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【第39話】美紅、忘れたほうが幸せ?

「そこの……えっと……メガネじゃない方!」

 その日、翔太郎は人生でいちばん曖昧な呼ばれ方をした。

「……は?いま俺のこと呼んだ?」

「え?翔太郎……だっけ?……あれ、ちがうっけ?」

「オレ、同じクラスで三年間ずっと席近いよな!?しかも昨日一緒におにぎり分けたよな!?っていうか今朝“おはよう翔太郎”って言ってきたよなお前!!」

 翔太郎のツッコミをよそに、美紅は「あー……」と唸りながら首をかしげる。

「変だなぁ……昨日のことも、今朝のことも、なんか記憶がふわふわしてるっていうか……」

「それ、やばいやつじゃねぇか!?しっかりしろ!」

 璃桜がすぐさまノートを開きながら、視線を鋭くする。

「“選択的記憶抑制型アニマ”ね。対象の“感情的ストレス”が高い記憶ほど、優先的に忘却される。簡単に言えば、“忘れたほうが楽”って判断した記憶が、自動で削除されていくの」

「つまり、“都合の悪いことだけ”忘れてるってことか?」

「ええ。そしてその判定は、本人の意思ではなくアニマによる“防衛本能”に基づく。つまり、美紅が“自分で忘れた”んじゃなくて、“忘れさせられてる”」

「それ、怖すぎんだろ……!」

 翔太郎は思わず美紅の肩をつかむ。

「おい、ちゃんと聞いてくれ!俺のこと忘れるな!この世界で俺の名前覚えてる人そんなに多くないんだからな!?」

「……えっ、それ、ちょっと失礼じゃない?」

「って“そこ”は覚えてんのかよ!!!」

 周囲で笑い声が起きたが、その直後。

「……ねぇ、なんで私、さっき笑ったんだっけ?」

 美紅が、ぽつりとそう呟いた。

 場の空気が凍りつく。

「いまの笑いも……“記憶から抜けた”ってことか?」

 翔太郎の声が震えた。

 璃桜は小さく頷いた。

「このアニマ、最初は“都合の悪いこと”だけ消す。でも、だんだん判定が甘くなっていく。最終的には、“強く反応した記憶”そのものを手放すようになるわ」

「それって……“嬉しかったこと”とか、“大事にしてた瞬間”も……?」

「全部、抜け落ちる可能性がある」

 そのとき、美紅がぽつりとつぶやいた。

「……あのさ、私、目標に向かって突き進むのって、好きだったんだよね。でも、最近……その“目標”が何だったかも、ちょっと曖昧になってて……」

「……!」

 翔太郎は息を呑んだ。

「自分で決めた“ゴール”を、忘れてる……?」

 美紅は、申し訳なさそうに笑った。

「でもね、不思議と怖くないの。むしろ“忘れてよかった”って、身体がホッとしてる気さえして……」

 その笑顔が、どこか“作られた安堵”のように見えた。

「本当にそれで、いいのかよ……」

 翔太郎の問いかけに、美紅は一瞬、目を逸らした。

 そして、何かを思い出そうとするように、ぎゅっと自分の胸元を握った。



 放課後の教室。カーテンが窓から射す夕日を受けて揺れていた。静まり返った室内で、美紅は机に頬杖をつきながらぼんやりしていた。彼女の表情はいつものように明るく、けれどどこか、今ここにない記憶を見つめるように遠かった。

 翔太郎は、その様子をそっと窓際から見つめていた。隣には真吾が立ち、律儀に姿勢を正したまま無言で見守っていた。翔太郎がぽつりと漏らす。

「……なんか、あいつの笑顔、最近“加工されてる”みたいに見えるんだよな」

「ええ。心から笑っているように見せかけて、その実、何も感じていないような……。いえ、正確には“感じても、それを忘れてしまうから”かもしれません」

 翔太郎がうなだれる。

「たしかに、忘れることで救われることもあるさ。でも、あいつの場合、忘れたことで“大事なものまで剥がれ落ちてる”感じがしてさ……」

 翔太郎はふと、ポケットから一枚の写真を取り出す。それは数ヶ月前、体育祭で撮った一枚だった。リレーのバトンを渡す直前の美紅が、顔を真っ赤にして全力疾走している姿。ぶっきらぼうな翔太郎がそれを真横で迎える瞬間。

「……このときさ、あいつゴールして大泣きしたんだ。泣きながら“目標達成、できたかも!”って叫んで……。俺、あのとき初めて、“努力って人の顔に出るんだな”って思ったんだよ」

 翔太郎は写真を見ながら眉を下げる。

「でも、こないだその写真見せたら、“え?これ私?”って……完全に忘れてやがった」

 真吾が眼鏡を押し上げた。

「記憶が薄れていくことは、“経験”を削るだけでなく、“自分”をも希釈させます。“自分がなにを成したか”の記録が消えていけば、やがて“なぜ今ここにいるのか”すらわからなくなる」

「なあ、俺……あいつにとって、どんな存在だったと思う?」

「……それを訊くということは、“もう忘れられている”前提なのですね」

「まぁな」

 翔太郎は苦笑する。

「昼に話しかけたら、“あ、はじめまして?”って言われたからな。笑えねえよ」

 そんな彼らの背後から、足音が近づいた。

「あ、ごめん、遅くなっちゃった!」

 元気そうな声がして、振り返ると美紅がいつもの笑顔で近づいてきた。

「えっと、あの……私、何か用事あったっけ?」

 翔太郎が一歩近づく。

「美紅。俺の名前、覚えてるか?」

「えっ……えっと……“しょ……”?」

「残念。“翔太郎”だ」

「あぁーっ!惜しい!」

「お前、今俺の名前“翔平”と混ざったろ!!」

「えへへ、ごめーん!でも、名前って毎回新鮮でいいよね!」

 その言葉に、翔太郎は絶句する。

(新鮮、じゃねぇんだよ……)

「お前さ、最近……“本当は覚えてたいこと”まで忘れてないか?」

「え?」

「たとえば、“目標”とか。昔、言ってたじゃん。“何があっても、諦めない人になりたい”って。あれ、お前自身の言葉だったよな?」

「……そ、そうだったっけ?」

「ほら、それだよ……!」

 翔太郎が口をつぐんだその瞬間、美紅の表情がふと曇った。

「ねえ、翔太郎くん」

「……あっ、今名前合ってた!」

「それって、忘れちゃダメなことかな……?」

 翔太郎は目を見開く。

「私ね、覚えてると辛いことって、たくさんあって。でも、忘れたあとって、ちょっとだけ、軽くなるの。過去の自分の失敗とか、恥ずかしい気持ちとか、目標に届かなかった思いとか……。ぜんぶ、“なかったこと”になる感じがして」

「……」

「だから、もしかして私って、そもそも“忘れるために努力してた”のかも、って思った」

「それでも!」

 翔太郎が一歩前に出た。

「忘れないでほしかったんだよ……お前が頑張ってたこと、俺はちゃんと見てたんだよ!」

 翔太郎は震えながら、さっきの写真を差し出す。

「これ、返すわ。お前の目標は“ここ”にある。笑ってるお前も、泣いてるお前も、全部残ってる」

 美紅は、写真を受け取ってじっと見つめた。指先がふるふると震えていた。

「……あ……これ、覚えてる。私……走って……」

 その瞬間、美紅の目からぽたりと涙がこぼれた。

「忘れてた……でも、思い出した……ありがとう……」

 アニマが、美紅の背後からふわりと離れて、宙で霧のように溶けていった。

 それは、記憶を喰らってきた存在が、“思い出す力”に触れた瞬間だった。

「これからは……忘れても、思い出す努力はするね。忘れるのが得意でも、“思い出したいこと”があるなら、それって無駄じゃないもんね」

 翔太郎は、少し照れながら笑った。

「うん。俺が毎日でも名前言ってやるよ。“翔太郎だ”って」

「……そこのメガネじゃない方!」

「おい!一秒でリセットすんな!!」

 笑い声が、教室に満ちた。

(第39話 完)


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