「……やばいな……今日も朝から“辞めたい”が多い……」
璃桜はそう呟いた直後、自分の口を両手で塞いだ。
「……また、出た……っ」
その瞬間、教室の空気が一瞬凍ったようになり、次に爆発的な笑いが起こる。
「おい、今、先生の本音まんま言っただろ!?」
「『辞めたいなあ』って、授業開始2秒前のセリフじゃん!」
「やばすぎるって……情報源がダイレクトすぎる!」
翔太郎が真顔で隣から声をかけた。
「なあ璃桜、お前……今、誰の言葉を喋った?」
璃桜は静かに、けれど明らかに眉を寄せて答えた。
「……先生の、心の中の声。私、見てないのに、“聞こえる”っていうか……“言わされる”の。言いたくもないのに、口から出るのよ」
翔太郎は目を見開いた。
「それ、“自動口パク心の声リレー”じゃん!どんな厄介アニマだよ!」
璃桜はノートを開きながら、震える指で状況を書き留める。
「“他者の思考伝達型アニマ”。近くの人間の“発話前の言葉”が、自分の口から漏れ出す。拒否できず、誤魔化せず、しかも相手が意識してない内容も含む」
「つまり、“しゃべる前の本音”まで漏れるんだな……そりゃまずいって」
「朝からすでに3人の“別れたい”“やめたい”“ムリしてる”が出てきたわ……。私、口から出るたびに人間関係破壊してる気がしてきた」
「お前、自覚あるだけまだえらいよ……!」
そのとき、すれ違いざまに廊下で男子生徒とぶつかった瞬間。
「……俺のズボン、チャック開いてる気がする」
「えっ!?ばれてた!?いや、俺今黙ってたのに!?」
「……喋ったの、私じゃない。私の中の“誰かの声”が、勝手に出たのよ……!」
翔太郎は頭を抱えた。
「もう、これはあれだ。“逆腹話術”!口動くけど意志がないパターン!」
璃桜が絶望したように言う。
「こんなんじゃ、もう誰とも会話できない……っていうか、“私自身の言葉”を出すことが怖い……」
「でも、逆に考えれば……それって、今、世の中の“本音”が丸見えになってるってことだよな?」
「翔太郎、そういうポジティブ転換やめて!危機感削れる!!」
そのとき、職員室の前を通ったとき――
「“校長って最近、スマホいじってるだけだよね”」
「……誰が言ったの!?誰か言った!?俺言ってないぞ!?」
職員室全体が凍りついた。
璃桜は、顔を真っ赤にして逃げるように走り出した。
「やめて!私じゃないの!これ、声が勝手に口から出るだけなの!」
「もう“暴露装置”だな……完全に……!」
翔太郎は追いかけながらつぶやく。
「でも、お前が一番苦しんでるの、わかるよ……“慎重に言葉を選ぶタイプ”の璃桜が、“選べない言葉”で自分を壊されるってのは……」
翔太郎は、璃桜が職員室の前を駆け抜けていくのを見て、一瞬だけためらったが、すぐに後を追った。職員室の扉の前では、教師陣がざわざわと「誰が言ったんだ」「心読まれてる?」と動揺し始めており、混乱が確実に感染し始めていた。
翔太郎がようやく璃桜に追いついたのは、校舎裏にある自販機の陰だった。璃桜は背を丸め、口元を手で押さえていた。その手のひらは、微かに震えていた。
「……ごめんなさい。私……また、言っちゃった」
翔太郎は、彼女のそばに腰を下ろした。
「いや、お前のせいじゃない。口から出てるのは“他人の言葉”なんだろ?お前自身は“何も悪くない”って、俺はわかってる」
璃桜はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、曇りきった空のような色が浮かんでいた。
「でも、“私の口”から出た時点で、誰かを傷つけてる。それが“誰の声か”なんて、受け取った人には関係ないから」
「……」
「私は、“言葉”って、“責任”だと思ってた。たとえば、誰かの心を動かす一言も、逆に壊す一言も、全部“選んだ人”の責任。だからこそ、選びたかったの。どんな時も、ちゃんと“私の言葉”を選んで話したかった」
「でも今は……」
翔太郎が代弁するように続ける。
「“選べないまま出てくる言葉”に、自分の責任まで背負わされてる、って感じか」
璃桜は、力なく頷いた。
「“誰かの本音”がわかっても、それを“伝えていいかどうか”は、また別の話なのに……。今の私は、“伝えるべきじゃない言葉”まで漏らしてしまう」
「それでも、お前は“黙ってられない”んだな」
翔太郎がぽつりと呟いた。
「お前、こういう時、誰よりも人のために動くタイプだもんな。“誰かの気持ちを無視できない”って、そういうやつだから」
璃桜は、目を伏せながら小さく笑った。
「変だよね。私は、冷静で、慎重で、感情に振り回されないって、よく言われるのに」
「そう思ってるやつらに、“お前がどれだけ人を見てるか”わからせてやりたいわ」
そのとき、彼女の口が勝手に動いた。
「翔太郎ってさ、たまに本気で恥ずかしいこと言うよね。……でも、ちょっと、嬉しい」
「……今の、“俺の心の声”だろ!?おい、言ったな!?言わせたな!?」
「え?うそ、いまの……翔太郎の?」
璃桜が目を丸くする。
翔太郎は真っ赤になって、制服の袖で顔を隠した。
「まさかお前、周囲の本音だけじゃなくて、“俺の本音”も漏らしてるのかよ……!!」
「ごめん……!でも、それちょっと……かわいかった」
「もうやめて!羞恥心が爆発する!!」
笑い声が漏れると同時に、どこか遠くで“カラカラ……”と何かが崩れるような音がした。
璃桜はふと気づく。
「今の……他人の声じゃなかった。“私の声”が、出た」
「え?」
「“かわいかった”って、翔太郎が思ったことじゃなくて、“私が”思ったこと」
「……」
「やっと、“私の言葉”を口に出せた」
その瞬間、空気がふわっと緩んだ。校舎裏の風がやわらかく吹き抜ける。
「ねえ翔太郎。私は、選びたい。“誰の言葉でもない”、ちゃんと“私の言葉”を」
「なら、そうしようぜ。お前が話すことは、お前自身が決めていい。それが“本音”でも、“建前”でも、“迷い”でも――それが、“お前の声”なら、俺は信じる」
璃桜は、小さく頷いて言った。
「じゃあ、ひとつだけ」
「ん?」
「私、翔太郎のこと、好きよ」
「……えっ?」
「たぶん、ずっと。あなたが一番、うるさくて、まっすぐで、怖がらなくて――羨ましくて、心強い人だったから」
翔太郎は固まった。
璃桜は微笑む。
「今のは、“誰の声”でもない。“私の声”よ」
(第41話 完)