「あれ?……これって、本当に食べてる?」
悠が箸を止め、給食の白いごはんをじっと見つめた。
「……いやいや、噛んでるんだから間違いなく“食ってる”だろ。なに言ってんだよ悠」
翔太郎が斜め前の席からフォローするが、悠は首をかしげたままだ。
「……でも、味も手応えもない。舌にのってるのに、存在しない感じ。まるで“幻”を咀嚼してるみたいで……」
「なんか詩的に不安なこと言ってないか!?」
「たとえるなら、“存在感ゼロのエアグミ”って感じかな……」
「そんなもんこの世に存在してねえよ!?」
周囲がざわめく中、璃桜が席を移動してきて、メモを広げる。
「“現実感覚希薄化アニマ”ね。接触や味覚、温度といった五感のフィードバックが徐々に失われていく。身体は触れていても、脳が“そこにある”と認識しなくなるタイプ」
「つまり、悠の世界は“薄く”なってるってことか?」
翔真が首をひねる。
「ちょっと怖いけど……何かに似てる。夢の中にいる感じ?」
「違う。夢よりさらに“実体がない”。たとえるなら……」
悠はそっと水の入ったコップを持ち上げ、空中に掲げながら呟いた。
「――“影に触れてる”感覚に近いかな」
その言葉に、一瞬教室の空気が静まる。
「……マジでヤバいやつじゃん」
翔太郎が顔を青くする。
「大丈夫。今のところ、感情は保ってる。ただ……目に見えるものすべてが、フィルム一枚隔てたように“遠い”んだ」
「それってさ、“現実と関われてない”ってことじゃね?」
翔平が眉をひそめる。
「それは危険よ。今の悠は、“現実との接触ログ”がどんどん消されていってる。思い出としても残りにくくなる」
「つまり、“なにかを経験した”っていう感覚すら奪われていくってこと……?」
「……そう」
悠は、机に手を置いた。
だが、そこには“手応え”がなかった。
「……この世界って、こんなに“曖昧”だったっけ?」
「ちがう!曖昧なのは“今のお前の感覚”だ!」
翔太郎が叫ぶ。
「この机は硬いし、スプーンは冷たいし、ごはんは普通に“味ある”!だから、信じろ!“ここ”にちゃんと“ある”って!」
悠は、その熱量に一瞬目を見開いた。
「翔太郎……」
「お前が“今ここにいること”を信じられないなら、俺が“お前がいる”って言い続けてやるよ!」
璃桜が小さく笑った。
「やっぱり翔太郎って、言葉で世界を実体化するタイプね」
「お前らなぁ、また“中二病風”にまとめんなよ!」
悠は、そっとスプーンを口に運んだ。
そして――ほんの少しだけ、眉を上げた。
「……少しだけ、味が戻った気がする」
「マジかよ!?俺の声、“味覚に効く”のか!?」
「いや、それはない」
「即答かよ!!!」
そのとき、悠の足元に小さな影が浮かび上がった。
そこには、うっすらと“過程を奪う者”と記されたアニマの痕跡が――
悠の机の下に浮かんだ“過程を奪う者”という文字は、うっすらと煙のように揺れていた。まるでそこだけ、世界がフィルム一枚分、ズレて存在しているような違和感。
「……“過程を奪う者”?」
璃桜が低く呟いた。
「このアニマ、“手触りや実感”だけじゃなく、“積み重ねた時間”そのものを削っていく……。つまり、行動の“結果”は残っても、“そこに至る流れ”が曖昧になる」
翔平が眉をひそめる。
「それってつまり、努力した記憶とか、悩んだ時間とかが“抜ける”ってことか?」
「そう。“過程の消失”は、“実在感の喪失”に直結する。人間が“生きてる”って感じるのは、行動の理由があるから。“なぜここに来たか”が消えると、存在は空白になるの」
「なにそれ怖すぎない!?」
翔太郎が机を思い切り叩いた。
「なぁ悠、今、自分が“ここにいる理由”……わかるか?」
悠は、静かに目を伏せたまま言った。
「……教室に来たはずなんだけど、どうやって来たのかが思い出せない。……家を出た記憶もある。でも、そのあとがまるで“すりガラス越し”みたいで……」
「完全に進行してるな……!」
翔太郎が焦ると、悠はふと、首を傾けて言った。
「でも、面白いのはね、翔太郎の声だけは、ちょっと響くんだ。“現実に引き戻される感じ”がある。まるで、鼓膜の向こう側に“重さ”が出るみたいに」
「俺の声に質量あんの!?なに、“喉からのリアリティ注入”なの!?」
「うん。ちょっと熱すぎて暑苦しいけど、たぶん効いてる」
「なにそのマイナス補足!?でも効果あるなら続けるわ!」
翔太郎が立ち上がり、黒板のチョークを手にした。
「おい悠、これは“現実”だ!いま俺が“文字を書く音”をよく聞いてろ!」
カリ、カリ、カリ。
「この“チョークの粉”が飛ぶのも、“力を入れた指がこすれる感覚”も、全部が“ここにある”証拠だ!」
悠は、その音にそっと目を閉じた。
「……少しだけ、重くなった。世界が」
「戻ってきてんじゃねぇか!!」
璃桜がノートを閉じて笑った。
「翔太郎の“ツッコミ”が効いたあとに、悠が現実を感じ取るって……もしかして、“共振”してるのかもしれないわね」
「じゃあ俺の存在、いまや“振動型治療機”ってこと!?」
翔平が真顔で言う。
「ただし“うるさい振動”」
「そこは否定しろよ!!」
悠はふっと笑った。
その笑顔は、いままでのどこか浮いた表情ではなく、“地に足のついた”穏やかさを持っていた。
「……なんか、嬉しいな。こういう日常が、“確かにある”って思えるのが」
「そりゃあるさ。だって今、お前が俺に“マジで暑苦しい”って思ったろ?」
「うん」
「それが“リアル”だ!!」
そのとき、悠の足元にうずくまっていたアニマが、ふわりと光を放ちながら消えた。
“過程”が戻った瞬間だった。
悠は、窓の外の空を見た。
「翔太郎。俺、また歩けそうだ。ちゃんと“実感”しながら、一歩ずつ」
翔太郎は拳を握ってガッツポーズを作った。
「よっしゃ、じゃあその一歩、次は“購買の焼きそばパン”で決めようぜ!」
「うん、でも……」
「でも?」
「翔太郎の叫び声が耳に残ってて、今パンの音が全部“おかずの紹介”に聞こえる」
「そこまで共振すんな!!」
爆笑と共に、教室に再び“現実の密度”が戻ってきた。
(第43話 完)