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第四話 誰にも届かない

「……っ」


パチンと外れそうになっていた洗濯バサミが弾ける音で、俺の呼吸は再開した。

たぶん、彼女もそうだったんだと思う。息を吸い込むように目をパチパチさせた後、洗濯カゴを持ち上げながら立ち上がる。途中で横に倒れそうになるが、片足で耐え一息ついた。そして俺を見る。


水色のカーディガンに白のブラウス。ブラウスの袖はめくられて、細い両腕があらわになっている。足首が見えるジーンズ、少し子供みたいな柄の靴下に、つっかけのようなサンダル姿。長い黒髪は、静かに風に揺れ、片方の耳が見えていた。


呼吸は再開できたが、昨日とはまるで違う彼女の様子に、瞬きだけはまだ動くことを忘れていた。彼女の一挙一動を見つめていた。口は動かないくせに、目だけは彼女を懸命に追っていた。


「あ、こ、こいな、か……恋仲!俺!」


やっと出た声は、裏返っていて、情けなくて、頼りなかった。

その声に反応したのか小さく肩を上げる。洗濯カゴを抱きしめながら、彼女の瞳だけが揺れる。彼女の視線は、自分、兄、俺と何度も目まぐるしく動いている。


俺の前にぬっと大きな影が現れる。恋仲の兄と名乗る男が通り過ぎ、大きな扉の前に鎮座する。ハッとした彼女は、パタパタと顔を伏せながら小さな歩幅でその男の背の後にもぐりこんだ。その足取りは、どこか不器用で、でも本気で逃げているのが分かった。


待って──


声が喉で引っかかって出ない。せっかく冷静になってきたところだったのに、これは想像していなかった。どう反応したらいいかわからない。やるべきことは決めたはず、分かっているはずなのに。


恋仲の兄を名乗る男は、彼女だけに聞こえるように、そっと何かを囁いた。

すると彼女は、洗濯カゴを置き、洗濯物の中に紛れていたスマホを取り出すと何かを打ち込む。その画面を見ていた兄はすぐに俺を見る。

眉間にしわを寄せ、俺を品定めしているような、そんな目つきだった。


「何の用だ」

「……えっ?」


男の声に反射的に声が出た。男の後ろに隠れるようにいる彼女は少し目線を上げ、俺に目線を運んでいる。


「何の用だ、と聞いている」


男は続ける。それ、スマホの内容なのか?職員室とか、いや、職員室前の廊下で、俺は理由を説明した。お前がわかるだろと、代わりに伝えろよと、及び腰の俺が反論する。


「え、えっと…くそ」


うまく話せない自分に舌を巻いて、俺はスマホを取り出し適当なメモアプリを起動する。何をしている俺は。馬鹿か、俺がアプリ使ってどうすんだよ。夢の中にいるみたいに体が重い。


「妹は聞こえる。お前。今、何をしようとした? 誰かに連絡するのか?」

「ああっ、えっと……」


なんで俺はこんなことを。完全にパニクってる。衝動的に逃走したい気持ちが体を急かす。そんな気持ちを深く息を吸い込み、飲み込んで、無理やり奥へ押し込めていく。

落ち着け、少しだけでもいい、落ち着け。

これは俺が望んでた状況だ、予定とは違ったが、この機会を逃しちゃいけない。兄、で間違いないだろう、その兄は異物だが目の前に彼女がいる。直接会えている。今言わないで何が決意だ?


謝れよ。

謝ってスッキリして、何もなかったフリして、一昨日に戻るんだろ?

今度は三国に罰ゲームやらせて、誰かに告白させて、それを動画に撮って笑って──

お返しだって言いながら、イジって、騒いで。

……また、あの日みたいに戻るつもりだったんだろ。


俺は動けずにいた。

見かねたんだろう、彼女は静かに引き戸をあけ、洗濯カゴを持ち直し家の中へ入ろうとする。俺は自分の腹に拳をたたきつけて、無理やり言葉をねじ込むように吐き出した。


「恋仲!ごめん!ごめん……。あれは……あれは冗談だったんだ……!」


本当はそう思ってないから。ただ引き留めたかっただけ。あと、好きとかでもないからさ、忘れてくれない? 無かったことにしてくんない?


──本物のバカだな、お前。


ごめんと振り絞ったその先の言葉は、俺の自己満足でしかなかった。楽になって、スッキリしたかっただけ。そこに彼女の意思とか、考えとか、気持ちの考慮は一切ない。傷つけたやつが、どの面さげて被害者ぶってんだ? なんて、滑稽なんだろう。


ぐいと胸ぐらを掴まれる。襟が捻り上げられ、息が詰まる。ゆっくりと体が地面から離れていく。


「冗談? お前が言いたかった事はそれか? 反吐がでる」

「……ぁ」


そんな俺の全てを見通したかのように凝視する兄の表情は、ことごとく俺を丸裸にしていく。無言で俺の返答を待っている。次の言葉をよく選べよと、更に襟元に力が入る。


「はは……」


そのまま拳が顔面に飛んできた。そして吹き飛んだと思う。殴られたとすぐに理解する。視界が、赤く、揺れる。目が光って、何も見えなくなる。それはどうでもいい──今、俺は、笑ったのか?


「二度と妹に近づくな」


地面に膝をつき、呼吸がうまくできない。


「お前ごときがでしゃばるな。自分は特別だ、なんて思うなよ。お前はどこにでもいる、低俗な自己欺瞞だけで生きてる、ただの塊だ」


「っく、そ」


少しずつ視界の眩しさが無くなっていく。ぼんやりと、二人が家の中に入っていくように見える。

勢いよく締められた引き戸。俺は座り込んで地面を見つめていた。これあざになるやつじゃん、となぜか冷静に分析していた。そうしないとさっきの兄の言葉に押しつぶされて、本当に消えてしまいそうだったから。


「何やってんだ、俺」


本当に誰かに教えてほしかった。座り込んでいてもただ背中が熱くなるだけだったので、立ち上がろうとするが思ったより足に力が入らない。マジで痛い。もう一度座って息を整える。ジメジメとした空気がうっとうしい。


静かに引き戸が開く音がした。

すぐにふわり、といい香りが漂う。

蒸しかえる体温なのか気温なのか分からない、ただ邪魔なだけだった熱気が、急激に冷やされ体の力をほぐしていく。


「……」


俺の手には白いハンドタオルが置かれていた。


思わず顔を上げると、恋仲がしゃがんで俺の顔を見つめていた。俺の目に見えるように、細い人差し指で下を差し、手元に置かれたハンカチを示している。


『これ、使ってください。血が出ています。兄がごめんなさい』


今度はスマホを取り出し、画面を見せる。スマホの横から覗くように首を傾げている。

白い肌、小さな鼻、大きな目、そしてきゅっと締まった口元は、僅かに微笑んでいるようにも見えた。

そこに救いがある気がした。すがる自分がいた。指先が、タオルの感触にひくひくと反応する。助けを求めているように蠢いて、痙攣しているようだった。

タオルを握った俺を確かめた彼女は、うん、と軽く頷くと、俺を立たせようと手を差し伸べた。咄嗟に、痛みも忘れ俺は自力で立ち上がる。

こういうプライドだけはあるんだなって笑いたくなる。

しばらく俺を見ていたが、彼女はまた静かに家の中に入っていった。


「……ごめん」


俺だけが残った玄関の前、引き留めようとした手をおろす。

掴もうだなんて。する勇気もないくせに。


自分が許されればそれで終わると、そう思っていた結果がこれだ。たとえ許されたとしても、彼女の痛みは、どこへいく? 許すことで、彼女もまた癒えるとでも?

……そんなわけがない。


彼女のやさしい残り香は、落ちる陽よりも早く、瞬く間に風にさらわれるように消えていった。

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