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第三話 惰性の背中

熱がまとわりつくような朝だった。

登校を終え、冷えた教室に入ると、いつも通りの騒がしさだってことはイヤホン越しにも伝わってくる。この雰囲気にのまれれば、また日常に戻れる。闇の中に吸い込まれるように、三国たちのもとへ。

教室の隅の席に陣取って、対戦ゲームをしていた。輪に入り、話に加わるけど、つい彼女の席を探してしまう。でもすぐに気づく。そもそも、彼女がどこに座っているかも知らないことに。


クラスメイトが教室に入るたび、それが誰なのかを確認する。俺に気づいた三国が、椅子を引きずりながら近づいてくる。肩を組んでスマホの画面を俺に見せる。


「なあ、昨日の動画さ、マジでやばくね? 一晩でいいね300超えてんぞ」


目線を落とすと、教室の扉の隙間から撮影したであろう俺と彼女が映っていた。走り去るところまでもカメラを移動させ、ズームしながら追っている動画が流れた。知ってる。昨日も見たし、朝も見た。

乾いた音、戸惑う俺、三国たちのわざとらしく息を呑む声。


「……消せよ」


普段からふざけた動画を撮って、SNSに上げて、反応がなければそれはそれで爆笑する。少しでも反応よければ調子に乗る。今までもやっていたし、俺もこいつらの動画を上げてたりしてもいた。


「あ?」


だから三国のこの反応はいたって普通のこと。そんなことを口走る俺自身にも驚いてる。


「消せよ」


今度は腹の底から声が出た。自分でもなんでイラついているのか不思議だった。俺の声は静かだった、はず。けれど、クラスのざわめきが、沈黙したように音を失った気がした。こちらを見る視線をかすかに感じる。


「お、おう……まあ、でもさ……」

「消せよ」


三回目の言葉は三国の目を見て言った。肩に置いていた腕を払いのける。三国は一瞬たじろぐが、すぐに肩をすくめてスマホをしまった。


「っち。わーったよ、消すって。善吉がそこまで言うならな」


三国はもとの席に戻っていく。俺はもうその輪には入らず、黙って自分の席についた。別にどうだっていいはず。 だけど、その瞬間だけ、少しだけ、胸の奥の重さが取れた気がした。

担任が来ると、みんなしぶしぶと席に着いていく。朝の点呼は、儀式的に黙々と進められ、静かに終わる。先生から、恋仲と呼ばれることはなかった。


スマホを見る。とりあえずSNS……閉じてグループチャットを閉じ、Webニュース画面に切り替える。さらに別の画面へ……。休みか? どうして?


「理由なら分かるだろ?」

と、代わりに頭の中の俺がほのめかしてくる。


「お前があの子ならどうする?」

あえて考えないようにしていたことが、ぐるぐると巡る。


朝になればいつも通りに過ごせるんじゃなかったのか。なんで俺がここまで気にする必要があるんだ。くそ、なんで来てないんだよ。

やめてくれよ。もう考えたくないんだよ。そう考えれば考えるほど、深みにハマっていくような感じがした。

彼女が欠席なのかどうかも聞けずじまいで、昼になっても、午後の授業になっても、来ない彼女をずっと気にしていた。午後をどう過ごしたのかもわからないまま、放課後になる。


「善吉、かえろーぜ」


三国らが俺の席に集まってくる。


「恋仲、来てた?」

「は? 来てねーよ。来たら来たでそれはおもろそうだけど」


連れが遠慮せず、思ったことを口にする。


「まあなんか善吉、怒ってる感じだしー、気晴らししにいこうぜ。バッセンとか」


いいね!とお互い肩を組み始める。動きに合わせるように俺も立ち上がり、カバンを肩に掛ける。

やることは決まっているのに。その一歩を踏み出せないことが凄くもどかしい。


どうする……どうしたらいい、俺……。


言い訳がましく言葉を並べるだけで、また答えのないループに陥る。

嫌な気分は今だけ。とりあえず自分を否定してさえいればそれで許された気分になってる。勝手に浸ってるだけ。いやむしろ、これは普通だろ。悪いと思ってるって空気を作っておけば、自然と許される。

そんなもんだよな、世の中って。


ならなんで足が止まる。

なんで追いつこうとしない。


——いちいち喚いてないで、行けよてめえ。


誰かが、俺の背中を叩いてくれた気がした。目まぐるしく回るだけで、吐き出されなかった感情は、その衝撃で声量となって漏れそうになる。それでも動かないもんだから、しまいには蹴り飛ばされる。


——ビビってんなよ!行け!!


「ごめん、俺、用事あったわ」


蹴られた衝撃で、息を吐き出すように言葉が漏れる。前を歩く三国達が首だけ回してこっちを見た。


「……ふーん。あっそ。じゃあなー、善吉!」


三国の言い方は冷たく、引っかかるものを感じたが、そのまま背を向ける。階段を降り、向かう先は職員室。……謝ろう。ちゃんと、俺の口で。


職員室に入ると真っ先に担任の元へ向かった。何回か呼び出された事があるので席は覚えている。けど、自分から職員室に行くなんて初めてだ。それに加え、俺の口からこんなお願いを先生にしようとしているなんて考えられない。だけど、


「あの、すみません……その……恋仲の事なんですけど、連絡が取れなくて……」


言葉がうまく出てこない。でも、どうにか絞り出した。今まで避けてきた、恋仲という名を口から言うだけで胸がズキンと痛む。


「実は昨日、恋仲にちょっとひどいこと言っちゃって、もしかしたらそれで休んじゃったのかななんて気になって。……だから、直接、その、謝りたくて……。できれば、ですけど……住所とか教えてもらえませんか」


俺の独白に担任は腕を組み、目を細める。考える素振りを見せ、首を振った。


「蔦森。それは個人情報だから、教えるわけにはいかないんだ。また学校に来た時にしっかり謝りなさい」


当然の返答だった。こんな簡単に人の住所なんて分かってたまるか。わかってたよ。だけど、その時の俺には、先生に聞くことしか思いつかなかった。


「……どうしても、恋仲と話さなきゃいけないんです。お願いします、先生」


声が震えている。また学校に来た時、という言葉に心が傾く。腕を組んだまま先生は口をつぐんだまま。何かを言いたげで少し口が開いたがすぐに閉じた。指先でもみあげのあたりをボリボリと掻いている。もう一度、お願いします、と言いかけたそのとき。


「恋仲、ですか」


すぐ近くから聞こえたその声に、俺ははっとして振り返った。


そこにいたのは、一人の男子生徒だった。

制服を着ていたけれど、顔立ちが大人に見え、俺よりも背が高い。ラグビーか格闘技でもやってるんじゃないかと思うくらい体格がいい。失礼しますと、話していた先生に頭を下げるとこちらにやってくる。


「恋仲ひな緒は僕の妹ですが、ひな緒のこと、ですか?」


彼の目が鋭く光る。思わず心臓が飛び出しそうになる。兄……? 俺の口が何かを言う前に、彼はすっと近づいてきた。


「ちょっと外で話そうか。先生、失礼します」


先生が何か言いかけたが、彼は軽く手を挙げて制し一礼した。促されている圧力を感じ、俺もぎこちなく一礼する。その後はただ、ついていくしかなかった。

職員室を出ると、さっきと同じように謝りたいことを説明していた。威圧感に耐えられなかった。


「ついてこい」


低く、短いその一言。

昇降口に出ると、靴を履き替えろ、と指示される。何も言えず、ただ従う。

無言のまま、並んで歩く。会話は一切ない。ただ空気だけが張り詰めていた。

尋常じゃないくらい体が熱い。

下校時の騒がしい校門を横切る。……喋ることは禁じられているような、そんな重苦しさだった。


バスに乗り、住宅街に降りた。数時間経ったんじゃないかと思うくらい長い時間だった。歩いている実感すらない。感覚は学校に置いてきたままだった。

閑静な住宅街、その一角、大きく圧倒される門の前で、兄と名乗る男の足が止まる。


「直接、謝るといい」


その一言で、俺の背中が軽く押された。

敷居をまたぐ。『恋仲』と彫られた重々しい表札が視界の端にちらりと映る。

無骨な石畳の地面。その隙間に、足が引っかかって、躓きそうになる。

……その咄嗟の反応で、少しずつ感覚が戻ってくる。ようやく、怒りのような感情が湧いてきた。男の態度に、理不尽なものを感じる。

何か文句でも言ってやろうかと振り向いた──その時だった。


時間が止まったかのように、俺の体は硬直してしまった。


「……」

「……」


庭先でしゃがみ込み、洗濯物を抱えたまま動きを止めている人影が目に入る。吸い込む空気がなくなったみたいに肺がしぼみ、呼吸が止まる。


……恋仲だった。


曇天だった空から晴れ間が少し出てきて、俺たちを照らしていく。

色彩が戻る。光に当てられた場所だけが、鮮やかになっていく。


制服ではなく、薄手のカーディガンにジーンズ姿だった。細い体がより強調され、目の奥に焼き付くほど鮮明だった。思考ごと、止められてしまったようだった。

風が吹いて、彼女のおろした長い黒髪が流れ、洗濯物も揺れた。


どちらも動かない……ただ、目が合い止まっている。

何も言えなかった。声も、出せなかった。


けれど、ここから何かが、きっと始まる。そんな気がしていた。

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