魔族へと転生した勇者レオフレッド。
彼は人間であったとき、北方の<白雪国ユークレスト>で生まれた。
ユークレストは白銀の大地と
レオフレッドは、その辺境にある寒村<トエリア>の猟師の息子として育った。
だが、彼の血には知られざる古の戦士の血統が流れていた。
凍てつく冬の夜、祖父が語った神話めいた伝承――「聖戦士ウルバンは白銀の剣を振るい、魔王を斃した」と。
幼きレオフレッドはウルバンの冒険譚を聴き、剣を掲げる英雄の幻を自分に重ね合わせ、自らの心に正義を見出したのである。
彼は人知れず剣を取り覚え、いくつもの戦いを経験した。
村を守り、民を救い、やがてその名は北方に轟いた。
そして、成長した彼は白雪国の王より魔王討伐の命を受け、聖剣を授かり、勇者の称号を与えられたのは二十歳の冬。
過酷な旅と魔族との死闘を乗り越え、遂にドラスターンと対決するも敗れ去った。
今や記憶を奪われ、魔族ザグロという偽りの名前を与えられ、魔姫リゼルダの一方的な愛を受けていた――。
「何を思い悩まれているのですか?」
昏兜城の一室。
婚礼の夜が明け、ザグロは一匹のゴブリンに語りかけられた。
微かに開かれた窓からは、霧を孕んだ光が薄く差し込んでいた。
ゴブリンはこの城で働く侍従の一人モス。
人語に長け、知恵を持ち、日々ザグロの世話をするようリゼルダに命を受けている。
「俺は自分がわからないでいる」
「ほう? 自分がわからないでいると」
「ああ……自分がどこで生まれ、どこで育ったのか。そもそも、このザグロという名前でさえも本当なのだろうか」
悩めるザグロにモスはケタケタと笑う。
その笑い声は甲高く、朝の静けさに不釣り合いなほど響いた。
「いや、まこと失礼。ですが……それほど『自分』に執着されるのは賢明ではございませぬ。あなたはリゼルダ様の夫、ただその愛を受け、この地を治めればよいのでございます」
モスはそう言い残すと、軽やかな足取りで扉へと向かう。
その小さな手で音もなく扉を押し開けた。
「今日は、リゼルダ様の兄上である第一王子<ベンハ>様との謁見の日――顔に悩ましい表情を作ってはいけませぬぞ」
ザグロは漆黒と赤紫を基調とした礼装姿であった。
重厚な生地のローブは長く床を引き、動くたびに裏地の濃紅がちらりと覗く。
胸元には
袖には金糸で縫い込まれた紋様が浮かび上がる。
手には指が開かれた漆黒の手袋。
腰には蛇の意匠を持つ帯飾り。口を開いた蛇がその尾で身体を締め上げる様は、まるで運命の呪縛のようだった。
「見違えましたな、ザグロ様」
最後にモスが、彼の肩へ赤黒いマントを掛けた。
厚く、重く、血のような重みを帯びた布地が、静かに彼の背を覆う。
そんなザグロの心を無視するかのように、モスは満足げに頷く。
「まさしく、魔姫リゼルダ様の夫君にして、昏兜の未来を担うお方のご威容――これでベンハ様とも対等にお会いできますぞ」
ザグロは返事をしなかった、否出来なかったといえよう。
ここに立つ男は、確かに魔族の君主のような出で立ちである。
だが、その瞳の奥で――自分自身が何者であるか、流されるまま生きる苦悩者の輝きを放っていた。
***
「リゼルダ、この男がお前の夫であると?」
昏兜城の玉座には、主君でもないのに堂々と座するものがいた。
魔族らしく耳は尖り、髪の色は暗く赤く、その形は闘神のように逆立ち見るものを圧迫させる。
その腕や足、肩回りや胴は太く、黄金の鎧を着ている姿は<金魔鬼>と呼ぶに相応しく威風堂々。
彼こそが魔王ドラスターンの第一子であり長兄、万の邪妖を従えるベンハ将軍である。
「はい、そうですわ兄上」
リゼルダは夫ザグロと同じく、人間の静脈のような暗赤色を基調とした礼装に身を包んでいた。
魔界の薔薇を思わせる艶やかなドレスは裾が長く引かれ、肩には暗色とは相反する白い羽飾りをつけていた。
「ザグロ……そう申したな」
ベンハは玉座に身を預けたまま、微動だにせずザグロを睨み据える。
彼の金の鎧は重厚にして禍々しく、肩に掲げられた獣頭の装飾は、かつて屠った魔物の頭蓋そのものだという。
ベンハの荒々しい威容、そして業火のような気迫にザクロは圧倒されていた。
「はっ……」
ザグロはそう短く答える。
するとベンハは「ふん」と鼻で笑うと、傲慢にリゼルダを見据えた。
「児戯であるなリゼルダよ、子の夢芝居と変わらぬ」
「兄上、何が仰りたいのですか?」
「父上から話は聞いておる。そのものが偽りの生命<黒き子>であるとな」
玉座の間に冷たい緊張が走った。
――黒き子。
それは忌まわしき禁術によって生み出された者に与えられる蔑称。
生まれながらに魔族ではなく、魂の因果をねじ曲げて作られた混成の存在。
言うなれば、存在そのものが『災い』であるとされている。
「その人形を使って何を企んでいるかはわからぬが、末姫のお前は自分の立場を忘れるでないぞ」
第四十四という重き序列を与えられし魔姫。
即ち、リゼルダが魔王ドラスターンの血を引く者として、生まれた順では最も末席にあることを意味していた。
それは、彼女がこの世に産み落とされた瞬間から、蔑視と排斥の烙印を背負ったことを意味していた。
実際、リゼルダは幼き頃より、玉座の一族の中で常に下位として扱われていた。
それでも、彼女は生き延びた。
美しく、賢く、そして――何よりも、執念深く。
「兄上――私が何者であろうと、貴公が私をどう扱おうと構いません」
リゼルダの声は怒りも悲しみも込めてはいない。
しかし、聞くものの心を針で刺すような鋭さに満ちていた。
「ですが、この方を侮辱することは私への侮辱と受け取ります」
その言葉にベンハの漆黒の瞳が僅かに動いた。
妹が歯向かう? この俺に? とでも言いたげに。
「リゼルダよ、一つ教えておいてやろう」
ベンハは一歩、床を踏み鳴らす。
その音の響きは重く、玉座の間を揺らした。
「その男を見せかけの礼装で飾っても、魂が薄ければただの抜け殻にすぎんぞ」
リゼルダは長兄の言葉に堂々と答えた。
「偽りか否かなど、もはや問題ではありません。私はこの男を夫として選びました――その選択に間違いはございませぬ」
末姫の言葉にベンハは玉座にゆっくりと腰かけた。
「女の人形遊びに過ぎぬ」
リゼルダは視線を逸らさなかった。
心の奥で熱を帯びる衝動を、冷たい仮面の奥へと沈めるように。