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ep21.失われた誓い

 それは夢だった。

 だが、どこかが決定的にずれていた。

 石畳の音が響かぬ回廊。

 揺れるはずの灯火が、風の中で静止している。

 色彩はくすみ、空間の輪郭が溶けかけた絵画のように揺らいでいる。

 世界は確かに在るのに、触れようとすると霧のように指をすり抜ける。


 ゲルアクスの影が消えて久しく、夜は静かにその闇を濃くしていた。

 昏兜城の石造りの回廊には誰の足音もなく、ただ風だけが通り過ぎている。

 ザグロは一人、広間の片隅に立ち尽くしていた。

 胸の奥に、黒い釘のような違和感が刺さっていた。


 ――踊らされる側。


 夢にまで姿を変えて現れる呪いのような言葉だった。


(この名も、この顔も、俺のものじゃない……)


 その疑念に呼応するように、視界の隅に剣の幻影が揺らいだ。

 かつての戦場で見た剣。

 あるいは、誰かの手にあった光の刃――。


「……また、この夢か」


 ザグロは目を閉じた。

 だが今夜は夢の中の『影の剣士』が、いつにも増して近くにいた。

 その影は、ザグロとよく似ていた。

 しかし、目だけは違っていた。

 焼けたような色を宿す瞳が、断罪者のようにザグロを射抜いていた。


「お前は奪ったのだ」


 影が低く呟く。


「名を、使命を、誓いを」


 ザグロは思わず一歩、後ずさった。


「違う……俺は……」


 けれど、その言葉が誰のものなのか、ザグロ自身にもわからなかった。

 影は容赦なく続ける。


「ならば、証せよ。お前の剣が、誰のためにあるのかを」


 霧の中、刃が再び閃いた。

 刃と刃が交差する、まさにその瞬間――。

 世界が白く弾け、音も光も、すべてが霧に呑まれていった。


「ザグロ……ザグロ、目を開けて」


 その声が夢を断ち切った。

 ザグロは小さく息を呑み、重たいまぶたを開いた。

 天井の石材が夜灯に照らされ、鈍い陰影を描いている。

 首を傾けると、すぐ傍らにリゼルダがいた。


「誰の影に怯えていらしたのかしら。夢の中まで戦い続けるなんて」

「……戦い続ける? そう見えたのか?」

「あなたは誰かを斬りつけるように手を伸ばしていた。まるで、目の前に亡霊でもいたかのように――」


 リゼルダの指先が、ザグロの頬にそっと触れる。

 その手は冷たかった。

 だが、どこかで知っている温もりでもあった。

 ザグロは呼吸を整えながら、暫し言葉を見失っていた。

 夢の中の剣の重み、影の眼差し、あの問いが胸の奥でまだ残っていた。


「……何か、見たの?」


 リゼルダは静かに訊ねた。

 その声音は優しかったが、どこか探るようでもあった。


「いや……何でもない」


 ザグロは答えを避けた。

 言葉にしてしまえば、それが現実になってしまう気がした。

 彼はゆっくりと身を起こし、掌を見つめた。

 そこには何も握られていなかった。

 だが、確かに――まだ、熱が残っている気がした。


「今夜の夢――」


 リゼルダはそっと立ち上がった。

 月灯りが寝巻の薄布を透かし、その輪郭を夜の静寂に溶かしていく。


「きっと、何かがあなたに呼びかけていたのでしょうね」


 リゼルダの声は、夢の続きを紡ぐように柔らかかった。


「だから、私も伝えねばと思いましたの」

「明朝、私は昏兜こんとうを発ちます。獣王や姉達が住む<ブリガランデ>へ向かうために」

「……行くのか?」

「ええ、末姫は上位の血族の命には逆らえません。それに、姉アシュリナとも話したいことがありますもの」


 ザグロは黙ってその背を見つめていた。

 眠りの余韻が残る空間に、あの夢の残響がまだくすぶっている。


「この地をまた空にしてしまうのは心苦しいけれど、動かねば何も変わりませんからね」

「動く?」

「獣王の嫉妬に火を点けたのですよ。まさか、あれほどに上手くいくとは思いませんでしたわ」

「嫉妬だと……それはどういうことだ?」


 リゼルダはゆっくりと振り返った。

 その目は、ほんの少しだけ遠くを見ていた。


「獣王が姉上との結婚は、ただ父の采配に従った結果に過ぎません。彼が『本当に欲したもの』は別にあったのですよ」

「……別にあった?」

「ええ、それは私ですわ」


 ザグロは息を呑む。

 リゼルダの声は淡々としていたが、その奥に微かな熱があった。

 月明かりが彼女の横顔を縁取り、影と光が揺らぐ。

 冗談では済まされない言葉の重みが、夜気の中で静かに落ちていく。


「まさか……あの祝宴は計画の一部なのか? リゼルダ、君は何をしようとしている」

「計画? 私に所見を求めたのは獣王です。それに、あの宴に『匂い』を付けたのは兄のルベルドですわ」

「そうか……祝宴を主催したのはルベルド王子だったな」

「ふふっ……兄の嗅覚は『嫉妬』という毒気に実によく反応してくれましたわ」


 リゼルダは楽しげに笑ったが、その微笑みは炎を含んでいた。

 それは感情ではなく、冷たい計算が火種となったものだった。


「まさか……獣王の感情を利用したのか」


 彼女は感情を道具とし、過去すらも布石にして利用する。

 それがリゼルダという女の、魔姫としての本質なのだとザグロは思った。


「誰が企て、誰が踊ったか――きっと『記録者』は笑っていたでしょうね」

「記録者? 何のことだ」


 ザグロが眉をひそめた瞬間、リゼルダはふっと視線を逸らし、天井に止まる紫の羽虫を見上げた。


「ザグロ、深く知ろうとしないで。あの者は記録することが仕事なのですから」


 ザグロには『記録者』が何を指すのか分からなかった。

 だが、その言葉に込められた含意が妙に肌にまとわりついて離れなかった。


「それよりも……」


 リゼルダは静かに肩をすくめた。

 それは優雅な所作だったが、どこか打算の影を含んでいた。

 内心では既に次の手を打っている者だけが持つ静けさだった。


「獣王の眼差しは嫉妬に塗れておりましたわ。まるで玩具を取り上げられた子供のようにじっと……私ではなく、あなたを見ていた」

「俺を……?」

「そう。彼にとって私は『かつて欲した女』であり、あなたは『奪った男』。この二重の炎を見せつければ、彼の内に眠る獣もきっと――吠える」


 リゼルダの瞳が夜の中で妖しく光った。

 その策略は、ただの個人的な復讐ではない。

 獣王オブゴルストと姉アシュリナ、そしてブリガランデという魔国の深部に揺さぶりをかける政治劇の一手だった。


「そして、あなたにも来ていただきます」

「……俺が?」

「あなたは『象徴』ですから。魔姫リゼルダが選んだ異形の伴侶――それを彼に見せるのが何より効きますわ」


 ザグロは言葉を飲み込んだ。

 夢の余熱がまだ残る掌を、膝の上で握りしめる。

 剣の影はなお胸の奥に燻っているが、今はリゼルダの言葉のほうが鋭かった。


「ザグロ……」


 リゼルダは小さく囁くようにザグロの額へ唇を重ねた。

 その唇は冷たく、けれど不思議と安らぎを帯びていた。


「共にまいりましょう。獣王を討ち、魔国の歪みを正すために」

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