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ep19.黒き夫婦の日常

 試練と祝宴を終え、ヒルデラント伯領に戻ったザグロとリゼルダ。

 黒き夫婦の安息所でもある昏兜こんとう城に戻った二人は、高台にある小さなテラスで休息をとっていた。


「苦いな、この茶は」

「それは<魔蓮の葉>。覚醒作用があると言われています」

「そうなのか、個人的には甘みも欲しいところだ」


 ザグロはリゼルダの淹れた茶に、音も立てず角砂糖を二つ沈めた。

 その仕草に気づいたリゼルダが、ふと唇をゆるめる。


「甘党だったのですね?」


 リゼルダがそう微笑んだ時、その目元にふと陰が差した。


「あなたが……焔に包まれて倒れたとき……覚えていますか?」


 ザグロは眉をひそめる。

 質問の意味がすぐには呑み込めなかった。


「……どういう意味だ?」

「ちょっとした確認ですわ」


 ザグロの指が止まる。

 カップの中の茶が揺れ、僅かに音を立てた。


「……よくは……覚えていないが……」

「そうですか……それならばよいのですが……」

「いや……でも、いつか夢なのか現実なのか、おかしなものを見たときがある」

「おかしなもの?」


 リゼルダの声が、わずかに緊張を帯びる。

 ザグロはゆっくりと、記憶をたぐり寄せるように言葉を選んだ。


「断片だ。頭の奥に引っかかっていた映像が、ふとした拍子に流れ込んできたことがある」


 彼は茶の湯気の向こうを見つめながら、低くつぶやいた。


「妙に暖かいんだけども痛かったんだ」

「痛かった?」

「ああ……記憶というより、魂の奥底から湧きあがってくる幻影。そこには……懐かしい『気配』があった」

「気配ですか……」


 リゼルダの声音は柔らかいが、その言葉の重みは甘茶には似合わなかった。


「リゼルダ、俺は目が醒めたときには君の夫となっていた。だが、俺は何者なんだ? どうしてここにいる? 過去というものを思い出せないでいる」


 その声は苦悩に濁っていた。

 言葉を重ねようとした――そのときだった。


「うっ……!?」


 焼けつくような音が、ザグロの胸元から立ち上った。

 熱ではない。重く、冷たい光――。

 灰色のシャツの布地の下から、蛇の紋章が淡く輝き始めた。


「……ッ!」


 ザグロの身体が、ひとつ小さく痙攣した。

 視界が滲み、時間が切り離されたように世界の輪郭が曖昧になる。


「……ザグロ」


 リゼルダが夫の名を口にした。

 その声音には、焦りも驚きも――慈しみさえ、含まれていなかった。

 灰色の下着の布地の下から、ザグロの胸元に刻まれた呪印。

 その呪われし紋章が、ゆるやかに輝きを増していく。

 それは蛇のようにうごめき、淡い光のなかで記憶の回路をとぐろ巻く。

 ――封記の蛇。

 問いかけの輪郭が、意識の底から静かに断ち切られていく。


 ――思考が凍る。


 自分が何を言おうとしていたのか。

 誰のことを、何かを思い出しかけていたのか。

 その全てが、砂に水を注いだように吸い込まれていく。


「……すまない、少し……眩暈めまいがしただけだ」


 ザグロは茶を口元に運ぼうとしたが、手が微かに震えていた。

 リゼルダは何も言わず、その手に自らの指をそっと重ねた。


「あなたは、今ここにいる。それだけで充分でしょう?」


 その微笑みは憐れみか、あるいは――支配の悦びか。

 ザグロは頷いた。

 だが、どこかに小さな違和感が残っていた。


(何かを……止められたような……)


 その何かが、何だったのか。

 ザグロはもう思い出せなかった。


「少し外を歩きませんか」


 何も語らず、ただ今だけを見つめるようにリゼルダはザグロの腕をとった。

 そして、まるで最初から決まっていた道を歩くように外へと誘った。


***


 リゼルダに手を引かれるようにして、ふたりは昏兜城の裏庭へと足を運んだ。

 そこには、妖魔の黒薔薇と称される<夜灯花>が静かに咲いていた。


「この花には逸話がありますの、人間達の間に――」


 リゼルダが、指先でそっと一輪を撫でながら語り出す。


「かつて、神が最も愛した者の記憶を守るために、この花を地上に咲かせたのだとか」

「守るために……記憶を奪う?」


 ザグロの声には、僅かな疑念と引っかかりが滲んでいた。


「記憶を封じる、という方が正しいのかもしれません。あるいは美しかった想い出だけを、永遠に閉じ込める花」


 リゼルダの微笑みには、どこか哀しみと、毒が混ざっていた。


「綺麗でしょう? でも、だからこそ毒もあるのです」


 彼女は夜灯花の一輪を摘み、ザグロの胸元へそっとあてがった。

 淡い香りが、胸の呪印に重なるように漂う。


「それでも、私はこの花が好きなんです。美しくて、そして……人を忘れさせてくれるから」


 ザグロは、笑うこともできなかった。

 ただ黙って、その手のぬくもりと花の香りに身を委ねていた。


「このヒルデラント伯領は、もとは人間のもの。ですが、領地が魔に塗り替えられ人間の色は消えました」

「人間は……本当にいないのか?」

「ええ、一人も。皆殺しか、あるいは逃げ果せてどこかで静かに息を潜めていることでしょう。ですが、名を語れる者はもういません」


 リゼルダの声音は、まるで歴史の講義のように冷ややかだった。


「けれど、奪った側は常に怯えるものです。かつての持ち主が、いつか戻るのではないかと」


 ザグロが視線を動かすと、リゼルダが静かに言葉を重ねた。


「だからこそ、あなたは希望でもあり、恐怖でもある」

「恐怖……?」

「あなたを利用するものもいれば、恐れるものもいるということです」

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