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ep23.獣国の儀礼

 空を裂いていた。

 ゲルアクスが操る風裂きの祖獣――裂風山羊<ヴァルシグラ>。

 翼なきその魔獣は空を駆けていた。

 四肢には風の戒めを断つ呪符が刻まれ、背に浮かぶ岩片は重力を拒むための祭器だという。

 踏み込むごとに空気が震え、次の瞬間には数百メートル先へ跳んでいた。

 連なった跳躍が、まるで空中の山脈を縦断するように続いてゆく。

 だが、その背に座する者達は――誰一人として言葉を交わしてはいなかった。


(久しぶりね……)


 リゼルダは魔獣の首筋に片手を添え、風の流れに抗わぬよう静かに身を伏せていた。

 前を見ていない。

 彼女の瞳は、ただ斜め下、遠く霞んだ山嶺の方角を捉えている。


(……ブリガランデ)


 それは、大陸の南西に位置する大自然に囲まれた獣の国。

 陽炎のような過去の記憶が、皮膚の下を這うように蘇る。

 まだ少女であった頃、友好の使者として父ドラスターンの眷属妖魔により連れられたことがある。

 交流の場で繰り広げられたのは咆哮と熱気、酒の香、そして骨の玉座。

 自分に向けられたのは、歯の奥で研がれたような視線だった。

 あの男と獣王オブゴルストの欲情の眼と――。

 その獣性に満ちた記憶が再び訪れていた。


(嫌な男……本当なら会いたくはない)


 リゼルダは、ほんの僅かに暗雲たる息を吐いた。

 だが、その音は風に溶けて消えた。


「この険しい自然……以前訪れたような気もする」


 背後で、ザグロが目を細めながら下界を見下ろしている。

 風に削られた断崖、裂け目のような谷、苔むした岩山。

 その全てが過去の冒険書、旅路に見覚えがあるようで記録には残っていない。


「この山々を見るのは、少し心苦しくなるのは何故だろう?」


 勇者だったあの頃。

 仲間と共にこの地を越えた――。

 いや、ただ通過した。

 彼は地形に怯え。

 勇者は強気魔物に怯え。

 ただ、力不足な彼らは急ぎ足で逃げるように駆け抜けた。

 その段階では、勇者アルフレッドという男はただただ未熟だった。

 駆ける中、ふと空を見上げたとき、彼は己の力不足を痛感させられた。

 その辛い記憶の断片が、曖昧ではあるが確かに胸を刺していた。


「……高いな」


 呟きは風にかき消えた。

 そして今、自分は空からこの地を見下ろしている。

 同じ場所なのに、まるで違う風景だった。


「くれぐれも獣王に無礼なきようお願いします」


 そう口にしたゴブリンのモス。

 彼は二人の従者として同行を許され、ヴァルシグラの脇腹に軽く指を添えた。

 モスにしてみれば、この高空の旅路も慣れたものらしい。

 従者としてこの旅に加わった以上、いかなる高所も、魔獣の背も、もはや驚きの対象ではない。

 そう言わんばかりの落ち着きだった。


「オブゴルスト様は誇り高き魔獣達の王でございます。決して、決して、面子が潰れるようなことはせぬよう」


 モスはそう再三の警告をザグロへと伝えた。

 獣の国ブリガランデ。

 その名の下に積まれた屍も、流された血も、モスは記録の上でしか知らぬ。

 だが、オブゴルストという男の目つきと声の温度は一度で記憶に刻まれる類のものだった。


「ザグロ様、礼儀は盾であり、罠でもありまする。牙を隠す術を彼らは持ちませぬ故……」


 そう小さく密やかに述べ、モスは微かに肩を竦めた。

 今回の旅路では、第四十四魔姫と記憶を消失させられた勇者の傍に仕える従者という立場。

 それが政治的な意味であれ、魔術的な観測目的であれ――少なくとも、礼儀作法において一歩誤れば、命を落とすのはザグロだけでなく自分もという自覚があった。

 この一行の中で、最も礼儀作法にうるさいのが自分であることに少しだけ不安を覚えつつも、同時にそれを誇りとも思っていた。

 その瞬間だった――。 


「……っ!」


 ふと、前方にいたザグロの背が僅かに強張った。


(やはり、戦場での勘は残られていますか)


 その異変に、モスは無意識に口を閉ざす。

 あの男は、記憶を消されてもなお、戦場の気配には鋭い。

 何かが来る。

 いや、既に


「……何かいる」


 ザグロは何かに気づいた。

 それは、谷を跨いだ断崖の上だった。

 裂風山羊<ヴァルシグラ>の最後の跳躍を終えたその瞬間、風の中に『視線』が混じった。

 着地と同時に、ゲルアクスがそっと手綱を緩める。

 背に乗る一行を振り返ることなく、彼は低く囁いた。


「……到着です」


 だが、誰もその言葉に返す余裕はなかった。

 眼下の谷に、奇妙な静寂が広がっていた。

 その静寂の中――岩稜の影に、五つの影が並んでいた。

 それは『人の形』をしたもの。

 しかし、明らかに人ではなかった。


 逆立つ栗色の毛並み。

 狼の耳を持ち、爪は剥き出しのまま。

 尾を風に揺らし、鼻腔を広げて匂いを嗅ぎ分ける。

 背には骨と獣皮で編まれた装束、肩には刻印入りの鉄鎖を巻いている。

 立っているだけで、空気が鋭くなる。


 ――獣王直属の亜人狩人部隊。

 それは<ヴル族>と呼ばれる、かつて人と獣の境界で生まれた種族。

 言葉よりも牙を、理性よりも誇りを信じる種。


「……目を逸らされるな。彼らはそれを『逃げ』と解釈する」

「逃げか……」


 モスが静かに忠告し、忠告に従ったザグロは視線を彼らにずっと向ける。

 その声すらも、谷に反響するのを恐れるような緊張を孕んでいた。


「彼らは試しているのです。群れの中に立つ資格があるかを」

「言葉では通じないんだな」

「はい。通じたとしても……それはきっと、既に遅れておりまする」


 ザグロがリゼルダの視線を追うように、ゆっくりと立ち上がる。

 そして、言葉ではなく、ただ真っ直ぐに彼らの眼を見返した。

 沈黙。

 風音すらも遠ざかったその刹那――

 五体の亜人狩人が、同時にその場に無言で膝をついた。


「ようこそ……獣国ブリガランデへ」


 頭を垂れた。

 だが、それは臣従の証ではない。

 牙を収めるという、古き野のしきたり。

 お前達は敵ではないという、唯一の許可。


(獣王……相も変わらず、下らぬ儀礼で出迎える)


 リゼルダは思う。

 それが外交でも、戦略でもなく、ただ『生き物同士の判断』であることに悪感を抱く。

 それでも、ここから先に進まねばならない。

 この地には、あの男がいる。

 獣王オブゴルスト。

 咆哮と欲望を戴冠に変えた、獣の王が――。

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