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ここはかつて<ヒルデラント伯領>に置かれる城で、元々は<カンザレス城>という名で呼ばれていた。
だが今や魔族に征服され、第四十四の魔姫リゼルダにより支配されていた。
人間の伯領ではあるが、その国の広さは僅かばかり。
魔王の娘といえど、その権勢は影のように脆弱な証明であった。
リゼルダは多くの魔姫達の中でも、最も孤独で、最も冷ややかで、最も愛を知らぬ娘である。
しかし、魔王の血族の末でありながらも人間の土地を統べることになった。
この事実から、父ドラスターンはただ形式的な『施し』として、リゼルダにこの地を与えたに過ぎなかった。
魔王の娘たるもの、例え末席の姫であろうとも、何も持たぬのでは体裁が悪い。
それは王としての見栄であり、血族に対する最低限の面目であった。
ドラスターンにとって、リゼルダは多くの子の一人に過ぎないのだ。
名を与えることも、領土を分け与えることも、ただの義務の延長でしかなかった。
その証拠に、与えられた地は滅びた人間の伯領地と小さな城のみ。
繁栄も、誇りも、未来も持たぬ、誰にも見捨てられた亡国を与えただけだった。
それでも、リゼルダという魔姫は不満を抱かなかった。
むしろ、これで良かった。
誰も寄りつかず、誰も奪おうとしないこの孤独の王国。
これこそ、彼女にとっては理想だったのだ。
父の愛など最初から求めていない。
今は魔族へと転生したレオフレッド、否ザグロからの愛を求めるだけだった――。
「リゼルダ様、おめでとうございます」
そう述べるのは小鬼。
この世界では<ゴブリン>と呼ばれる低級の魔物。
頭は異様に大きく、耳は裂け、肌は干からびた藻のような色をした怪物である。
しかし、昏兜城においてはまるで滅びた人間の貴族の使用人を模したかのような燕尾服に身を包んでいた。
「血の契り、誠に叶えられ――」
「我らも嬉しゅうございます――」
「恋焦がれ、幾年後、やっとの念願成就でございますね――」
本来であれば、ゴブリンは人語を話せない。
それ故に、この城で働くゴブリン達は実に奇妙であった。
その仕草が妙に丁寧で、むしろ不気味なほどであった。
「これより、祝福の音を奏でましょう」
低く擦れた声で、ゴブリン達は歪んだ楽器を手にした。
朽ちた絨毯の上で静かに並び始めた。
その動きは滑稽で、どこか不安定で、そして不吉だった。
かつて人間達が行っていた祝い事を、彼らなりに真似たつもりなのだろう。
「ありがとう、お前達……」
リゼルダはうっすらと微笑みを浮かべた。
その赤い瞳はまるで夜の湖のように冷たく湿っている。
ザグロは黙って彼女の傍らに跪いていた。
二人は婚礼の礼装に身を包んでいる。
リゼルダは、魔族の王家に伝わる古の礼装を纏っていた。
闇夜の織り糸で仕立てたという漆黒の衣。
その頭には、魔族の誓いを示す歪んだ茨の冠。
人間が使っていた祝福の冠とは似ても似つかぬ儀礼具であった。
一方、ザグロもまた死者の衣を模した灰黒の装束を纏っていた。
その胸元にはリゼルダが直々に刻んだ呪印が輝き、彼がもはや誰の騎士でもなく、ただリゼルダの剣であることを示している。
ザグロは、ただ無言で抵抗も拒絶もないまま、彼女の足元に跪いていた。
かつての勇者の姿はもうなかった。
「さあ、誓いを結びましょう。モス、用意しなさい」
「ハハッ!」
リゼルダがモスと呼んだ一匹のゴブリンを手招きする。
手招きされたモスの両手には、古びた杯が握られていた。
それは、かつて人間達が神に捧げた祈りの器。
しかし、その杯は禍々しい黒紫の液体で満たされている。
滴るそれは葡萄酒ではなく、リゼルダ自らが調合した『毒蛇の酒』。
血、霧、毒、夜――あらゆる成分を混ぜ合わせた、愛と狂気の結晶。
「婚礼の杯、誓いの酒よ」
リゼルダはその杯を両手で抱き、ザグロの前へと静かに歩を進めた。
「ザグロ……これは私達の一生の契り。この夜を境に、あなたは私のもの……いいえ、私そのものになるのよ」
ザグロは未だ無言であった。
ただ黙って、彼女の差し出す杯を見つめていた。
リゼルダは満足げに頷くと、まず自らの唇を杯に寄せ、ゆっくりとその毒紫の液を啜った。
まるで甘い蜜でも味わうかのように、目を細め艶やかに――。
「……さあ、今度はあなたの番よ」
リゼルダは杯をザグロの唇に押し当てた。
強制するのではなく、あくまで柔らかく、甘やかに――。
その裏には、拒絶を許さぬ圧倒的な絶対支配が漂っていた。
リゼルダがザグロの顎をそっと指で持ち上げると、彼はまるで操られる人形のように静かに口を開いた。
杯から注がれた液体は、苦く、熱く、冷たく、そして重く彼の喉を伝う。
それは酒ではなく、彼の魂を縛るための鎖。
飲み干した瞬間、ザグロの中でまた何かが崩れ落ちる。
自分が果たして、何者であったかも忘れているのに――。
「これでいい、これで……」
リゼルダは嬉しそうに微笑み、ザグロの額に唇を押し当てた。
それは誓いの接吻などではない。
彼の額に自らの印を刻む、支配の証であった。
「貴方は私の剣、私の檻、私の夫。血も魂も、指先一つも、全て……」