利用するものもいれば――。
――恐れるものもいる。
その意味するところは、ザグロにとって答えではなかった。
むしろ、新たな問いだった。
ザグロはただ、リゼルダの目に映る何かを見極めようとしていた。
自分が誰で、何を背負わされているのか?
真実はその瞳の奥にあると信じて――。
「第四十四魔姫リゼルダ様。突然の来訪、誠に失礼致します」
甲高い金属音が昏兜城の裏庭を揺らした。
それは決して敵意のある音ではない。
だが、招かれざる者が城の境界を踏み越えたことを知らせる音だった。
「私は獣王オブゴルスト様の使いで参上仕りました。<
姿が濃霧の中から滲み出るように現れた。
種族は<リザードマン>――
藍色の鱗に覆われた体は、古びた戦士のような鎧兜に包まれていた。
湿地に沈む石柱のような体躯は無言の圧力を放ち、風の音すら遠ざけるほど――。
そして、その背に担がれていたのは『巨大な戦斧』。
柄には黒鉄と骨が混ざり、刃には古獣の呪刻が彫り込まれている。
まるで儀式に使われる聖具のようでありながら、現実には戦場で何十もの首を落としてきた重みがある。
「そのような格好で――無礼にも程がありましょう」
鱗の隙間からは、黒い沼の泥のような気配がにじみ出ている。
この突然の来訪者に対し、リゼルダの声は冷ややかだが怒りはない。
まるで毒に触れぬよう、確実に距離を測る者の声だった。
しかし、霧藍のゲルアクスは眉一つ動かさず、ぬめるような声で応じた。
「無礼は心得ております。されど、これは『獣王の言葉』を背負う印にして、合図でもありますゆえ」
その斧の柄を、ほんの僅かに掲げる。
それだけで、空気が一層ひんやりと冷たくなった気がした。
「我が背の斧は、言葉に代わる重み。我が身にまとう霧は、沈黙に代わる伝令。我は語らずとも、察する者だけに届けばよいと――獣王はそう申されました」
リゼルダは無言でゲルアクスを見据える。
その瞳の奥には、計算と警戒が渦巻いている。
「リゼルダ様! ザグロ様!」
後方より現れたるはモス達、リゼルダ配下のゴブリン達であった。
全員が剣や槍、あるいは鉄鎌などを手にし、戦闘態勢に入っていた。
中には魔法符を構える者の姿もあり、薄暗い庭の空気がぴりぴりと緊張を帯びた。
モスは歯をむき出しにして前に躍り出ると、ゲルアクスの方を睨みつける。
「ッ……失礼をお詫び致します、我らの警戒が至りませんでした! どうか、ご退避くださいますようお願い申し上げます!」
その声は震えていたが、彼なりの忠誠と勇気の証でもあった。
しかし、ゲルアクスはその小兵どもを一瞥もせず、ただ背の斧に手をかけることさえしなかった。
代わりに、低く、呪のような声で述べた。
「これは……言葉を操るまでに育てられたか。いやはや、リゼルダ様の御教育の賜物でございますね」
斧の柄に軽く指を添えたまま、ゲルアクスは顔だけをザグロの方へ向ける。
その口元には、何かを見透かしたような笑みがあった。
「記憶を喪った英雄。おとぎ話ではよくある役どころですが……現実では踊らされる側でありますな」
「ゲルアクスと申されましたね……貴殿はそんな嫌味をいうために無断で侵入されたのですか?」
ゲルアクスはにやりともせず、ただ静かに言った。
「嫌味ではなく、事実の指摘にございます。最も……姫が気にされるほどには核心に近かったのでしょうな」
「核心に触れた者は、同時に災いにも触れるものです。貴殿の舌、折れても知りませんよ?」
「舌を折るか、我が斧を砕くか。どちらが先でも、私は構いませぬが――」
背後のモス達が武器を握り直した。
ゲルアクスは一歩も動いていないというのに、その存在が周囲の緊張を強制的に引き上げている。
それはまるで、いつでも戦闘が始まる合図を全員が待たされているようだった。
「いい加減、言葉遊びは終わりにしましょうゲルアクス。何用でこちらに?」
「獣王はこう申されました。祝宴と銘打たれた催しの裏で『人と魔の間に新たな焔がくすぶり始めている』と」
その言葉に、ザグロの眉がわずかに動いた。
リゼルダは目を細めるが、沈黙を保ったまま反応を返さない。
「獣王は貴女の『焔』に気づいておられる。この結び目を用いて、何を燃やし、何を残すつもりか――」
沈黙が落ちる。
庭に立つ誰もが、呼吸の音すら抑えるようにゲルアクスの言葉の余韻に耳を澄ませていた。
やがて、リゼルダが口を開く。
「それが真実なら貴殿はこうしてここに現れるより先に、私に火消しの軍を差し向けることもできたはずでは?」
「それをせぬのが、力を誇る獣王のやり方にございます」
ゲルアクスはわずかに顎を引き、斧の柄から手を離した。
その指先には、少しばかりの霧がまとわりついていた。
そして、腰の袋に触れかけて――だが、何も取り出すことなく静かに言葉を放つ。
「お越し下さいませ。我らが<獣国ブリガランデ>へ」
その響きは、まるで獣王オブゴルスト本人が耳元で囁いたかのようだった。
場の空気がわずかに変わる。
誰もが言葉を失う中でただ一人、リゼルダだけが一歩進み出た。
「そのお誘い、私宛ということでよろしいのね?」
ゲルアクスは無言で頷く。
その眼差しは「察しているだろう」と言外に語っていた。
リゼルダは笑みすら浮かべず、ただ踵を返す。
「アシュリナ姉様に会える機会など、そう何度も訪れるものではないでしょうから」
それは誰に向けたわけでもない、独白のような呟きだった。
だが、そのひと言で、場の緊張はリゼルダの掌に吸い寄せられていった。
重くなる沈黙の中、ザグロが妻を見つめながら問う。
「アシュリナ……?」
「獣王の妻にして、第三魔姫――私の姉ですわ」
口伝の言葉一つで、戦火の香りが漂い始める。
招待とは名ばかりの、導火線に火がついた瞬間だった。
誰が書いた台本かはまだ見えずとも、舞台はすでに整っていた。