ブリガランデ――それは獣が王たり得る唯一の国であった。
牙は掟であり、咆哮は理であり、力こそが唯一の法だった。
無数の亜人達が入り混じるこの獣国では、理性と本能の均衡が常に薄氷の上に成り立っていた。
黒岩の山々に囲まれたこの国の中心<グロル=ドマ>。
このグロル=ドマは岩石と骨と、血と炎が積み重ねられている。
風が吹けば、遠き獣達の鳴き声が岩肌をこだまし、空に浮かぶ紅月を仰ぎ見る。
犬頭の群れ、牙を研ぐオーガ達、咽び鳴く蛙男の祈祷。
この国は生きている。
まるで、巨大な一頭の獣そのもののように――。
その『心臓部」にあたる謁見の間には、たった一つの椅子があった。
背には古獣の骨を編み上げた文様、肘掛けにはかつて王に挑んだ者の牙が打ち込まれている。
そして、そこに座するのが獣王オブゴルスト。
「……帰ったか、ゲルアクス」
オブゴルストの声は低く、岩を擦る音のようだった。
その琥珀色の瞳は閉じられていたが、部屋に入る足音だけで誰かを察していた。
ゲルアクスは跪くこともなく、ただその場に立ったまま、肩をわずかに揺らした。
その背の斧からは霧が垂れ、空気に重たく沈殿する。
「北西方<玻璃州>にて、帝国軍の斥候部隊と数度交戦がありました」
「ほう……」
オブゴルストの応じる声は短く、しかし深かった。
喉の奥から響くような重低音には、咆哮に至らぬ怒りが燻っていた。
「討伐は完了。しかし、連中の動きは奇妙に思えました」
「奇妙だと?」
「まるで何かを探るような布陣。それもこちらの『内側』にです」
それを聞いたオブゴルストは目を閉じたまま、肘掛けの牙に手を添えた。
人間共が、こちらの『中枢』を意識して動いている。
それが意味するところに、獣王の琥珀色の瞳がゆるりと開く。
「……我が牙を試すか。牙抜けの民如きが」
声に含まれるのは軽蔑ではない。
むしろ、好敵手として迎えるべき相手の顔を思い描く時の獣の静かな昂ぶりであった。
「もう一つ、報せがございます」
「言え」
「第四十四魔姫リゼルダ様。明朝、ブリガランデへ来訪されるとのこと」
その名が発された瞬間、空気が変わった。
炎を炊いていた炉が、一拍遅れて爆ぜるように音を立てる。
室内に漂っていた霧が一筋、蛇のようにのたうって消えた。
そして、玉座に座るオブゴルストの爪が、肘掛けの牙を微かに砕いた。
「……ふん」
低い鼻息が漏れる。
だがそれは怒りでも苛立ちでもない。
それはかつて欲したものが、自ら再び檻に近づいてくることへの獣としての悦びだった。
その悦びは、獣の本性を押さえられない欲情を覗かせていた。
「俺の城へと来るか……リゼルダが」
オブゴルストは立ち上がった。
天井に届かんばかりの巨体が、ゆらりと骨を鳴らし影を伸ばす。
ゲルアクスは頷きながら答えた。
「リゼルダ様は、姉アシュリナ殿との話し合いと申しておりました」
「俺ではなく……アシュリナの名前を出すか」
その名に、獣王の顔に僅かに引きつったような笑みが浮かぶ。
冷たい義務のために結ばれた姉と、熱い衝動のために欲した妹。
「ふふ……これはまた、香ばしい再会になろう」
その声には獣の色があった。
欲望、懐古、そして――嫉妬。
だが、そのどれもが静かな焔のようにまだ抑え込まれている。
そして、ゲルアクスは更に口を開く。
「……加えて獣王。リゼルダ様の『伴侶』もご同行されるとのことです」
その言葉が落ちた瞬間。
空気が切り裂かれた。
獣王の拳が、爪が、肘掛けの牙を全て粉砕した。
「……ザグロ、か」
その名を噛み砕くように吐き出すと、オブゴルストはゆっくりと天を仰いだ。
天井の赤鉄石には、かつての獣王達の名前が彫られている。
その中に、父バルコザウラと自身の名も刻まれている。
「俺の求めるものを奪った男……リゼルダに相応しいか試してやる」
そのとき、謁見の間の奥にある影の回廊から、乾いた靴音が響いた。
そして、闇をまとったような濃紺の毛皮のすそが、石床を撫でる。
絹ではない。獣の皮と鎖が擦れる、ざらついた音が、場の緊張に溶けていった。
「――まあまあ。お迎えの準備は、それくらいでよろしいのではなくて?」
艶やかな声が、天井に穿たれた赤鉄石にも届くほどに唸った。
振り向くこともなく、オブゴルストは問う。
「……アシュリナか、いつからいた?」
「獣王が我が妹を想って牙をきしませる瞬間なんて、女として聞き逃せませんもの」
姿を現したアシュリナは獣王の傍へと歩み寄る。
その身を包むのは、黒き魔獣の毛皮で仕立てられた戦装束。
肩から背にかけては黒豹のような艶のある毛並み、腰には白狼の尾を編んだ装飾が巻かれ、裾には白虎の牙があしらわれている。
それは単なる衣ではない。
彼女が討ち伏せ、制し、着こなした『力』そのものであった。
「リゼルダはもう、あなたの『狩りの対象』じゃないのよ?」
その瞳は琥珀ではない。
だが、より冷ややかな光でオブゴルストの内に燃える焔を静かに見透かしていた。
「妹はもう、選ぶ側になったの。牙も爪も届かない、高い高い玉座からね」
アシュリナは皮肉を込める。
だがその唇には、嫉妬も未練もない。
ただ、戦女王としての余裕と冷笑だけが浮かんでいた。
「せいぜい礼節はわきまえてね。妹の夫に、みっともないところを見せないように」
その一言が、最後の火種だった。
オブゴルストの爪がゆるく握られる。
もう肘掛けの牙は砕けていない。
だが、その拳が揺れるたびに床の岩が軋む。
「――貴様もまた、俺の牙を試したいと申すか?」
その低い声にアシュリナは眉を動かし、静かに身を翻す。
「怒りを燃やすのは結構だけれど……その熱、肝心な時まで取っておいた方がいいわよ?」
そう残して、深い夜を連想させる魔獣の衣の裾は闇の中へと消えていった。
残された獣王は、再び玉座を睨みつける。
――肘掛けの牙は元には戻らない。
だが、獣王の眼に今や牙を剥くべき相手はただ一人だった。
「ザグロ……否、レオフレッド」
リゼルダの夫として来訪する、あの男だけだった。