どこをどう走ったのか全くわからない。
気が付いたら生い茂る森の中の、大きな池のある場所にいた。
畔には、みすぼらしい小さな山小屋が建っている。
小屋のすぐ脇にはこれまた小さな石作の祠が添えられている。
小屋と同じようにぼろぼろで、風でも吹いたら崩れてしまいそうだ。
零は睦樹を抱えたまま、その家の戸を開いた。
「うわ……」
中に入ると、外観からは想像もできないような広く長い廊下が伸びていた。
零が戸を閉めると、廊下に連なって並んだ沢山の蝋燭が次々と灯り屋敷の中を照らし出した。
「ここは、何なんだ……」
「ここはなぁ、俺たちの隠れ家だ」
「俺、たち……?」
不思議そうにする睦樹を抱えて歩きながら、零は頷く。
「お前みてぇな輩がここには何人かいるんだよ。そいつらが一緒に住んでいるんだ」
零がある部屋の戸を開く。
そこには布団が準備されており、その奥に人影が見えた。
「人を呼び出しておいて、また随分と早いお帰りじゃぁないかぇ」
長い煙管をゆらゆら揺らして紫煙を燻らせているのは、女人の様だ。
勿論、人ではなさそうである。
「悪ぃなぁ、凜。あやし亭の面子でもねぇのに」
かん、と小気味いい音を立てて煙草盆に火種を落とすと、凜と呼ばれた女がこちらに向き直った。
「本当にねぇ。いくら親父様の言付でも、怪我人が出る度に呼び出されちゃあ、適わんよ」
ぶつくさと言いながら、凜は怠そうな仕草で診療の準備を始める。
(あやし亭? 親父様?)
また知らない言葉が出てきて不思議に思っている睦樹を、零は布団の上に乱暴に投げ降ろした。
「いったぃ!」
折れた足と羽に先に鋭い痛みが走ったあと、全身にびりびりと鈍い痛みが響いて声が出なくなった。もうどこが痛いのかすら、よくわからない。
「今痛がった所、全部診てやってくれ」
零を冷めた目で流し見たあと、息を詰まらせている睦樹に凜は哀れな目を向けた。
「怪我人を放るんじゃあないよ。ほら坊や、ここに横になんな」
痛みに震える体を何とか動かしながら、睦樹は歯を食いしばった。
「坊や、じゃない……僕は……っ」
本当の名が、わからない。しかし睦樹という名を、名乗りたくない。今はそれしか名前がないのだ、本当の名を取り戻すまでの辛抱だ。そう自分に言い聞かせても、口にすることが出来なかった。
そんな睦樹の様子を見て、凜は溜息を吐いた。
「成程ねぇ、また拾ったのかい。なかなか骨のありそうな坊やだが、今度はどこで見つけてきなすった?」
気怠い雰囲気や仕草とは裏腹に、無駄のない手付きで凜は睦樹の診療を始める。
「昨日、火事になった例の村と里山の焼け跡からだ」
「……あぁ、あすこねぇ……」
小さく呟くと、それ以降、凜は何も言わずに治療を続けた。
程無くして治療はあっさり終わってしまった。
「大怪我だが鳥天狗なら治癒力も高いはずだ。数日ですっかり治っちまうだろうよ」
すっくと立ち上がり部屋を出ようとする凜の後ろ姿を、零が呼び止めた。
「少しくらいゆっくりしていけ。治療の礼くらいするぜ」
凜は苦笑して首を竦める。
「あたしにも、あたしの商いがあるからねぇ。こわ~い御目付役に、どやされちまう」
「あの……」
小さな声に振り返った凜に、睦樹は横たわったまま頭を下げた。
「……ありがとう」
不本意そうな顔をしながらも礼を言う睦樹に、凜はふふっと笑って眉を下げた。
「礼はいいよ。それより、ここに居りゃぁ、きな臭いことにも出くわすだろうが、精々頑張りな。自分の為にね」
ひらひらと手を振って部屋を出ようとした凜が、はっとした顔で立ちどまり零を振り返った。
「あたしがちゃんと、ここに来たってこと親父様に伝えておいておくれよ。うるさい奴がいるからさ」
しっかりと釘を刺し零が頷くのを確認してから、凜は部屋を出て行く。
その後ろ姿を見送った零が、ふいと睦樹に視線を向けた。びくりと肩を揺らす姿に、くくっと笑いを零した。
「何から聞いたらいいか、わからねぇって面だなぁ」
心中を言い当てられて悔しそうな顔をする睦樹を余所に、零が天井を見上げながらぼんやりと言う。
「そうさなぁ。とりあえず、今の凜ってのは獏なんだが、江戸の町中で医者をやっている。勿論妖鬼も人も診る医者だ。だから、ここの住人じゃぁねぇ。彼奴は医者の傍ら
確かに獏の主食は人のみる夢だから、とても効率のいい食事方法なのだろう。
「夢を買う銭は、医者稼業で稼いでいるのか?」
睦樹の問いに零は首を横に振った。
「後ろ盾があるのさ。さっき凜も言っていた親父様ってぇのが夢買屋と、あやし亭の出資者だ」
「その親父様っていうのは、何者なんだ? それに、あやし亭って……」
この問いかけに、零はしばし間をあけた。
「まぁ、親父様については、まちっと後に話すとして、あやし亭のことを教えるのが先か。ここは、お前がこれから暮らす場所に、なるわけだしな」
「ここで暮らすなんて、僕はまだ決めてない……」
言いながら、ちくん、と胸が痛んだ。
昨日まで暮らしていた鳥天狗の里はもうない。
両親や仲間たちが無事なのかもわからないのだ。
「あの場所には、僕しかいなかったのか? 他に誰か……鳥天狗は、いなかったのか?」
恐る恐る聞いた言葉は語尾がどんどん弱くなる。
零は振り向かず頷きもしなかった。
思わず涙が込み上げそうになって、下唇を噛んで必死に耐える。村も里山も全焼していたあの状況で生きていた自分がむしろ奇跡なのだ。自分はもっと零に感謝しなければいけない。
それでも、鳥天狗の長の息子として、仲間を守ることができず、知らない鬼などに拾われて手当までされている自分が惨めで悔しくて情けなくて仕方がない。
いっそのこと、あのまま死んでいたらとすら考える自分の弱さにまで腹が立って、感情がぐちゃぐちゃだ。
目を手で覆い隠して震える睦樹に、零はあえて言った。
「俺が着いた時にゃ生き物の気配はもうなかったが、お前は何か覚えていることは、ねぇのか?」
はっとして、瞑っていた目を開いた。
零に聞かれて今、初めて気が付いた。自分が記憶しているのは既に里が大半焼けている光景だ。
だが、その前は?
(あの夜、里山が焼ける前に、僕は何をしていた?)
記憶を辿っても、何も思い出せない。
もっと前、あの里で仲間たちと暮らしていた幸せな光景は思い出せる。なのにあの夜の、火事が起こる前の記憶だけがすっぽりと消えている。
まるで真っ白に抜け落ちているのだ。
「覚えて、無い」
ぼそりと呟いた睦樹の声に、零が振り返る。
「あの夜の、火事が起こる前のことだけ、全然思い出せない。どうして……」
愕然とする睦樹を眺めて、零はふぅんと鼻を鳴らした。
「どうやらお前の無くした大事なもんは、その辺りにありそうだなぁ」
「その辺りって、どういう……」
にゅっと伸びてきた大きな手が突然、睦樹の頭に乗って、言葉が途切れた。
「実は俺たちもあの火事のことが気になってんだ。お前の為になるかはわからねぇが、どうせなら一緒に見つけちまおうぜ、お前の無くした大事なもんもな」
零の手が睦樹の頭を撫でる。
さっきまであんなに乱暴だった動きとは全然違う優しい手つきと温かさに、どうしてか懐かしさを感じて涙が出た。
睦樹は零の大きな手をぎゅっと握って、顔を隠すように頷いた。
「わかった。僕はここに住む。大事なものを、名を思い出すまで、協力する」
零の手を握る指が小刻みに震える。
「そうしろ、そうしろ。泣くなぁよ」
微笑む零の声に、睦樹はその手を払うように離した。
「泣いてない! それに僕は、自分でここに住むって決めたんだ。お前に拾われたからじゃないんだからな。仲間と父様たちを見つけるまでの間、世話になるだけだ! 直ぐに自分の名を思い出して、皆の元に帰るんだ!」
目尻に溜まった涙をぐいと振り払い、強く拳を握る。
「へいへい、わぁかっているよ。よろしくな、睦樹」
振り払った手がまた強引に睦樹の頭を撫でる。
無遠慮な手はやっぱり優しくて、目からまた流したくもない涙が溢れる。
零の手は、その涙を隠すように睦樹を包んでいた。