ニグルアスの地において、二つの種族がいた。
人間と魔族、この二つである。
人間は都市を築き、王を頂き、秩序を好んだ。
魔族は闇を友とし、力を尊び、混沌を宿した。
両者は太古よりこの地を巡り、相容れぬ存在として幾度となく血を流し合う。
数百もの闘争を繰り返しては休戦、休戦を破ってはまた争う。
その不毛な循環に終止符を打ったのは魔族側の変化である。
混沌と個の力を尊んできた魔族が一人の王を戴くに至った。
王の名は<ドラスターン>。
黒き血の大河より現れし絶大なる魔力を持つ王。
彼は圧倒的な武力と恐怖によって魔族を統一。
これまで互いに牙を剥いていた種族を鉄の意志でまとめあげた。
魔族史において、それは革命とも言える出来事であった。
魔王の下、魔族達は初めて一つの旗のもとに集い、人間達の領土を侵食し始めた。
人間達は怯え、そして恐れた。
これまで各国が個別に戦っていたのでは、魔王に対抗できぬことを悟っていた人間達は連合を結成し、伝説の英雄達を募った。
それは<勇者>と呼ばれる存在であった。
神託を受け、選ばれし者――光の象徴。
剣を握る者、魔法を操る者、命を賭けて立ち向かう英雄達。
彼らは魔王の討伐を目的とし、幾度となくニグルアスの闇へと挑んだ。
だが、魔王ドラスターンは容易には倒れなかった――。
「今宵も、また勇者が死んだか」
闇の住人の証拠である耳は尖り、瞳は赤く輝いていた。
長き髪は朽葉のごとき枯色を帯び、沈黙の波を描いて胸元を覆っている。
身につけるドレスは
どこか気品ある風格を醸し出し、何かを愛おしそうに見つめている。
彼女の名前は<魔姫リゼルダ>。
魔王ドラスターンの第四十四番目の王女である。
その唇から洩れた溜息は薄く、冷たく、虚無を孕んでいる。
かつて、何人もの勇者が彼女の父へと挑み――無惨に敗れ去った。
その累々たる屍はリゼルダにとって、もはや日常の一部でしかない。
だが――。
今宵、彼女の前に横たわる男がいた。
年齢は二十を少し過ぎたばかり男であり、何かの古代文字が書かれた魔法陣の上で眠っていた。
「レオフレッド……」
<レオフレッド>――彼は人間の勇者。
金と砂の色を帯びた髪は、前線を馳せる者の覚悟を物語るように鋭く逆立ち、額を斜めに覆う前髪が、静かに影を作ってその意志の強さを際立たせていた。
彼は神託を受けし人間の希望――。
ドラスターンに迫り、討たれた――はずだった。
「勝てぬとわかって、何故立ち向かったの? あなたを傷つけていいのは私だけなのに……」
リゼルダは、その血塗れの体を静かに見下ろした。
かつて聖剣と呼ばれていただろう剣は刃こぼれし、鎧兜は破損している。
そう、このレオフレッドはリゼルダの父ドラスターンに挑み破れたのだ。
だが、レオフレッドは死んではいなかった。僅かながらの呼吸をしていた。
「リゼルダ様」
「早急に儀式に移らねば」
「この人間は死んでしまいます」
リゼルダの足元にひざまずく妖魔達がいた。
名はそれぞれソルグ、サモンズ、ビリガンという。
彼女に心酔し、命を捧げることにすら悦びを見出す狂信の群れ。
「よし……命を捧げよ、その黒く染まった魂を」
リゼルダが低く呟けば、妖魔達は歓喜の声を上げ、己を心臓を貫き青黒い血と魂を次々に手放した。
彼らの血と魂の黒い光が、レオフレッドの身体へと注がれていく――。
それは、古代より魔族の一部にのみ伝わる禁断の秘法<
滅びかけた者の魂を異なる種族の呪縛と混濁の淵へと誘う術――。
新たなる生命へと転生させる禍々しき契約の術――。
かつて、この儀が行われたのは魔族の歴史の中でも僅か。
いずれも狂気と堕落を生み、かの者たちは忌まわしき<黒の子>として歴史から消されたという。
しかし、リゼルダにとって『禁忌』こそ『愛すべきもの』を手に入れるための方法だった。
人間であるが故に、彼女から遠ざかる存在。
ならば、その魂ごと、闇へと引きずり込めばよい。
そうすれば、彼は永遠に私のもの――。
血と魂の奔流は止まらない。
重く、粘つく魔族の力がレオフレッドの肉体に染み入り、彼の人としての輝きを塗り潰してゆく。
金と砂の色を帯びていた髪は、毒々しい黒碧へと変貌を遂げる。
その変化こそ、儀式の成就を意味していた。
リゼルダは歓喜の涙を零し、レオフレッドの元へと駆け寄り口づけをした。
「ああ! これで今宵より貴様は我がもの! 我が父の後継者となるため『呪われし剣』となるのだ!」
それは闇と魂との交わりと瞬間。
レオフレッドは死の淵より呼び戻され、その瞼をわずかに震わせた。
だが、その体はもはや人間ではない。
妖魔達の血と魂に縛られ、リゼルダの呪いをその心に刻まれた存在。
かくして、人間と魔族の血で塗られた物語が幕を開ける――。