試練と祝宴を終え、ヒルデラント伯領に戻ったザグロとリゼルダ。
黒き夫婦の安息所でもある
「苦いな、この茶は」
「それは<魔蓮の葉>。覚醒作用があると言われています」
「そうなのか、個人的には甘みも欲しいところだ」
ザグロはリゼルダの淹れた茶に、音も立てず角砂糖を二つ沈めた。
その仕草に気づいたリゼルダが、ふと唇をゆるめる。
「甘党だったのですね?」
リゼルダがそう微笑んだ時、その目元にふと陰が差した。
「あなたが……焔に包まれて倒れたとき……覚えていますか?」
ザグロは眉をひそめる。
質問の意味がすぐには呑み込めなかった。
「……どういう意味だ?」
「ちょっとした確認ですわ」
ザグロの指が止まる。
カップの中の茶が揺れ、僅かに音を立てた。
「……よくは……覚えていないが……」
「そうですか……それならばよいのですが……」
「いや……でも、いつか夢なのか現実なのか、おかしなものを見たときがある」
「おかしなもの?」
リゼルダの声が、わずかに緊張を帯びる。
ザグロはゆっくりと、記憶をたぐり寄せるように言葉を選んだ。
「断片だ。頭の奥に引っかかっていた映像が、ふとした拍子に流れ込んできたことがある」
彼は茶の湯気の向こうを見つめながら、低くつぶやいた。
「妙に暖かいんだけども痛かったんだ」
「痛かった?」
「ああ……記憶というより、魂の奥底から湧きあがってくる幻影。そこには……懐かしい『気配』があった」
「気配ですか……」
リゼルダの声音は柔らかいが、その言葉の重みは甘茶には似合わなかった。
「リゼルダ、俺は目が醒めたときには君の夫となっていた。だが、俺は何者なんだ? どうしてここにいる? 過去というものを思い出せないでいる」
その声は苦悩に濁っていた。
言葉を重ねようとした――そのときだった。
「うっ……!?」
焼けつくような音が、ザグロの胸元から立ち上った。
熱ではない。重く、冷たい光――。
灰色のシャツの布地の下から、蛇の紋章が淡く輝き始めた。
「……ッ!」
ザグロの身体が、ひとつ小さく痙攣した。
視界が滲み、時間が切り離されたように世界の輪郭が曖昧になる。
「……ザグロ」
リゼルダが夫の名を口にした。
その声音には、焦りも驚きも――慈しみさえ、含まれていなかった。
灰色の下着の布地の下から、ザグロの胸元に刻まれた呪印。
その呪われし紋章が、ゆるやかに輝きを増していく。
それは蛇のように
――封記の蛇。
問いかけの輪郭が、意識の底から静かに断ち切られていく。
――思考が凍る。
自分が何を言おうとしていたのか。
誰のことを、何かを思い出しかけていたのか。
その全てが、砂に水を注いだように吸い込まれていく。
「……すまない、少し……
ザグロは茶を口元に運ぼうとしたが、手が微かに震えていた。
リゼルダは何も言わず、その手に自らの指をそっと重ねた。
「あなたは、今ここにいる。それだけで充分でしょう?」
その微笑みは憐れみか、あるいは――支配の悦びか。
ザグロは頷いた。
だが、どこかに小さな違和感が残っていた。
(何かを……止められたような……)
その何かが、何だったのか。
ザグロはもう思い出せなかった。
「少し外を歩きませんか」
何も語らず、ただ今だけを見つめるようにリゼルダはザグロの腕をとった。
そして、まるで最初から決まっていた道を歩くように外へと誘った。
***
リゼルダに手を引かれるようにして、ふたりは昏兜城の裏庭へと足を運んだ。
そこには、妖魔の黒薔薇と称される<夜灯花>が静かに咲いていた。
「この花には逸話がありますの、人間達の間に――」
リゼルダが、指先でそっと一輪を撫でながら語り出す。
「かつて、神が最も愛した者の記憶を守るために、この花を地上に咲かせたのだとか」
「守るために……記憶を奪う?」
ザグロの声には、僅かな疑念と引っかかりが滲んでいた。
「記憶を封じる、という方が正しいのかもしれません。あるいは美しかった想い出だけを、永遠に閉じ込める花」
リゼルダの微笑みには、どこか哀しみと、毒が混ざっていた。
「綺麗でしょう? でも、だからこそ毒もあるのです」
彼女は夜灯花の一輪を摘み、ザグロの胸元へそっとあてがった。
淡い香りが、胸の呪印に重なるように漂う。
「それでも、私はこの花が好きなんです。美しくて、そして……人を忘れさせてくれるから」
ザグロは、笑うこともできなかった。
ただ黙って、その手のぬくもりと花の香りに身を委ねていた。
「このヒルデラント伯領は、もとは人間のもの。ですが、領地が魔に塗り替えられ人間の色は消えました」
「人間は……本当にいないのか?」
「ええ、一人も。皆殺しか、あるいは逃げ果せてどこかで静かに息を潜めていることでしょう。ですが、名を語れる者はもういません」
リゼルダの声音は、まるで歴史の講義のように冷ややかだった。
「けれど、奪った側は常に怯えるものです。かつての持ち主が、いつか戻るのではないかと」
ザグロが視線を動かすと、リゼルダが静かに言葉を重ねた。
「だからこそ、あなたは希望でもあり、恐怖でもある」
「恐怖……?」
「あなたを利用するものもいれば、恐れるものもいるということです」