昏兜城で行われた、ザグロとリゼルダの婚礼の夜――。
時同じくして、遥か南東の地<魔の国ヴル=ザナール>の<
幾千もの魔族が死し、その骸を星の名と共に納めた、死者の王墓にして魔王の居城である。
その玉座に、魔王ドラスターンは静かに座していた。
頭には黒竜の角を模した飾り冠を戴き、肌は紫がかった白――妖艶にして危うい気配を漂わせる。
長く鈍色の髪と顎髭は、賢者たる知性と重ねた年月を物語り、皺の刻まれた顔や手は深い経験を宿していた。
身にまとうのは、深い藍に染められた魔法衣。
その両肩には龍の頭蓋骨を模した肩当てが嵌められ、彼の威厳と畏怖をいっそう際立たせていた。
「して……あの人間はどうなった」
「件の人間、レオフレッドは……魂蝕転誓により復活を遂げたものと見られます」
「あの禁断の術を使ったか」
「はっ……おそらくは<虚印の聖架>の書庫から魔導書を盗み出したものかと」
魔王のもとに跪く一体の影――。
紫紺の獣毛に金色の模様のまだらが散りばめられた獣人。
その尾は通常の獣とは違い、九つ下げられていた。
この獣人の名前は<グルゼン=イェブ>という――。
星骸殿に仕える記録と監視魔獣で、九つの尾には死者の記憶を保管し、再現する力を持つ。
魔王直属の記録官として、古今の歴史を見聞し続けてきた存在。
魔王ドラスターンの命にのみ従い、魔の子達の監視者でもある。
「――リゼルダは成功したか」
「はっ! 第四十四魔姫、リゼルダ様――昏兜城にて儀式を果たされたようです」
「ふ……魔族に伝わる
ドラスターンは僅かに眼を細め、灰白の息を吐いた。
それは寒さではなく、思索の吐息――。
その声音には、父としての情は微塵もなかった。
「リゼルダも動いたというわけか。他の王子や魔姫と同じく――余の玉座を――この老い征く我が身が朽ちる果てる日を願って――」
玉座の間を満たすのは、深い沈黙。
ドラスターンは心臓のある左胸を押さえる。
某国の勇者、あのアルフレッドという男は誰よりも強かった。
我が拳骨、我が術、我が策謀に対峙し、長時間に渡っての死闘を繰り広げた。
最初は戯れにと勇者の挑戦を受け、飽きればすぐに殺す手はずであったが楽しめた。
その健闘を祝して、なるべく肉体を壊さずにして斃した。
虫の息のアルフレッド、丁重に苦しまぬように殺すつもりだったが、リゼルダが勇者の肉体を所望した。
どうにも、リゼルダはこの人間を知っていたようで尋常ならない懇願と渇望により折れ、アルフレッドを与えることにしたのだ。
「ドラスターン様……」
グルゼン=イェブは動かぬまま、その九本の尾の先端をゆらりと揺らし、一本を前へ突き出す。
「記憶を嗅ぎ取りました。『ザグロ』と名乗るもの――その魂の奥底に、旧き名『レオフレッド』の残滓、僅かに漂っております」
「ほう、やはり完全には消えなんだか」
「はい。彼は未だに『自我の墓場の縁』にいます。リゼルダ姫の呪印によって新たな形に組み替えられましたが、核は未だ曖昧……不安定なままでございます」
グルゼン=イェブの九つの尾が光り、星骸殿の天井に過去の幻を投影する。
それは倒れ伏すレオフレッド、血に濡れた魔法陣、リゼルダの微笑み。
そして、ザグロとして杯を飲む呪いの誓いの夜の光景。
「面白い、これはただの復活ではない――造り替えだ」
ドラスターンの眼が細く鋭くなる。
「リゼルダはやはり余の子、余の血が通っているというわけか。だが、そのやり方は……あまりにも余に似ても似つかない」
「姫は……王とは異なる『愛』という名の歪みを選びました」
「愛など、ただの欲の形よ。支配か、救済か、所有か。いずれにせよ弱き者が作り出した言葉だ」
ドラスターンは立ち上がり、黒き玉座を離れる。
その足音すら、空間に響く鐘のように重い。
「グルゼン=イェブよ、引き続き記録を追え。ザグロに転生した魂が、どこまで保つか……その境界を監視しろ」
「御意。歪んだ記憶の揺れは、全てこの身が記録いたしましょう」
獣人は深く頭を垂れ、九尾をたたんだ。
闇の中に沈むように、静かにその巨体は姿を消していく。
残されたドラスターンは、独り言のように呟く。
「レオフレッド……いやザグロよ、お前が死にきらなかったことに怒りはない。だが、余に再び挑戦することになれば……」
ドラスターンは右手を突き出し、空虚を硬く握った。
「余が今度こそ、お前をこの世から完全に消し去ってくれよう」