「あ、ほら見て、テナー。綺麗な庭だね」
黙り込んだテナーの腕を、ルクルが不意に引いた。
顔を上げると、クレティタン公爵邸の庭に咲き誇る紫の花が一斉にテナーの眼前に広がる。
「この花は……?」
小ぶりな花がいくつも集まった花を、テナーは初めて目にした。
四枚の菱形の花弁が中心の花柱に集まっている様は、職人による技巧のようにも思える。卵型の葉は青々と茂り、月光の下で夜露に濡れていた。
「叔父上が昔、小さい島国から持ち帰ったものだって言っていたよ。確か……『
「雨の薔薇……」
テナーはそっと目を細める。
小さな花が集まった雨の薔薇は、ひと房がテナーの両手に収まりきらないほど立派だ。色もよく見ると、紫、白、青と色の濃淡が徐々に境界を曖昧にしていく。
「綺麗……」
テナーがそっと雨の薔薇のひと房に触れる。白百合宮に植えられた薔薇のような芳香はないが、見目の派手さで目を楽しませてくれる。
「あそこの噴水には雨の薔薇の花を切り取って浮かべているって叔父上から聞いたよ。おいで!」
ルクルのはしゃいだ声に背を押され、テナーは庭の中央に誂えられた泉の前に進み出る。
今は水量を抑えているのか、川のせせらぎのような音を立てている。
穏やかに波打つ水面には、ルクルの話していた通り、切り取られた雨の薔薇の頭花が浮かんでいる。切り花だと知っていなければ、水辺で咲く花だと誤解しただろう。
「公爵様はこういった趣をご理解されているのですね」
切り花を噴水に浮かべて愛でるというのは、なかなかない発想である。
「叔父上はよくも悪くも形式に囚われるのを嫌うからねー」
「ふふっ、殿下は公爵様の気質を受け継がれたようですね」
他人事のように告げるルクルに、テナーは思わず笑った。
すると、ルクルは意外だったのか、不思議そうにテナーを見上げてくる。
「ぼくが叔父上に似ている? それは初めて言われたよ……」
「気質の面のみ、ですね。容姿はご両親に似て麗しいですよ」
「それ、本当に褒めているの?」
「もちろんです」
疑わしげにこちらを見つめるルクルに、テナーは愛好を崩したまま頷いた。
なんとなく、先程までの甘い雰囲気が和らいだ空気にテナーはホッとする。
噴水の縁に手をかけ、そっと水面を覗き込む。雨の薔薇の隙間から、頭上で輝く銀月が伺えた。しかし、その姿が欠けているせいか、普段よりもその光は弱々しい。代わって、噴水の水底は暗い闇が鎮座していた。
居座る闇が、銀月を捕えてその身を食らっているかのようだ。
テナーがそんな感想を抱いた瞬間、背筋に悪寒が駆け抜けた。
咄嗟に身を硬くしたテナーの眼前で、水面が大きく揺れる。
「テナーっ!」
ルクルの叫びに、テナーは反射的にルクルを突き飛ばした。水面から伸びた黒い手が、テナーの腕を掴む。
身を震わせるほどの、冷たい手だった。
「殿下、お逃げくださ――」
声を張り上げた瞬間、全身を凍てつく闇に飲み込まれた。
一瞬、視界が闇に閉ざされる。
テナーは黒い手に掴まれた腕を引き、闇を振り払う。視界が開けた。
そこは見知らぬ場所だった。
廃墟となって久しいのだろう。
朽ちた石壁には蔦草が這い、夜空には星の輝きすらも見当たらない。
周囲の気配を探るが、人どころか、野鳥のさえずりさえも聞こえない。草木を揺らす風はその息を止め、暗鬱を滲ませた空気はテナーの全身に重くのしかかってきた。
まるで、戦いの前の静けさに似ている。
テナーはこの奇妙な空間を、すぐさま「敵地」と見なした。静謐とした空間で、テナーは己の手のひらをかざす。凝縮した冷気を剣に変え、一振りの氷剣を生み出した。
ドレスの裾を掴み、一瞬だけ、迷った。
せっかく、ルクルから贈られたドレス。
ルクルから、テナーに似合うと仕立ててくれたもの。
テナーはドレスの裾を握る手に力を込めた。このような状況では、身の安全を第一に考えなければならない。もしかすると、ルクルもテナー同様、この奇妙な空間に囚われている可能性だってあるのだ。
今の私は「騎士」でなければならない。
テナーは自分の気持ちに蓋をすると、硬く目をつむる。ドレスを太ももの辺りまで一息に裂いた。締め付けられていた両足が自由になったが、心はずんっと重くなる。
「殿下……ご無事だろうか?」
テナーは己を奮い立たせるように、顔を上げ、キッと虚空を睨んだ。
気配はないが、「視線」は感じる。
テナーをこの奇妙な空間へ引きずり込んだ、あの「黒い手」の主だろうか。
「出てこい。貴様は何者だ? 目的は何だ?」
テナーの誰何に、闇が揺らめいた。
周囲に満ちていた闇が、人の形を
テナーの背筋を、悪寒が駆け抜けた。反射的に、手にした氷剣を突きつける。
己の歯の根が合わない。
黒い人影を前に、テナーは本能的な恐怖を感じた。
一気に懐に潜り込み、先制するか。距離をとって氷刃で串刺しにするか。あるいは、黒い影の全身を氷漬けにしてしまうか。
幾通りかの攻撃方法を脳裏に浮かべるが、己の足はほんの少しも前に進もうとはしない。
五年間、ヴァネッサで害獣の掃討に明け暮れていた時でさえ、これほどの恐怖を感じたことはない。
目の前の影に攻撃を仕掛けた瞬間、テナーは己が死ぬ未来しか想像ができなかった。
こちらが動かないことをいいことに、黒い影が地面を滑るように近づいてくる。揺らめく黒い腕が、テナーに伸ばされた。
「私に触るなっ!」
半ば悲鳴のように叫んだ。
次の瞬間、テナーの足元から生じた冷気が、彼女の拒絶をその氷刃に乗せて黒い影へと伸びる。
煙が払われるように、黒い人影は消えた。
まだ、いる。
テナーの視線が、周囲をくまなく走る。
瓦礫と化した壁、折り重なった柱の山、蔦の覆い茂る天井……周囲を見回し、常に冷気で全身を覆って奇襲に備えた。
暗い闇が四方から取り囲み、肩で息をするテナーを嘲笑う。
どこにも逃げ道のない、鳥かごの鳥を眺めているかのようだ。
「殿下……」
テナーの中で、恐怖がじわじわとあふれ出る。出口の見えない迷宮に取り残されてしまったかのように、テナーは己の理性が崩れていくのを自覚した。
背筋を這いまわるような嫌悪感に、テナーは背後を振り向く。
黒い影が、テナーに覆いかぶさるように覗き込んできた。
「ひっ……」
黒い影の手が、テナーの首にかかる。咄嗟に腕を切り落とそうと氷剣を振るうも、煙を切ったようでまるで手ごたえがない。
黒い影の顔が、テナーに近づく。
「……夜、妃……」
黒い影に触れられ、頭の中にくぐもった「声」が響いた。
黒い影がさらに身を寄せてくる。それが抱擁だと気づいた瞬間、テナーは恐怖に目を見開いた。己の首に巻き付く影の腕が、ゆっくり自分の中に入って来ようとしていた。
「いやぁああああぁっ! 殿下! 殿下!」
顔をそらし、急所である喉元を突き出すような恰好になって叫ぶ。徐々に呼吸を奪われていくような恐怖と絶望の中で、テナーは涙を流しながら天使のように愛らしい主の顔に必死に助けを求めた。
「助けて……ルクル様……」
テナーの震える唇から、囁くような声がこぼれる。テナーの全身が、影の中へ没しようとした瞬間、眩い光が影を裂いた。
黒い影が大きく仰け反る。
その瞬間、石のように硬直していた体が一気に軽くなった。踏ん張ろうとしたが、テナーは氷剣を投げ出す形で地面に座り込む。
ぶぅうんっと虫の羽音に似た羽ばたきが耳元で留まる。
テナーがゆっくりと顔を上げると、青い羽を持つ
「……殿下?」
リトル・ハミングを見つめ、テナーはそっと指先を伸ばす。
姿形は全く違う。けれど、小鳥がテナーを見つめる瞳が、とても優しい。
今までテナーに、こんな眼差しを向けてくれた人はただ一人だけだ。
テナーの指先がリトル・ハミングのくちばしに触れた瞬間、小鳥の姿が解ける。無数の光の筋となり、その中から伸びた手が、テナーの手を強く握りしめた。強い力で引っ張られ、テナーは目を硬く閉じて光の渦の中へと飲み込まれる。
光の渦を抜けると、それまでテナーを縛り付けていた圧迫感が跡形もなく消え失せた。
「テナー!」
ルクルの呼びかけに、テナーは目を見開く。
最初に目に飛び込んできたのは、ルクルの心配そうな表情だった。眦を下げ、煌めく碧眼がテナーの瞳を覗き込んできていた。
「ルクル、殿下……」
ルクルの姿を認識した途端、テナーは己を支えてくれている小柄な王子に抱き着いた。ルクルの身が一瞬跳ねたが、彼はテナーを落ち着けるように両手を背に回して軽く叩く。
「大丈夫。ぼくはちゃんと傍にいるよ」
穏やかなルクルの声に、テナーは我慢できずにルクルの肩に顔を寄せた。
今だけは、一人の令嬢として涙を流すことを許してほしい。
己の主に対してか、はたまた頭上で見下ろす銀月の女神に赦しを乞うためか。
ルクルに縋るテナーを、夜の庭園で花開く雨の薔薇がそっと遠巻きに見守っていた。