【はじめに】
やさしくない世界かもしれません。
それでも——
声を失った彼女と、罪を背負った少年の物語に、
最後まで耳を傾けていただけたら嬉しいです。
・
世界を壊すのは簡単だ。
無視。暴力。誘惑。
俺の場合は──言葉だった。
「──好きです、付き合ってください」
放課後の教室に、俺の声だけが残っている。
俺は蔦森善吉(つたもりぜんきち)、高校二年。
帰り際に引き留めて、クラスのみんなが居なくなるまで待たせてから、彼女に向かって告白した。
空っぽの教室。二人きり。目の前にいるのは、同じクラスの無口な女子。誰とも話さず、いつも一人でノートやタブレットを開いてる子。
俺の突然の告白に目を丸くして、じっと見つめ返してくる。俺はポケットに手を突っ込んだまま、相手の反応を待たなくてはならなかった。二学期にどこか別のクラスから俺たちのクラスに移動してきた。それくらいの記憶。
沈黙の間、視線を外し彼女の体を見る。長い黒髪と華奢な体つき。制服が少し大きく見え、そのアンバランスさがまるで人形のようだった。
俺が告白をした理由は――べつに好きだからではない。とりあえず彼女がほしかったわけでもない。ただの罰ゲーム。ゲームで負けたから。それだけ。誰でもいいから告白しろって言う、悪ふざけ。
だから俺は、クラスのみんなとほとんど接点のない彼女、しゃべらないって噂の彼女を選んだ。無難な選択だと思った。初めてよく見た彼女がまとっている静けさに、少し圧倒されていた。言い終わった今も、無言の圧力を感じていて、嫌気がさしていた。
扉の向こうには、これを見ているであろう、友人らの気配。きっと声を殺しながら笑ってるに違いない。
最悪録画されているかもしれない。そう思うと余計に気が沈む。まあ、それをみてしばらくはネタにもなるし、OKでもNGでも彼女が反応すれば、
「ネタでーっす」
って、友人らが乱入してくる予定だ。気晴らしくらいにはなるかと思うことにしている。
「……っ」
彼女の目が一瞬だけ見開いた気がした。
俺を見つめるその両目は、すこし潤んでいるような気がして、そしてどこか悲しげに見えた。まっすぐに俺を捉えている。
ま、ただ照れてるだけだろ。俺は顔だけはいいって言われたことがある。性格はあんまり褒められたもんじゃないかもしれないが。
告白だってされたこともある。けど、付き合ったことはない。興味はあったけど、お互いを深く知っていくなんて、面倒くさいことしかないと思うから。
なんでもいいから何か反応してくんないかな。この後遊びにいきたいんだけど。
あまりに静かだったもんで、廊下の友人達の笑い声が聞こえてくる。
すると、彼女はそのまま何も言わずにカバンを床に置いて、ノートを取り出し、何かを書き始めた。少しの沈黙の後、そっとノートをこちらに突き出すように見せてくる。
夕日で赤く染まったノートにはただ一言。
『私のどこが好きなんですか?』
……そんなの、答えられるわけがない。
真っすぐに見つめ返してくる瞳に目を逸らす。突然の事に言葉が詰まる。声が出ないでいると、彼女はそのまま何も言わずに、くるりと背を向けて歩き出していく。
……は? 何そのノート、それで終わり? あとでよろしくお願いします、とかはやめてくれよ?
状況の理解も追いついていないまま、俺は慌てて、つい思いついた事を口走った。これで終わりじゃ何か物足りない、彼女がこのクラスにきた理由を言えばいい。
思い出した。これなら絶対に止まる。
もう少しだけ続けられる。
「いや、あの……君の声がさ、好きなんだよ!」
その瞬間、彼女の足が一瞬だけ止まった。
そう、止まらずにはいられない一言。彼女を侮辱する一言だろう。知ってて言ったんだ。
彼女は振り返り、まっすぐ歩いてきたので、口元を緩ませ笑ってやる。反応する間もなく左の頬が乾いた音と共に熱くなった。耳を突き抜けて、世界が揺れた。平手打ちを受けたのにも気づかなかった。
……これ、やりすぎたか?
左頬を擦りながら、窓辺に視線を移動する。
耳鳴りが反対の耳から飛び出していくが、すぐに新しい耳鳴りが生まれ、鐘のように頭を揺らしてくる。すぐに彼女に視線を戻すと、彼女はすでに教室を音もなく立ち去っていた。
彼女が去った扉は開けっ放しで、廊下の向こうも赤く濡れている。ピントが合わず、少しぼやけてみえる。
「……痛って」
頬に手を当て、俺は近くの机の上に腰を落とした。窓から外を見る。ため息が勝手に出た。カーテンの隙間から差し込む西日が、やけに眩しい。
「よー善吉、おつかれっしたー!どうでしたか!感想は」
三国の甲高い声とともに、友人数人がドカドカと教室に乱入してくる。
「おい見た? 今のビンタ、撮れてたよな? あの子マジで手ぇ早ぇ……」
「うん、撮った撮った。てか、これショートで伸びんじゃね!」
「やば。音完璧入ってんじゃん!走り去るところとか、お前カメラマンかよ」
「ちょっと再現してもらえる? 俺、えっとなんだっけ、名前、恋仲だっけ!」
「ひな緒ちゃんだよ、俺隠れファン」
立候補すると次々みんな挙手する。
「お前ら絶対上げんなよ!あと、ビンタしてえだけだろっ、うるせぇよ、マジで……」
笑って返そうとするが、自分でもぎこちない笑顔だとわかるくらい声が低かった。まだヒリヒリするが頬から手を離し、ふざけあうように三国らを押し返す。三国達、もちろん俺もそうだけど、何かが起きるのは“楽しい”。俺が転んだって、三国が泣いたって、それが“イベント”になればそれでいいんだ。
「はっはっは!こんな善吉見れるのマジ貴重だから、なんならもっかい対戦するか? 負けたら追いかけるとかで!よくね?」
金髪に染め上げた三国がスマホを手に取りゲーム画面を映して挑発してくる。
「二度とやんねー!次は格ゲーでボコる!んで、次はお前の番だぞ三国!」
また声が低かった。いつもなら、笑って、三国の肩にパンチする流れなのに。
まあでも、これで俺の罰ゲームは終わりだ。この後もこいつらと街に出てゲーセン行って適当に過ごして帰って、寝るだけ。今度は三国を負かせ、どんな罰ゲームをさせてやろうと考えるが、平手打ちの合間の一瞬見えた、彼女の顔が忘れられない。頭じゃなく、胸に釘を打たれたような感覚。
胸の奥に、ズキンと刺さって抜けない。
彼女は、泣いていたんだ。
涙を見たわけじゃないが、そう見えた。そりゃそうだ、俺は彼女をバカにした。
――しゃべられない病気の彼女に向って、声が好きって言ったんだから。
振り向いてこっちに向かってくるとき、ずっと目が合っていた。
彼女はどんな顔をしていた? 怒り? 悲しみ? 悔しさ? そんなの、俺に分かりっこない。あれが冗談だって言えば、全部終わったはずだった。なのに、俺はまだ“正当化”しようとしてる。
でもさ、あれは単純に物足りないから、変な空気だったから引き留めた言葉で、傷つけようと思って放った言葉じゃない。つい、思ってもないことをその場のノリで言っちゃうアレだよ。
分かるだろ、冗談だって。放課後呼び出して二人きりで告白するって、普通冗談だと思うシチュだろ。
「……なんで気にしてんだよ、俺」
言ってすぐに後悔して。でも引っ込められない。だって恥ずかしいから。突っ込まれたら自分のプライドを守るために逆ギレもする。正しいって分かっているけど、認められない。
そんな今の俺が全部ひっくるめて大嫌いだ。好きになったこともないけれど。
三国達の声がやけに他人事のように遠く聞こえていた。
恋仲ひな緒(こいなかひなお)。
……俺は彼女の名前をさっきまで知らなかった。
足元を見る。平たいはずの床は、点字ブロックのように凹凸になっていて。そこに取り残される自分がいる。張りぼての虚勢で踏ん張っているが、泥の中に入っていくように足が埋まっていく。
誰かに繋がってないと、どこまでも落ちていきそうだった。