした。向かう先は、商店街。
もう一度、“出会う”ために。
***
「よ」
「――!」
曲がり角の八百屋の前。翔真が手を振った。杏菜が息を弾ませながら駆け寄る。
「……なんで、ここにいるってわかったの?」
「いや、わかったわけじゃない。ただ、なんとなく“今日の杏菜なら、動く”気がしただけ」
「……うん。動いた。だって、止まってるのが一番、こわかったから」
二人の間に流れる沈黙が、優しく、しかし不確かな緊張を孕んでいた。
「なあ……これが最後かもしれないって思って、ちょっと言いたいことがある」
翔真が真剣な目をして口を開く。
「今日、杏菜に何度目かに会って、“名前を呼ばれた”時……たぶん、俺ちょっと泣きそうになってた。記憶じゃなくて、気持ちが残ってたのが嬉しかったんだと思う」
杏菜は、ふいに視線を逸らした。
「それって……ずるいよ」
「なんで?」
「……だって、私も同じこと考えてたのに。先に言われると、なんか……感動しにくくなるじゃん」
「はは、なんだそれ」
「でも……ありがとね。覚えてくれて」
その瞬間、二人の足元に、淡い光が滲んだ。地面に“無限マーク”のような形が浮かび、それがゆっくりと収束していく。
「これ……終わる……?」
「いや、“続く”のかもな。今度こそ、ちゃんと次の日に」
夜風がそっと二人の間を通り抜ける。風の中に、リセットではなく“始まり”の気配があった。
(第33話 完)