夕日に染め上げられた赤土に、砂塵が舞う。
足元から伸びた影が、恐怖を代弁するように、背後の町――ヴァネッサへと伸びていった。
吹きつける風が、容赦なく結った髪を引いていく。
乾いた空気が、目に痛い。無意識に、その鮮やかな黄色の双眸を細めた。
「皆、下がれ」
厳かに命ずれば、整然と並ぶ隊列がサッと割れた。
翻る騎士団服の
整列した騎士たちの間を進む者は、すべての人々の視線を一斉に攫っていく。
線の細い肢体は、ここが歌劇場の舞台上であるかのような足取りで進み出る。頭の高い位置で結った艶やかな
騎士たちのため息が、さざ波のように赤い砂上に落ちた。
死への恐怖すらも凌駕する、凛々しい騎士の姿は集う騎士たちの胸に静かな高揚をもたらした。
そんな静かな熱気を裂いたのは、大地を揺るがすほどの咆哮だった。
砂塵の間から飛び出した
その巨躯は、優に一階建ての民家の屋根にまで達するほどだ。誰もが恐怖に震え上がる中、最前線にて相対する騎士――テナー・ルクエスは襲い来るロックベアを穏やかな微笑を浮かべて迎える。
「おいで」
淑女をダンスに誘う紳士のごとく、左手を胸に当て、もう一方の手に収まる剣先をロックベアへ向ける。
もはや意志を手放し、白く濁ったロックベアに騎士の声は届かない。されど、かつての霊獣としての本能か、ロックベアは己を脅かすテナーの姿をその両眼に映した。
ロックベアの視界が突如、天地を逆さにする。
足元から伸びた巨大な氷柱が、ロックベアの全身を押し抱いた。地平線へと沈んだ陽の紅が消え、銀月と静かな星の瞬きが地上を藍へと塗り替える。
月光を受けた氷柱が、町の郊外で慰霊碑のように聳えていた。
「さすがは、『銀氷の騎士』。一瞬だ……」
誰かの呟きが、テナーの背に投げかけられる。
氷柱にその身を覆われたロックベアに、テナーは近づいた。
手袋をした手で、霜が覆う氷柱を撫でる。
「どうか安らかに。銀月の乙女の祝福が、その魂に降り注がんことを」
哀悼の言葉とは裏腹に、テナーの瞳は輝きを失う。氷柱の中で幼子のように丸まっているロックベアの姿が、かつての己の姿と重なった。
戦闘後の高揚感などとうに失せ、後始末を部下に指示すると足早にその場を後にする。
月明りに照らし出された白い大地に、テナーの影がうっすらと刻まれる。空の色によってその表情を変えるヴァネッサは、ヴェルナンド王国の最西端に位置する隣国との国境線である。
日干し煉瓦に、テナーから伸びた影が大きく映し出された。
視線を路地に向ければ、焚火を囲んだ人々が夜の女神への賛歌を陽気な声で歌い上げている。
ウードを片手に旋律を爪弾く男性。
手拍子で賛歌を歌い上げる恰幅のいい女性。
周囲を囲む人々は親戚か何かだろう。
沙羅の絨毯に並べられた皿に香辛料の効いた肉料理や瑞々しい果物、芳醇な香りの漂う酒が振舞われている。
そんな人々の視線を一身に集めているのが、赤い絹の衣装に身を包んだ年若い娘と白い貫頭衣に緩やかな下履きを纏った青年だった。
どうやら結婚式のようだ。
死を司る夜の女神の下で結婚式を挙げるのは、隣国ケトルッカの風習だ。
長い歴史の中で幾多の戦乱に晒されたヴァネッサの人々は、死の女神の前でも強かなようだ。郊外で行われた害獣の討伐など気にする様子もなく、人々は思い思いにご馳走を頬張りながら新郎新婦の門出を祝福している。
テナーの目が、年若い娘に吸い寄せられる。その顔には見覚えがあった。
幸せそうに微笑む娘は、やや丸みを帯びた輪郭の、アーモンドのような愛らしく丸い瞳をした娘だった。美人ではないが、守ってあげたくなるような庇護欲をそそられる容姿である。花嫁衣裳はヴァネッサ新郎を見上げ、くすくすと笑い合う様は傍目からも仲睦まじい。
纏う「紅」は同じながら、纏う「人物」によってこうも違うものなのか。
テナーは眉間のしわを深め、サッと目をそらした。
そのまま、騎士団の詰め所へ歩を進める。背後からドッとわき起こる笑い声が、テナーの中で燻る不快感を掻き立てた。
テナーが逃げるように入ったのは、ヴェルナンド王国風の建築である木造と煉瓦を組み合わせた二階建ての建物だ。守衛に軽く手を挙げて挨拶し、テナーは階段を上ってヴァネッサ一帯の騎士を統括している団長の部屋の前に立つ。
「テナー小隊長、入りなさい」
ノックをする前に、中から声がかかる。
「失礼します」
執務室では、褐色の肌に白い髭を生やした壮年の男が、眉間にしわを寄せて立っていた。テナーの視線が、団長の手に持っている封書の蝋印に吸い寄せられた。
太陽を背負う
「ロックベアの討伐、無事完了いたしました」
テナーは右手の拳を左胸にあて、左腕を腰に添える敬礼をとる。団長は静かに頷くと、手元の便箋に目を落とした。
「テナー小隊長。本日をもって貴官はヴァネッサ害獣討伐小隊の隊長の任を解かれた。騎士団本部より、王都への帰還命令が出ている。貴官同様、転属命令を受けた騎士たちを引きつれ、一週間以内に王都へ出発しろ」
「は? 王都への転属? 私が……ですか?」
淡々とした事務連絡に、テナーは眉根を寄せた。
「ああ。正直、こちらとしては戦力の大幅な削減に頭を抱えている。中央の足手まといを送り付けられても、三日と持たんだろう」
団長もその厳めしい顔に苦いものを滲ませている。
ヴァネッサへの害獣の襲撃数は、五年前からその頻度を増やしている一方だ。小隊規模でその猛攻を食い止めることができているのも、団長を始め、テナーのように霊獣の加護持ち騎士が数名、持ち回りで応戦しているからに他ならない。
「しかし、王都から隣国へ向かう
団長の鋭い視線を受け、テナーは得心する。
「荷物を整理し、明日にはここを発ちます」
テナーは団長の執務室を辞すと、真っ直ぐ寄宿舎の自室へと向かった。
室内は閑散としている。木造のベッドに、机と椅子、騎士団の制服を仕舞うクローゼットがあるのみだ。
テナーは迷わず両開きのクローゼットを開けた。そこには、麻紐でまとめて括られた封筒の数々が束になっていた。クローゼットの扉を開けた瞬間、何束かテナーの足上に落下し、床に手紙が数枚散らばる。
テナーは薄桃色の封筒を拾い上げる。ヴァネッサに着任して以来、五年。町の女性たちから受け取った
先程、結婚式を挙げていた娘の名前もある。
「『憧れ』は所詮……いずれは取り残される」
テナーはため息とともに、手紙の束を抱えて寄宿舎の裏へと回る。地面に僅かに掘った穴に娘たちから送られた手紙を放り込み、火をつける。
手紙の束と一緒に持ち出した麻袋が一つ、テナーの足元に落ちた。緩んだ袋の口から飛び出した手製の人形が、その無機質な目をテナーへ向けてくる。
ヴァネッサへ着任したばかりの頃、王都でテナーに熱を上げていた令嬢からの贈り物だ。
テナーを模したと思しき騎士の人形と、ふんだんにフリルをあしらった愛らしいドレスを纏った令嬢の人形。
テナーは地面に転がり、薄汚れた人形を拾い上げる。
手にした人形と、討伐後に目にした娘の結婚式での表情が重なる。
「……結局、私は『騎士』以外になれはしないんだな」
テナーは手元の人形を握り潰した。そのまま、手紙とともに火の中へ投げ入れる。
愛らしいお姫様のような人形が炎に焼かれ、黒々とした灰となって消えていった。