「おはよー……」
その声が、誰のものだったか判別できなかった。
それもそのはず。クラス全員の声が、同じ音程、同じボリューム、同じ抑揚で発せられていたのだから。
翔太郎は教室のドアを開けて、まず“無音の圧”にぶち当たった。
「え、なにこれ……怖っ!?全員が“おはよう”って言ったのに、音が……“中音”しかない……!」
「誰がしゃべってるのか全然わかんねぇ!」
翔平が耳をふさぎながら叫ぶも、彼の声も、いつのまにか“中音”に均されていた。
「うおお、俺の叫び声が“公共放送みたいなトーン”になってる!」
璃桜がノートを開く。
「これは……“均衡強制型アニマ”。周囲の音量、感情、温度、明度など、あらゆるものを“中間値”に揃えようとする特性。取り憑かれた宿主の“調和欲求”を、現実に拡張する作用がある……」
「で、その宿主が――」
翔太郎が視線を向けた先、窓際で静かに黒板を拭いていたのは、雄基だった。
まるで“空気と同化”しているかのような存在感。いつも控えめで、争いを避ける男。だがその“優しさ”が、今や街を“完全な無音世界”に染め上げようとしていた。
「雄基、ちょっと聞きたいことがあるんだけど――」
翔太郎の声が、完全に“棒読みナレーション”になった。
「……うわあ、感情乗せられねぇ!表現力まで均された!!」
「たぶん雄基の半径10メートル内では、声色も表情も“平均化”される仕様になってるわ」
璃桜が淡々と分析する。
「やべえって!今この空間、クラス全員が“音読テスト中”みたいなテンションじゃん!」
翔平が机を叩く――はずだった。
だがその音も、“ポン”という軽やかな、まるで“赤ちゃんの太鼓”のような音に変換されていた。
「うそだろ!?打撃音まで調和されてる!?」
そのとき、校内放送が流れる。
『お知らせします。現在、校内のエアコン温度は自動的に“23.5℃”に固定されました。照明も“明るすぎず、暗すぎない”設定へと切り替えています。騒音、歓声、静寂のバランスが調整されましたので……』
「もはや“学校版ノイズキャンセリング”!?」
「このままだと、街全体が“平坦化”される……!」
璃桜がつぶやく。
そして、雄基は静かに振り返った。
その顔には、確かな優しさと、そしてどこか“恐ろしいまでの諦念”が浮かんでいた。
「……うるさいのも、静かすぎるのも、誰かが傷つくなら、僕は……“間”を取りたいだけなんだ」
その“善意の暴走”が、すでに限界を迎えようとしていた。
教室の中は、もはや“音の無風地帯”だった。
笑い声は、息を押し殺すような「フフ……」に変わり、怒号は「やめてください」一本調子に削られ、机の軋みでさえも電子音のような“規格化されたノイズ”へと変質していた。
翔太郎は、唇を噛みながら雄基に声をかけようとした。しかし、そこには“抑揚のない発音しか出てこない”という物理法則のような力が働いている。
「……ゆうき……おまえ……ちょっと……だけでいいから……きいて……くれ」
まるでカーナビの読み上げ音声のようなトーンに、自分で鳥肌が立った。
雄基はその声に、うっすらと眉を寄せた。
「……みんなの音が、バラバラになると、傷つけ合うから。だから、僕は、全部を、平均にする」
「違う、それじゃ“生きてる”とは言えねぇ!」
翔太郎の叫びは、やはり“棒読み”だった。熱量が出せない。強調もつけられない。だが、それでも言葉は止まらなかった。
「感情ってのは、振れ幅だろ。笑って、怒って、泣いて、叫んで、それが“人間のうるささ”なんだよ!」
翔平が勢いよく突っ込んできた。
「だいたい、“静かにしたい”って思った結果が、“世界中の音を平均化”って、やりすぎなんだよ!俺のギャグが全部“しん……”てなるんだぞ!?地獄かよ!!」
「たとえば?」
「今朝さ、教室入るときに“おはようの代わりにおはようございまっすぅ~!”ってふざけたら、“平均化されて”『おはようございます』になったんだぞ!?笑いも起きないし、空気も動かない!」
「それは普通に挨拶として正解では?」
「そうなんだけどちがうんだよ!!魂が死んでいくんだよ!!」
そのとき、静かすぎる教室の扉がそっと開いた。
ゆっくりと入ってきたのは、聖子だった。
「静かだね……すごく、好きな感じ。だけど……ちょっと、息苦しい」
彼女は、黒板の前に立って、教室を見回した。
「みんな、声を揃えて、“誰も傷つかない音”になってる。でもそれって……本当に“安心”かな?」
雄基が、ほんの少しだけ目を見開いた。
「誰かの感情が“はみ出す”ことを、怖がってるんだよね。雄基くんは、きっと優しい人なんだ。でもね、感情って、多少は“ぶつからないと”本当の意味で“響かない”と思う」
その言葉に、教室の空気が微かに揺れた。
ふと、教室の一角で芽衣がそっとつぶやいた。
「みんな違って、みんないいって言葉があるけど……それって“音の違い”も“温度の違い”も許されるってことなんだよね」
それに続くように、圭が手を挙げた。
「全てを“中庸”にすることは、確かにリスクを減らす。でも、“熱狂”も“愛情”も、みんな“極端さ”の中にある。君が守ってきた“調和”は、もしかしたら“停滞”だったかもしれない」
そして、璃桜が一歩前に出て静かに言った。
「雄基。あなたが願った“平和”は、きっと間違っていない。でも、世界は“ノイズ”があってこそ、生きてるの。無音の美しさより、喧噪の温かさを、選んでほしい」
そのとき、雄基の足元に浮かんでいた“平均化フィールド”が、ふっと滲んだ。
校舎の窓の外から風が入り、鳥の声が微かに戻ってくる。
誰かの鼻歌。誰かのくしゃみ。誰かの笑い声。
――音が、戻ってきた。
雄基は、そっと目を閉じ、静かに呟いた。
「……うるさいな、みんな。でも、いいね……なんか、泣けてきた」
それは確かに“普通の音”だった。
そしてその声が、クラスの全員を一斉に笑わせた。
(第37話 完)