「ここは一体……俺は誰なんだ?」
目覚めた時、レオフレッドは己が誰であったかさえ曖昧だった。
自分の名前も存在も幻のような存在、覚えているのは何者かと戦い負けた記憶のみ。
重く、粘つく闇が心を覆い、鮮烈な痛みとともに新たな名が彼の中に流れ込む。
「あなたは……ザグロ……ザグロという名前を与えましょう」
「だ、誰だ……お前は?」
「私はリゼルダ、あなたを選び、縛り、愛してあげる者……ふふ、怖がらなくていいのよ」
冷たく、甘やかで、狂おしい声。
リゼルダが彼に与えた、新たな名は『ザグロ』。
その名の由来は、かつてニグルアスの闇の底で人間を貪った忌まわしき黒蛇の名である。
リゼルダが幼き日に読んだ、古い童話の中の怪物。
黒蛇ザグロは美しき人間の姫を喰らい、骨も魂も、血の一滴すら残さず飲み込んだ。
その物語は悲劇として語る。
恐怖し、哀れみ、忌むべき存在としての物語――。
だが、魔族であるリゼルダだけは違った。
彼女にとって、それは誰よりも深く、誰よりも確かで誰にも侵されない完璧な愛の形だった。
「誰もが哀れだと、恐ろしいと言ったけれど……私は違う。だって、好きなものを全部喰らえば、もう誰にも奪われないでしょう?」
リゼルダは微笑む。
その瞳はまるで幼き日から変わらぬ無垢な残酷さを湛え、ザグロを見下ろしていた。
「だから、あなたもそうなればいい。愛することも、憎むことも、全部私に捧げて……何もかも、私の中だけで生きればいいの」
その名は呪いであり、祝福であり、支配の印。
ザグロ――かつてのレオフレッドの存在は、リゼルダの物語の登場人物へと塗り替えられていく。
「忘れなさい」
「忘れろ?」
「レオフレッドなんて、そんな名は――」
「何を言っているんだ……お前は……」
「あなたを支配するのは、私だけという意味よ」
リゼルダは彼の額に自らの指先を押し当て、熱く脈打つ呪印を刻みつけた。
その痕はまるで黒薔薇の茨のように彼の肌に這い、刻まれた名を永久に消えぬ烙印として刻印する。
「お前は私の剣、私の騎士、私のもの。拒むことなど許されないわ。だって――愛してるもの」
リゼルダはその唇で彼の頬を撫で、耳元で囁く。
その声音は優しさを装いながらも、どこか獣じみた冷たさを帯びていた。
「立ちなさい、ザグロ」
「ぐっ……」
拒絶する力も、意志も、すでに彼にはなかった。
胸の奥で燻るのは、屈辱か、それとも……。
レオフレッド――いや、ザグロはゆっくりと、ぎこちなく立ち上がった。
その動きはもはや木人形のようで人間ではなかった。
指先は黒く染まり、耳は鋭く伸び、瞳は闇に溶けた。
かつて人間であった名残は、彼の中で悲鳴のように小さく鳴き続けているだけ。
「いい子ね……ほら、私の命令に従いなさい」
リゼルダは微笑む。
その微笑みは甘美な毒。
ザグロは彼女の足元に膝をつき、服従の証として、その手に唇を押し当てた。
「お前は今日から我がもの、我が剣。父上の……次なる災厄となるのよ」
そう、リゼルダは彼を戦いの道具にするつもりだった。
だが、同時にこの人間だった妖魔を愛している。
歪んだ、凶暴な、支配と所有の愛――。
「ザグロ、今宵は私と繋がりなさい。私だけのものになった証を身体の奥に刻ませてあげる」
リゼルダは静かに黒いドレスを滑らせ、青白い肌を月光に晒した。
その動きには欲情というよりも、荘厳な儀式のような気配があった。
それは肉体の交わりではなく、魂の契約――。
呪いをもって結ばれる闇の誓いだった。
彼女はザグロの胸に手を添え、古の呪言を低く紡ぐ。
言葉の一つ一つが、熱を持った刻印のように彼の中に染み入っていく。
そのたびにザグロの心臓は軋むように震え、瞳の奥の光がゆっくりと塗り潰されていった。
「忘れないで、あなたは私のもの。他の誰も、あなたに触れることなど許されないのだから」
リゼルダの吐息が髪を撫で、夜の闇が二人の輪郭を包み込む。
それは甘やかで、しかし冷たく、逃れようのない夜。
ザグロの瞳はもはや人間の色を捨て、闇の底に溶けるように沈んでいた。
「全てを脱ぎなさい――名前も、誇りも、過去も――」
リゼルダが手を差し伸べると、ザグロは静かにその手を取り、彼女に身を委ねた。
肌と肌が触れ合うたび、呪は深く絡みつき、魂の奥に黒い蔓が根を下ろしていく。
そして、闇の中で交わされたものは愛ではなく契約。
祝福ではなく、支配の誓いだった。
その夜、魔王の血脈を継ぐ剣が静かに目を覚ます。
やがてその刃は人間も、魔族も、等しく断つ運命を宿すことになるとも知らずに――。