獣国ブリガランデは、険しい黒き岩山と広大な原生林に囲まれた自然豊かな国土を持つ。
亜人、魔獣達は弱肉強食の掟のもと、生き延びる者のみが頂点に立つ厳しい世界を築いている。
古くより、人間達の侵攻を打ち返し、幾度となく熾烈な戦を繰り広げ血と牙で領土を守り抜いてきた。
以来、人間を決して信用しない。
妖魔との深い交流のみを選び取り、互いの利害と戦力を共有することで外敵に備えていた。
「我がブリガランデに、よくぞ参った」
ブリガランデの中心、岩石を削り取り作られた居城グロル=ドマ。
ザグロとリゼルダを向か入れたのは獣王オブゴルストである。
獣王に相応しく、古の獣骨を編み込んで彫紋を施した玉座に悠然と腰掛けていた。
「姉上の姿が見えませんが?」
リゼルダが最初に発した言葉は、姉アシュリナのことであった。
その名が口にされた瞬間、オブゴルストの琥珀色の瞳に僅かばかりの揺らぎが走った。
瞳孔が細まり、獣じみた殺気が刹那、周囲の空気を焼いた。
だが、獣王は牙を鳴らすことすらせず、その衝動を静かに呑み下した。
「儀礼の挨拶ではなく……我が妻、アシュリナのことか……」
肩の筋肉が一瞬だけ膨れ、爆発寸前の魔力が皮膚の下で脈打つ。
しかし、獣王の声はあくまで低く、静かであった。
返って、その静けさが周囲にひやりとした圧をもたらす。
「失礼ですが、たとえ獣王であっても、序列においてはオブゴルスト様より姉上のほうが上位にございます。なにぶん、魔王の御血筋故に」
リゼルダの毅然とした言葉に、傍にいる夫ザグロ、従者モスは反射的に身構えた。
グロル=ドマの空気が軋む。
オブゴルストの喉奥から、低く唸るような音が漏れた。
「……貴き血に胡座をかくなよ、魔姫」
牙を剥かず、拳も振るわず、それでも獣王の威は岩をも砕かんばかりに重くのしかかる。
だが、リゼルダの瞳は揺れない。
「ならば、牙を抜いてから吠えろと? 獣王」
火花のような視線が交錯する。
それは欲情を弾かれたものの怒りと、その視線を跳ね返した魔姫の矜持である。
「――第四十四魔姫、控えられよ」
その時であった。
リゼルダとオブゴルストの間に入った者がいる。
「獣王よ、どうか――御身の威を、客人に誇られる時ではござらぬ」
ゲルアクスである。
発した言葉はオブゴルストを戒めるものが含まれるが、態度が違っていた。
リゼルダ達の方へと向き、肩に担いでいた巨大な斧に手をかけていた。
「貴女の御名と血に敬意はある。されどここは獣の王城、言葉が牙を持つならば身にも爪を携えるべき」
ゲルアクスの足元、岩がわずかに裂ける。
振るう意志はない。
だが、その一撃が地を割ることだけは明白だった。
「よい……ゲルアクス。少しばかり獣の血が疼いた」
オブゴルストの静かな声に応じ、ゲルアクスは恭しく頭を垂れた。
緊張の空気感が和らぎ、従者モスはホッとした声でザグロに小さく投げかける。
「一時はどうなることかと……獣王の圧に、空気すら身を引いておりました」
ザグロが小さく息を吐いたのがわかる。
だがリゼルダの視線は揺らがず、鋭さを保ったままだった。
獣王オブゴルストもまた、彼女の瞳を正面から受け止める。
「リゼルダよ、アシュリナがこの場にいないのは理由がある」
「理由?」
「そこのザグロに会いたくない、と申したのだ」
静寂が落ちた。
リゼルダの指先がぴくりと動く。
だが、オブゴルストは顔色一つ変えず言葉を続ける。
「罪とは記憶だ」
罪とは記憶。
その言葉にザグロは、このグロル=ドマの地で初めて、声を発した。
「それは……どういうことだ?」
「貴様を見れば、あの女は過去に囚われる。それが因果の鎖というものだ」
ザグロはオブゴルストの言葉に沈黙する。
その意味は全くわからないでいた。
しかし、何かを含むようなオブゴルストの瞳を前にザグロの脳裏に断片が閃いた。
「ッ!」
倒れ伏す仲間の影。
人間も、魔族も、魔獣も全てが血に染まっている。
「これは……何だ……?」
この
「……ザグロ? どうしたのですか」
リゼルダの視線が、ザグロの横顔を見据える。
我に返ったザグロは、額に浮かぶ冷たい汗を拭いながら小さく呟いた。
「いや……すまない……俺は……」
思考が暗い渦へと沈みかけた瞬間、リゼルダの声が脳裏に走った。
はっとして見開いた瞳に、現実が戻る。
手のひらには、張りつくような冷たい汗。
幻覚――いや、違う。
何かが、確かに甦りかけていた。
ザグロが口を開く前に、オブゴルストの眼光が突き刺さる。
「ザグロ、だったな」
獣王の目がザグロを捉えた刹那、隣にいたリゼルダがわずかに身を寄せた。
彼女もまた、獣の威圧に抗しているのだ。
だが、目を逸らすことはなかった。
ザグロはそのぬくもりと鋭さの両方を背に受け止めながら、黙ってその続きを待った。
「リゼルダを招いたのは単なる歓待ではない……お前の力、ぜひ一つ使わせてもらいたいと思ってな」
「俺の力?」
「そうだ。我が父、バルコザウラがかつて退けたの人間の王国の残党が軍を整えてきている」
オブゴルストの言葉に、玉座の間が再び静寂に包まれた。
だが、その静けさを破ったのはザグロではなく――
「お受けいたしましょう、獣王オブゴルスト」
澄んだ声が、しかし鋼の芯を帯びて響いた。
リゼルダが一歩前に出る。ザグロよりも半身前に立ち、威厳を宿した瞳で玉座を見据えていた。
「ザグロの力は、私の力でもあります。魔姫として、貴殿の求めに応えましょう」
ザグロが口を開くより早く、リゼルダは決断を示していた。
それは覚悟であり、信頼であり、あるいは宣言でもあった。
オブゴルストの瞳が細まる。
その口元に、獣のような僅かな笑みが浮かんだ。
「流石は第四十四魔姫。口よりも先に爪を見せるとは」
玉座の骨が軋む音と共に、獣王がゆっくりと腰を上げた。
その影は、荒ぶる山嶺のごとく堂々としていた。