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ep6.土の心臓

「兄上はああ見えて優しいのですよ」


 宵闇の中、揺れるランタンの火がリゼルダの横顔を金と紅に照らし出していた。

 二頭の斧嘴鳥アックスビークに引かれた獣車が、霧に沈む荒野を滑るように進んでいた。

 これより二人は第一王子ベンハの命により、ヒルデラント伯領隣の<トルムカーン>へと向かう。

 ここは第十一王子<ルベルド>が支配する小国である。

 元は大地の王が治める土地で、ヒルデラント伯領も『同盟的独立領』として分け与えられ興されたものである。

 しかし、今は魔族の進行により大地の王は殺され支配されてしまっていた。


「兄上だけは違った――魔王の後継者である筆頭である長兄、御自ら参ったのです。他の王子、魔姫は私達のもとへは参らなかった――それほどまでに私はどうでもよい存在なのです」


 哀しくも毅然と、リゼルダは述べる。

 その隣に座るザグロの膝の上には、鞘に納められた長刀が置かれていた。

 この刀は両刃ではなく、片刃しかない霧青きゅうせい色の長刀。

 その名は<ユグラミ>と呼ばれる。

 これは異界の戦士が使用していたものを、魔族の鍛冶師が参考にし打たれた業物である。


「ザグロ、兄上より仰せつかった命は『魔姫の夫、騎士に相応しい力を見せよ』という試練」


 リゼルダの言葉に、ザグロはずっと静かなままだった。

 己が勇者レオフレッドであった記憶、存在であったことを消され、何者なのかを未だ知らないまま。

 傍にいる美しきリゼルダの夫として迎え入れられ、奇妙の統治領を守護する騎士としての役割を与えられている。

 彼が先程より台詞を話さないでいるのは、人形たる存在であることの自我意識か、あるいは運命の受け入れか。


 ただわかることは、望まぬ言葉を、台詞を話すことが出来ない個性を奪われた自分への歯がゆさであった。

 ザグロの瞳は闇に沈んだ地平を見据え、やがて手の中の<ユグラミ>へと視線を落とす。


(魔姫の騎士という運命……試練……全てがわからない。しかし、俺は生きねばならないことは理解わかる)


 かつて勇者と呼ばれた記憶の断片が、頭の奥にぼんやりと浮かんでは消える。

 だが今の自分には、過去も未来も名前さえも別の何かであった。

 ただ『生きている』という事実だけが残されていた――。


「ザグロ様、リゼルダ様、トルムカーンの領内に入りました」


 行者であるゴブリンのモスは、器用に二頭の魔物を操っていた。

 斧嘴鳥の高く響く声が、荒野の夜の静けさを満たしていく。

 獣車はすでにトルムカーンの領内へと踏み入っていた。

 辺りには、風に削られた赤土の丘陵が連なり、その合間に痩せた大地が静かに横たわっている。


「さあ、もうすぐ到着しますので暫しのご辛抱を」


 丘陵を越えてなお、獣車はひたすらに西を目指していた。

 月は高く、雲は厚く、その光すら赤土の地に吸い込まれているようだった。

 道なき道を行くモスの手綱捌きに、斧嘴鳥たちは一切の迷いを見せない。

 彼らが目指す先――トルムカーンの奥深くにある<土の心臓>と呼ばれる巨大な洞窟である。

 それはかつて、大地の王が王位に相応しい力を持っているかを示す試しの門でもあった。


(兄上は意識していませんでしょうが、これも何かの運命というもの)


 リゼルダはふと、幼き日に読んだ人間の書物に書かれていた<土の心臓>の伝承を思い出していた。

 人間であるトルムカーンの民は大地の加護を受け、一族を束ねる王を決めるため屈強な男を選別する。

 選別された男はこの土の心臓へ奥へと入り、ただの男から『王』へと変わるという。

 ――その場所に今、自分とザグロが立ち向かおうとしている。

 それは、魔姫としての義務であると同時に、リゼルダの心の奥底に燻る火――。

 夢と呼ぶには儚すぎ、野心と呼ぶには純粋すぎる、名もなき『渇望』が静かに胸を焦がしていた。


「見えてきました、土の心臓です」


 風とともに、モスの声が低く響いた。

 獣車が丘の稜線を越えたとき、夜の闇に埋もれていた地平にぽっかりと口を開けた漆黒の裂け目が姿を現した。

 ――<大陸の心臓>の姿が現れたのである。


「ご到着でございます」


 モスの声が止むと同時に獣車はゆっくりと停止した。

 斧嘴鳥達が荒い鼻息を吐きながら、蹄で赤土を掻く。

 ザグロとリゼルダが獣車から降り立つと、一人の男の姿が月明かりに浮かび上がった。


「リゼルダ、遠路はるばるご苦労だね」

「いえ、お兄様こそ……お越し下さり、嬉しゅうございますわ」


 第十一王子ルベルド。

 彼は魔族としては異質な装いをしていた。

 混沌を象徴する暗色を好む一族の中にあって、彼はただ一人だけ白系統の色を好んでいた。


「なあに、僕はただ兄者の命を受けただけさ。それよりも、隣がいるのがリゼルダの?」

「はい兄上。私の夫、ザグロでございますわ」

「ほほう……」


 否、白ではない――。

 ほのかに黄色みを帯びた白色、象牙アイボリー色の魔法衣である。

 そして、ルベルドは顔の半分を覆う仮面をつけていた。

 その下から覗く漆黒の瞳で、ザグロを品定めするように凝視する。

 ルベルトは役者のように人を惹きつける美しさと、情の欠片もない目線を同時に備えていた。

 髪は黒紅色で長く、細身で長躯、端正だが冷たさのにじむ容貌。

 その立ち姿は疑いようのない魔族の威厳があった。


「なるほど、悪くない。いや、むしろ面白いものだ」


 ルベルドの声には、玩具を手に取った子供のような好奇心が滲んでいた。

 だが、その瞳の奥に宿るものは鋭く冷たく。

 彼はゆっくりと歩み寄り、ザグロの目前で立ち止まった。


「リゼルダ、君の夫は僕に挨拶の一つもないようだが……彼は言葉を話さぬのか? それとも話せぬのか? 」


 まるで実験体を観察する学者のように、ルベルドはザグロの周囲を半歩ずつ巡る。

 仮面の奥から注がれる視線は、皮膚を剥ぐように鋭く、容赦がない。


「兄上、彼は……」


 リゼルダが口を開きかけると、ルベルドは手を上げて制した。


「安心したまえ妹よ、害意はない。僕は第一王子の命に応じ、試しの案内人としての確認をしているだけさ」


 ルベルドは言葉を途切れさせ、洞窟<土の心臓>の入り口へと視線を向ける。


「人間達はかつて、ここを選定の地と定めたそうだ。地を統べるに相応しき者が精霊に試され、認められる場所だった。だが今や、精霊は沈黙し、邪霊のみが住まう楽しい場所となっているそうだ」


 ルベルトはくるりと背を向けると、洞窟の入口へ向かって歩き出した。


「ザグロ、君に魔姫に相応しい力があるかは、この土の心臓とやらが教えてくれるだろう」


 その言葉を最後にルベルドは、漆黒の闇に姿を溶かしていった。

 その先は戻ることが出来ない、運命の境界を越えた場所。

 ザグロは沈黙のまま、手の中のユグラミを見つめていた。

 霧青の刀身が、闇の中にかすかな光を孕んでいる。


「愛するザグロよ、行くのです。その力を魔族に証明するためにも――」


 リゼルダの声が、彼の背を優しく押す。

 ザグロは一つ頷き、歩き出した。

 それは己の正体さえ知らぬ者が踏み出した、最初の証明であった。

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