静かだった。
あんなにも騒がしかった放課後の教室が嘘みたいに、その後の三国たちとの喧噪も夢みたいに、家の中は静かだった。教室を出てから外の熱さを思い出した。それくらいあの教室は冷えきっていた。夏が終わっても、熱は消える気配がない。
俺は、帰ってからすぐに自室のベッドの上で無意味にスマホをいじっていた。見ている内容なんて一つも頭に入ってこない。上下に流れる文字や、画像が光に混じって過ぎていくだけ。左の頬には、まだ熱が残っている気がする。手を当てても、もう痛みはほとんどない。けれど、あの視線だけが、焼き付いたまま離れない。
「……はぁ」
スマホを手放し、両手で目を覆う。自分の口から出たあの一言、君の声が好き。冗談だよ。本気で言ったんじゃない。それくらいわかるだろ? 喋ったこともないし、見ることもないし、お互いの顔だってよく知らないだろ? そんな俺がいきなり告るってさ、完全にネタだろ?
告白した時の彼女の驚いた顔を思い出す。あまりにもまっすぐ見つめ返してくるから、目を合わせられなかった。その後の仕草も、本気で受け止め考えているような。
……って、違うそうじゃない。
「ネタかよなんて、言えるわけねえじゃん」
彼女は喋れない。
厳密には喋れるのかもしれないけど、心因性とかどうとか、そういう病気らしい。生まれつきのものとか詳しくは知らないけど、そういってクラスに移動してきた。天井を見つめても何も返ってこない。かといって目を閉じれば、焼き付いている、あの真っすぐで逃げ場のない瞳。
それと……『私のどこが好きなんですか』と書かれたノートの文字。
なんなんだこの感情、モヤモヤするし、イライラしてくる。ただの罰ゲームだ、明日からはもう関係ない。向こうだって勝手に忘れるさ。俺だって忘れる。こんなの、みんなやってる。もっとひどいことだって。でもそれが今の俺らだろ、そうやってアピールして繋がっていくのが居心地いいだろ。
「今日は笑えなかった。明日、また笑えばいい──」
呪文のようにつぶやいた。
「でも、ここで逃げたら本当に終わる気がする……」
ふうと息を吐いた瞬間、何かがこつん、と当たる音がした。ドアの前に気配がする。
「お兄ちゃーん、帰ってきたのー?」
妹、琴音(ことね)の声だ。
霧を晴らすような明るい声がした。
「あけるよー?」
ノブが回る音がして、扉がそっと開いた。俺は制止しない。部屋の電気を点けないでいてくれるのはありがたかった。
「帰ったならただいまって言ってくれないと困るんだけど? こっちだって、ごはんの準備しなきゃだめなんだから!」
ぷんぷんと音が聞こえてきそうだった。寝たまま琴音の顔を見上げると、案の定そんな顔だった。
「ごめん、三国達と食べてきたんだ。いらないよ」
「もう……。はー、わかったよ。あ、お風呂はちゃんと入ってよ? 洗濯も!まとめて出されると琴音困っちゃうんだから!」
分かったと返事をすると、ほんとにもー、とか言いながら、扉を閉めた。廊下をパタパタと小走りで去っていく音が響く。廊下から入り込んだきた熱で、室内は少し蒸し返してきて、体にこびりついた汗が気になってきた。
「……さすがにシャワー浴びるか」
と、すっかり重くなった体を起こす。熱いシャワーはきっと、今日の事を全部洗い落としてくれる。
そう思ったけど、擦りすぎた胸が赤くなってズキズキしても、奥の方の痛みは落ちることはなかった。
* * *
――翌朝。
朝の台所には、トーストの焦げた匂いが漂っていた。テーブルには黒いトーストと、輪郭がはっきりと分かるくらい象られて小さくなった目玉焼き。あと、なみなみに注がれた牛乳。
「お兄ちゃん、おはよっ」
琴音が俺の前にそっと座った。もう登校の準備は出来ているのか制服姿で、目が合うとにっこりと笑顔になる。俺も合わせるように琴音に微笑みかけた。それが作り笑いだって、きっと琴音には伝わっている。
「……おはよ。いただきます」
見ての通り、琴音の料理の腕は壊滅的だ。本人が自覚しているのか問いただしたいと常々思うが、琴音の笑顔を見るとどうでもよくなってくる。
琴音は忙しい父に代わり、炊事洗濯と家事を率先してやってくれている。いつも明るく元気で、その気さくさはクラスでも男女問わず人気だ。俺がいうのもなんだが、可愛い顔なのもその理由なんだろうと思う。
昨日会えなかったせいか、口早に昨日の出来事を俺に報告している。友達と近いうちにたこ焼きパーティするとか、男子の視線がどうとか。うなずく間もなく次の話題にいくもんだから、うんうんと返すのがやっとだった。
「ごちそうさま!琴音、今日早いからもういくよー? お皿、ちゃんと水に浸けておいてね!あと、遅刻したらだめだよ!いってきまーす」
慌ただしく家を飛び出していく。きっと、マネキンにでも喋ってる感じだったんだと思う。話の半分もまともに聞いてないんだから。昨日から何かあったと気づいてるはずなのに、琴音は何も聞かず、いつも通りだった。それが、やけに遠く感じた。
視線を横にずらすと、父は新聞を見ながらソファに腰かけていた。スーツ姿で、少し曲がった背中が見える。いつも通りの朝。バレないよう、平気なふりをしていたが、結局昨夜は眠れなかった。
苦いトーストを無理やり牛乳で飲み干すと、スマホで一通りの日課を済ませる。父とは会話がない。いつものことだ。イヤホンを付け、音楽を流しながら、グループチャットを覗く。三国らが昨日のノリのまま、くだらない話を続けていた。他のグループ同士が別の話題で盛り上がり、そんな混沌とした内容で埋め尽くされている。
流れに合わせるように俺も介入する。画面の中には俺の居場所がある。笑えるようなネタもなんだか笑えない。それに、もし笑ったら横に聞こえる。それは嫌だ。
その中で一つ、三国の投稿があった。
≪動画マジバズってんだけどw≫
と同時にリンクが張られると、
≪生ビンタヤバ!w≫
≪これガチ?w≫
すると、一気に流れが変わっていく。
「……」
スクロールした指が止まる。
焦って父の方を見る。関係もないのになぜ見る必要があったのか分からない。スマホを見直すと、滝のように流れていくメッセージ。
言ったよな。撮られたことも知ってたし、しばらくはネタになるし気晴らしにもなる。なんて、俺自身がほざいてただろ。動画に映る俺は確かに笑っていたが、見たこともない他人のような顔は、吐き気がするくらい不快だった。
そんな顔を見た瞬間、スマホを壁に投げつけたくなる。ぐっと堪え、時計を見ると、家を出る時間は過ぎていた。遅刻ギリギリだ。
結局、壊すなんてそんな勇気があるはずもなく、スマホをポケットに突っ込む。カバンを取り、爆音で音楽を聴きながら家を後にし、学校へ向かう。
教室で会ったらどうしよう。いや別に話しかける必要もないか、でも何か言った方が。とりあえず流れで謝ればいい。それよりあの動画をなんとかするのが先だ、大げさに俺の演技見たか、と予防線張る? そんな答えのでない問答を繰り返しながら。
──彼女の不在だけが、その日を支配していた。