「そこの……えっと……メガネじゃない方!」
その日、翔太郎は人生でいちばん曖昧な呼ばれ方をした。
「……は?いま俺のこと呼んだ?」
「え?翔太郎……だっけ?……あれ、ちがうっけ?」
「オレ、同じクラスで三年間ずっと席近いよな!?しかも昨日一緒におにぎり分けたよな!?っていうか今朝“おはよう翔太郎”って言ってきたよなお前!!」
翔太郎のツッコミをよそに、美紅は「あー……」と唸りながら首をかしげる。
「変だなぁ……昨日のことも、今朝のことも、なんか記憶がふわふわしてるっていうか……」
「それ、やばいやつじゃねぇか!?しっかりしろ!」
璃桜がすぐさまノートを開きながら、視線を鋭くする。
「“選択的記憶抑制型アニマ”ね。対象の“感情的ストレス”が高い記憶ほど、優先的に忘却される。簡単に言えば、“忘れたほうが楽”って判断した記憶が、自動で削除されていくの」
「つまり、“都合の悪いことだけ”忘れてるってことか?」
「ええ。そしてその判定は、本人の意思ではなくアニマによる“防衛本能”に基づく。つまり、美紅が“自分で忘れた”んじゃなくて、“忘れさせられてる”」
「それ、怖すぎんだろ……!」
翔太郎は思わず美紅の肩をつかむ。
「おい、ちゃんと聞いてくれ!俺のこと忘れるな!この世界で俺の名前覚えてる人そんなに多くないんだからな!?」
「……えっ、それ、ちょっと失礼じゃない?」
「って“そこ”は覚えてんのかよ!!!」
周囲で笑い声が起きたが、その直後。
「……ねぇ、なんで私、さっき笑ったんだっけ?」
美紅が、ぽつりとそう呟いた。
場の空気が凍りつく。
「いまの笑いも……“記憶から抜けた”ってことか?」
翔太郎の声が震えた。
璃桜は小さく頷いた。
「このアニマ、最初は“都合の悪いこと”だけ消す。でも、だんだん判定が甘くなっていく。最終的には、“強く反応した記憶”そのものを手放すようになるわ」
「それって……“嬉しかったこと”とか、“大事にしてた瞬間”も……?」
「全部、抜け落ちる可能性がある」
そのとき、美紅がぽつりとつぶやいた。
「……あのさ、私、目標に向かって突き進むのって、好きだったんだよね。でも、最近……その“目標”が何だったかも、ちょっと曖昧になってて……」
「……!」
翔太郎は息を呑んだ。
「自分で決めた“ゴール”を、忘れてる……?」
美紅は、申し訳なさそうに笑った。
「でもね、不思議と怖くないの。むしろ“忘れてよかった”って、身体がホッとしてる気さえして……」
その笑顔が、どこか“作られた安堵”のように見えた。
「本当にそれで、いいのかよ……」
翔太郎の問いかけに、美紅は一瞬、目を逸らした。
そして、何かを思い出そうとするように、ぎゅっと自分の胸元を握った。
放課後の教室。カーテンが窓から射す夕日を受けて揺れていた。静まり返った室内で、美紅は机に頬杖をつきながらぼんやりしていた。彼女の表情はいつものように明るく、けれどどこか、今ここにない記憶を見つめるように遠かった。
翔太郎は、その様子をそっと窓際から見つめていた。隣には真吾が立ち、律儀に姿勢を正したまま無言で見守っていた。翔太郎がぽつりと漏らす。
「……なんか、あいつの笑顔、最近“加工されてる”みたいに見えるんだよな」
「ええ。心から笑っているように見せかけて、その実、何も感じていないような……。いえ、正確には“感じても、それを忘れてしまうから”かもしれません」
翔太郎がうなだれる。
「たしかに、忘れることで救われることもあるさ。でも、あいつの場合、忘れたことで“大事なものまで剥がれ落ちてる”感じがしてさ……」
翔太郎はふと、ポケットから一枚の写真を取り出す。それは数ヶ月前、体育祭で撮った一枚だった。リレーのバトンを渡す直前の美紅が、顔を真っ赤にして全力疾走している姿。ぶっきらぼうな翔太郎がそれを真横で迎える瞬間。
「……このときさ、あいつゴールして大泣きしたんだ。泣きながら“目標達成、できたかも!”って叫んで……。俺、あのとき初めて、“努力って人の顔に出るんだな”って思ったんだよ」
翔太郎は写真を見ながら眉を下げる。
「でも、こないだその写真見せたら、“え?これ私?”って……完全に忘れてやがった」
真吾が眼鏡を押し上げた。
「記憶が薄れていくことは、“経験”を削るだけでなく、“自分”をも希釈させます。“自分がなにを成したか”の記録が消えていけば、やがて“なぜ今ここにいるのか”すらわからなくなる」
「なあ、俺……あいつにとって、どんな存在だったと思う?」
「……それを訊くということは、“もう忘れられている”前提なのですね」
「まぁな」
翔太郎は苦笑する。
「昼に話しかけたら、“あ、はじめまして?”って言われたからな。笑えねえよ」
そんな彼らの背後から、足音が近づいた。
「あ、ごめん、遅くなっちゃった!」
元気そうな声がして、振り返ると美紅がいつもの笑顔で近づいてきた。
「えっと、あの……私、何か用事あったっけ?」
翔太郎が一歩近づく。
「美紅。俺の名前、覚えてるか?」
「えっ……えっと……“しょ……”?」
「残念。“翔太郎”だ」
「あぁーっ!惜しい!」
「お前、今俺の名前“翔平”と混ざったろ!!」
「えへへ、ごめーん!でも、名前って毎回新鮮でいいよね!」
その言葉に、翔太郎は絶句する。
(新鮮、じゃねぇんだよ……)
「お前さ、最近……“本当は覚えてたいこと”まで忘れてないか?」
「え?」
「たとえば、“目標”とか。昔、言ってたじゃん。“何があっても、諦めない人になりたい”って。あれ、お前自身の言葉だったよな?」
「……そ、そうだったっけ?」
「ほら、それだよ……!」
翔太郎が口をつぐんだその瞬間、美紅の表情がふと曇った。
「ねえ、翔太郎くん」
「……あっ、今名前合ってた!」
「それって、忘れちゃダメなことかな……?」
翔太郎は目を見開く。
「私ね、覚えてると辛いことって、たくさんあって。でも、忘れたあとって、ちょっとだけ、軽くなるの。過去の自分の失敗とか、恥ずかしい気持ちとか、目標に届かなかった思いとか……。ぜんぶ、“なかったこと”になる感じがして」
「……」
「だから、もしかして私って、そもそも“忘れるために努力してた”のかも、って思った」
「それでも!」
翔太郎が一歩前に出た。
「忘れないでほしかったんだよ……お前が頑張ってたこと、俺はちゃんと見てたんだよ!」
翔太郎は震えながら、さっきの写真を差し出す。
「これ、返すわ。お前の目標は“ここ”にある。笑ってるお前も、泣いてるお前も、全部残ってる」
美紅は、写真を受け取ってじっと見つめた。指先がふるふると震えていた。
「……あ……これ、覚えてる。私……走って……」
その瞬間、美紅の目からぽたりと涙がこぼれた。
「忘れてた……でも、思い出した……ありがとう……」
アニマが、美紅の背後からふわりと離れて、宙で霧のように溶けていった。
それは、記憶を喰らってきた存在が、“思い出す力”に触れた瞬間だった。
「これからは……忘れても、思い出す努力はするね。忘れるのが得意でも、“思い出したいこと”があるなら、それって無駄じゃないもんね」
翔太郎は、少し照れながら笑った。
「うん。俺が毎日でも名前言ってやるよ。“翔太郎だ”って」
「……そこのメガネじゃない方!」
「おい!一秒でリセットすんな!!」
笑い声が、教室に満ちた。
(第39話 完)