肌が焼けるように、じりじりと熱かった。
聞いたことがないような轟音が響いて、近くの大樹が崩れ落ちた。
薄らと開いた視界には、赤い炎と黒い塵が蠢くように空に向かって舞い上がっていた。
「……っ!」
名前を呼ぼうと息を吸ったら気道が焼けて痛みを感じた。
声を出すどころか、息も吸えない。
気が付けば周囲は火の壁で囲われていた。
普段は木々の茂りで見えない空が大きく広がり、蒼い夜空を汚すように赤い炎と灰黒い煙が昇っていく。
何の気配も感じない。
ずっと近くに感じていた仲間の気配も森に棲んでいた沢山の生き物も、すべてがあの大きな赤黒い渦に飲まれてしまったかのように。
土や草の焼ける臭いに混じる異臭と、ぱちぱちと木が爆ぜる音だけが周囲を埋め尽くして、どうしていいかわからなくなった。
「……父様、母……さま……、……兄、さま……!」
涙で歪む炎を恨みがましく睨みつけた眼はそのまま閉じて、視界は真っ暗になった。
〇●〇●〇
「……ぃ、おい」
ぺちん、と頭を叩かれた気がして沈んでいた意識が浮上した。目を開けるより早く、焦げたような煤けた臭いが鼻についた。
さっき垣間見たあの光景が夢であってほしいと願いながら、少年は開けたくない瞼を持ち上げた。
「……」
言葉にならない、とはきっとこういうことだ。
目の前に広がっていたのは一面の焼け野原。真っ黒い塊がごろごろと転がり、遠くに聳える向こうの山までを遮るものは何もない。
昨日までは確かにここに住処があったのに。自分たちが住んでいた豊かに生茂る命の森は、たった一晩で総て無くなってしまった。
「……そんな、どうして……」
無残な姿に変わってしまった、かつての里山の焼け跡を呆然と眺める少年に、男がもう一度、声を掛けた。
「おいお前、大丈夫か?」
びくりと肩を震わせて振り返ると、大柄な男がしゃがみ込んで顔を覗き込んでいる。
「ひっ!」
声を上げながら慌てて大男から離れようとした時、右の足首に痛みが走った。
「いっ……」
そのまま転んで動けない少年の足に、大男がそっと手を添える。
「や、やめろ! 触るな!」
「こりゃ駄目だ。折れているな」
男は少年の焦りなど気にも留めずに図々しく近づいてくる。
怒りやら焦りやら恐怖やら、自分でも訳のわからない感情が胸を蠢く。そして咄嗟に、逃げなければと思った。
少年は背中の羽を広げて、左足で地面を蹴った。
「あぁお前、
大きく広がった漆黒の羽を見上げて、男が感心したように言う。
少年は思い切り広げた羽を一気に捲くって飛び立った、つもりだった。
「う、わぁ!」
少年の意図に反して羽は風を掴むことなく、一瞬浮上した体がぐらりと傾く。
地面に落ちる手前で、男の大きな手が少年の体を掴まえた。
「羽も折れているなぁ。こりゃ痛ぇだろ」
ぼろぼろの羽を撫でると、男は少年の体を抱え上げて歩き出した。
「は、離せ! 降ろせ! 僕を、どこに連れて行く気だ!」
じたばたして男の手から離れようとするも、背中と足にびんびんと鋭い痛みが走り、うまく動けない。それどころか息まで苦しくなってきた。
「あんまり無駄に動くんじゃねぇよ。怪我が酷くなるぜ」
少年の意志など総て無視して勝手に歩き出す男に苛立ちを感じても、抵抗する力もない。どんどん情けなくなってきて、涙が込み上げた。
泣くのを必死に堪える少年の顔を横目に、大男が静かに言った。
「俺ぁな、
憐れみのようなものを感じて、少年はきっと目を釣り上げた。
「お前が鬼だろうと喰われるものか! 僕は鳥天狗の長の嫡子、いずれ一族を束ねる立場なんだぞ!」
そうだ、自分はこの里山に代々住み続ける鳥天狗の長の息子だ。隣村の人間たちが『森の神』と崇め大事に祀られてきた一族の長なのだ。と、そこまで思い出し、違和感に気が付いた。
(僕の、名は……)
自分の名前を、思い出せない。昨日までの生活も両親や仲間のことも思い出せるのに、自分の名前だけが何故か全く浮かんでこなかった。
急に黙り込んだ少年をちらりと覗いて、零と名乗った大鬼はふうと小さな息を零した。
「威勢がいいのは良いことだがなぁ。どうやらお前さん、大事なもんを落としちまったみてぇだな」
「大事な、もの?」
「自分の名を、思い出せねぇんだろ」
ふいに顔を上げたら男と目が合い、どきりと心の臓が下がった。恐怖、ではない。男の色違いの双眼が、まるで自分の心を総て見透かしているように感じたのだ。
途端にしゅんとして縮こまった少年を、零は担ぎ直した。
「落としたんなら、また見つけりゃぁいいさ。それまでは俺がお前に名をやるよ」
「は?」
如何にも嫌そうな顔で見上げると、零はくくっと笑って顎に手をあてた。
「さぁて、どんな名にしたもんかな」
「お前になんか勝手に決められてたまるか! 僕には父様と母様が授けてくれた立派な名があるんだ!」
面白尽な顔でにやりとする零をぽかぽかと殴りながらじたばたしていると、力強い腕にぐっと羽交い絞めにされた。
「だからその大事な名を、思い出せねぇんだろ」
「うっ……」
真っ直ぐに見詰められて、思わず目を逸らす。すると零は、先程より低い声音で言った。
「いいか、小僧。俺たちみてぇなもんにとって名ってぇのは、たいして必要じゃねぇが頗る大事なもんだ。無くしたんなら取り戻せ。でなけりゃ手前ぇは、本当に大事なもんが何かすら忘れちまうぜ」
少年は息を飲んだ。昔、父親に似たような事を言われた気がしたのだ。似ていると感じるのに、何と言われたのかを思い出せない。
(僕が大事なものを、無くしたから……)
大事な父様の言葉を思い出せないのだろうか。名を忘れたままで居たら、今覚えていることすら忘れていってしまうのだろうか。そう考えたら、急に恐ろしくなった。
「そんなのは、嫌だ」
俯く少年を零が見下ろす。
少年は俯いたまま、呟いた。
「忘れるなんて嫌だ。僕は僕の名を取り戻す!」
上がった顔を見て、零は先程とは違った笑みを浮かべた。
「良い目じゃねぇか、
「へ?」
ぽかんとする少年に、零が畳みかける。
「お前の名は今日から睦樹だ。大事にしろよ」
少年の返事を待つことなくその体を抱え直すと、零は足早に歩き出した。体がぐらりと傾いて、思わず零の腕に抱き付く。
「ちょっとまっ……。そんな名前嫌だ、格好良くない!」
どんどんと歩く速度を上げる零にしがみ付きながら喚く。
零は面白そうに笑った。
「だったら早く本当の名を思い出しな。それまでお前は、睦樹だからな」
悔しくても今の自分には言い返す言葉がない。
周囲の景色が残像に見える程の速さで走りだした零に、睦樹は只々しがみ付くしかなかった。