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第七話 ただ、それだけのこと

こんなに強い雨なのに。

ふわり、と雨粒の隙間を縫うように、微かな香りが鼻先を掠める。


俺は顔を上げる。体はもう、雨に打たれることはなくなっていた。俺を責め続けていた声もどこかへ消えていた。ただ、新しく別の音が聞こえていた。それは、胸の奥に一粒一粒染み入るような優しい音だった。


「……」


濡れたスニーカーと、肌に張り付いた紺色のロングスカート。白いブラウスが、息遣いに合わせて静かに上下している。差し出されている細い腕を辿ると、俺のビニール傘が見えた。


俺が濡れないよう、わずかに傾けられた傘の向こうに――恋仲が立っていた。


自分の傘も持っているのに、俺に差す傘を優先していた。そのせいで、彼女の肩と髪はゆっくりと濡れていく。小さな顔から、雫が一筋、曲線を描くように滴り落ちていった。


傘を受け取る。すれ違うように、恋仲は自分の傘を差した。

俺はというと、力加減を間違えてしまい、後ろに傘を逸らしすぎて再び雨に当たるという恥ずかしいことが起きていた。恋仲が微笑んだような気がする。自分の傘を戻す。恋仲は、ベンチに座る俺を見下ろしている。

その視線に鋭さはなかったと思う。

安心しているような、そんな柔らかい眼差しが感じられた。

数分にも感じた僅かな視線の交錯の後、俺は慌てて立ち上がる。


「……あ、ごめっ、ありがとう!」


言葉には出してみたけど、きっと早口で震えていたと思う。

恋仲からの言葉はない。こくりとだけ小さく頷いた。

そして、羽織っていたカーディガンのポケットからスマホを取り出すと、俺の顔の前にそっと見せる。


『風邪ひいちゃいます。よかったら家で着替えてください。ほら、来てください』


あらかじめ入力していたのかもしれない。

読み終えると、タイミングよくスマホをポケットに戻す。恋仲は、水たまりを避けるように道を選び、家に向かって歩き出した。1歩、2歩、ぴょん、3歩。後ろを振り返り俺を見る。


腰のあたりで、小さく控えめに手招きする恋仲。

そのささやかな動きに、呼ばれるようにして足が前に出た。


彼女の家の中に案内されるのは、これが初めてだった。


玄関にいた兄が俺を見るなり明らかに敵意のある顔で目を細めたが、恋仲に制されると、それ以上は何も言わなかった。背が高い玄関をくぐるように抜けると、もう別世界に降りた感覚になる。


木の匂いと、長い廊下。少し薄暗い照明も、白い壁も、太い柱も、全てが新鮮だった。

風呂場の前で手渡されたのは、バスタオルと男物の服。Tシャツとジャージの下。明らかにサイズが大きい。きっと兄のものだろう。洗濯されたばかりの服なのに、袖を通すのには、ほんの少しだけ勇気が必要だった。


* * *


着替えを済ませた俺が通されたのは、リビングではなかった。

さらに奥にある一室。恋仲の後ろにつき、綺麗に掃除された廊下を歩く。時折軋んだ音を立てる床だが、スリッパ越しにも関わらず、歩くだけで柔らかく感じ、滑らかさが気持ちよかった。


案内されたのは、恋仲の部屋だった。

壁際に机と本棚、角の一角、白いコルクボードには、ポストカードや写真がいくつか貼られていた。パッと見た限り、景色の写真が多い。ベッドの上には、間の抜けたおでこが光っているクマのぬいぐるみが一つ。そして、最も肝心なこと。

今から思うことは、男として当然の反応だ。それを、あえて言う。


恋仲の部屋は、包み込まれるような、やさしい匂いがした。

妹の部屋と比べるなんて、変な話だし、失礼だとも思う。

だけど、同じ“女の子の部屋”なのに、全然違う。

香水の中にいるみたいな、不思議な感覚。呼吸するだけで、心ごと洗われる、そんな気分になる。


丸いガラスのテーブルの上には、湯気が立つ二つのマグカップ。それに、恋仲のノートとスマホ。

恋仲もすでに着替えていた。濡れた服とは違う、淡いグレーのパーカー。長めの袖が、手の甲まで隠している。下はベージュのゆったりしたズボン。

琴音で見慣れているはずの部屋着姿なのに、どうしてか、視線が泳いだ。

毎回琴音を引き合いに出してしまう自分が、自分の経験の無さを再認識しているようで恥ずかしかった。


テーブルの前、ピンク色のクッションの上を指さされ、指し示された通り座る。正座だ。

向かい合わせで恋仲も座ると、スマホを滑らせて俺に見せた。


『ココア。冷めないうちによかったら、どうぞ』

「あっ、うん!ありがとう…えっと、いただきます!」


……ありがとうしか言ってない気がする。

ほどよい温度の甘いココアは、のどを通ると全身に染みわたる。ありきたりな表現だと思うけど、ほんとに体の芯から暖かくなる。


けれど、雰囲気はなんか気まずい。

手汗は凄いことになってるし、ココアだけがどんどん減っていく。

空になったマグカップを悟られないように、飲み続ける振りをしながら騒がしい心臓を押さえつける。


ノートとペンが擦れる音がする。恋仲がノートを開き、すらすらとペンを走らせている。


『ノート。ありがとうございます。うれしかったです』


……情けなさすぎる。

俺は何も喋れず、恋仲からばかり言葉を掛けられている。

公園だって来なくたってよかったはずなのに、自分が濡れるのも気にしないで傘を差してくれて。


『ごめんなさい、来てくれていたのに体調がよくなくて』


次のページ。


『寒くないですか?』


次のページ。


『おかわり、いりますか?』


……ありがとう。ごめんなさい。平気? 大丈夫?


恋仲が俺に言う言葉なんかじゃない。


恋仲にどこまで言わせる気なんだ。

彼女は、俺が喋りやすくする為に、しぐさと目線で投げかけている。心の中でさえうまく発音できない。胸がわしづかみされたように苦しくなる。


かんっと、マグカップを普通に置いたつもりだったが、予想以上に大きな音になった。

びくっと恋仲の肩が震える。


……俺は、何を恋仲に言わせてるんだよ!


「恋仲!謝るのは俺の方!」


顔はまだ見れなかったけど、心を決めて俺は言葉を連ねていく。


「お礼なんて言ってもらう資格なんてない!本当にごめん、ごめんなさい!あの時は罰ゲームで誰かに告白しろってなって、それで俺っ、考えもなしに恋仲を選んじゃって、あのっ、挙句の果てに……引き留めるために声が好きだなんて……」


一度吐き出してしまえば、滝のように口から溢れ出てくる。

溜め込んだ気持ちが変な日本語になろうとも、全て吐き出せ、と次から次に感情の洪水が押し寄せる。


「恋仲の気持ち考えてなかった!どんだけ傷つけちゃったか、俺はっ!何も……考えてなくて……自己満とか、本当に救いようのないバカで俺は……いや違う、そうじゃなくて、そうじゃない……。うっ、学校にも来づらくさせちゃって……俺のせいで!……ぅう」


苦しい、息ができない。目の奥から熱いものが込み上げてくる。


「あの……ほんとに……本当にご、ごめんなさい。許して……ください……」


言っていてわけわかんないけど涙が溢れてくる。

声が震える。

恋仲の優しさが辛すぎて、自分が情けなさすぎて。


鼻水をすすって、立ち上がり、頭を下げる。みっともない顔をしてるのは分かっている。

あとは……どうしたら……。

感情の波が静かに引いていく。部屋にこもった熱は冷え、再び静かな雰囲気に戻ろうとしている。


とんとん。


ほんの軽く、肩をたたかれる。

口の中にたまったいろんな液体を飲み干して、恋仲の方を見る。


『だめです。許しません』


――その瞬間、心臓が止まった。

せき止められた血流が戻るまでの時間が一生分の長さに思えた。


……恋仲の顔はノートで見えない。


膝から崩れそうになる。

は……そりゃそうだ。この言葉が全てを語っている。

恋仲に与えてしまった傷は、俺のこんな謝罪なんかじゃ消えるわけがない。

表面じゃない。恋仲の心に、俺は傷をつけたんだ。

いくら謝ろうとも……届かない。いや、最初から届くはずなんてなかった。

それほどの深い傷を負わせてしまったんだ。

俺が泣いて叫んで謝ったところで結局は――


くるり。

と、ノートが反転する。


『じょうだんです。お返し、です』


恋仲の顔がノートの横から飛び出す。その表情は和らいでいて、優しく微笑んでいた。


「は……は……」


今度こそ崩れ落ちた。

それに合わせて恋仲もしゃがみ、ノートに文字を書き込んで俺に見せる。


『許してほしいですか?』


心が震えた。

それは文字通り、全身が心臓になったような感じだった。


「う、うん…!その、許して……くれるのか……?」


うーん、と考えるしぐさをして再びノートに文字を起こす。


『それじゃ、友達、になってくれたら許します』


恋仲は、俺よりずっと前を歩いていた。

ごめんなさい、ありがとう、そんなんじゃなかった。

雨が打たれただけで立ち止まってしまう、ちっぽけな俺なんかより、ずっと大人だった。

許す、許さないなんかじゃない。

彼女が示す、元に戻るための提案。


俺はこの日の事を一生忘れないと思う。


何度もうなずきながら、ぽろぽろと、また涙が溢れてくる。

それを見て恋仲がまた小さく微笑んだ。


決意とか、ノートとか、打算とか。そんなんじゃないんだ。


友達になって、やりなおそ?


――ただ、それだけのことだった。

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