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第九話 勇気と狭間 前編

その害虫のような汚いソレを。無心で踏みつけ、ねじり、丸めた後、拾い上げ、くしゃくしゃにしてポケットに突っ込む。

周りを見る。誰か見ているやつはいないか、目を合わせてみろすぐに捕まえてやる。

けど、見当たらない。朝早い登校のせいか、生徒も少ない。だから、俺の爆発しそうな心臓の音も、殴りかかりそうなこの衝動も、誰にも届いていないはず。


紙を握った手をポケットに突っ込んだまま教室に向かう。

なんのいたずらだ、きっと誰かと間違えてる。それしか考えられない。教室に入るまですれ違う人、先生、全員の目を見た。睨みつけた。誰でもいいから責めたかった。じゃないと、自分を保つことができなくなりそうだった。


教室に入って椅子に座る。

ポケットから手が離せない、ひたすらに、くしゃくしゃにしている。

教室内を見渡す。誰か俺を見ていないか。そんな疑心とは裏腹に、教室はいつも通り我関せずの生徒達しかいない。自分達のエリアからは決して離れることはない。人と繋がりたいくせに、表面では繋がろうとしない、いつもの風景。


俺は……誰に、震えている?


一瞬、クラスがどっと沸いた。教室全体が割れるような歓声が上がった後、すぐに収束し静まる。その声は、教室の出入り口に向かっていた。


「……あ……」


恋仲が学校に来た。

静かに入り、足音も少なく入ってきたのだろう、俺は全く気づけなかった。しかし、クラスの反応は、気配を落とした入場を許さなかった。みんな恋仲に視線を送っている。

俺は、こんなゴミみたいな紙切れのせいで、校門に立って待つってことを忘れてしまった。そんな日に、恋仲はきっと、無理をしながら学校に来た。


席に着くまでの間、俯いたままだったが、わずかに俺と視線が合うと、目元だけ控えめに笑った。席に着くまで、ただ目で追う。

クラスの話題は小さくて聞こえないが、恋仲の話をしている空気だけは伝わる。ビンタの真似をして笑う男子グループもいる。

この空気は変えられないのか。俺がしてしまったことは、恋仲の人生を狂わせてしまうくらいの出来事だった。全部俺のせいだ。


汗ばんだポケットから手を抜く。椅子の背中を持ち、立ち上がる。みんなに聞こえるようにワザと大きな音を立て、足を床に擦り付ける。

勢いが強すぎて、机にぶつかり、その音でクラス中の視線が集まった。

だったら、俺がクラスの空気を変えればいい。

俺の後悔? そんなもの、恋仲と比べたらちっぽけすぎる。


「恋仲、おはよう!」


だからこそ俺は。俺の今の全てで前に進む。こんな雰囲気、俺がぶち壊してやる。

恋仲の居場所を作ってみせる。

おおっと、クラスがもう一度沸く。俺を見ろ、俺を見て笑え。恋仲を笑うな。

恋仲の席は窓辺の一番前。恋仲への視線を遮断するように移動して、後ろに立つ。背中に気持ちの悪い視線を感じる。朝の喧噪は、俺と恋仲を中心に回っているようだった。


『ごめんなさい』


俯いた恋仲の机で、開いていたテキストアプリにはそれだけの文字が残っていた。


「……おはよ、恋仲」


もう一度、今度は恋仲にだけ聞こえる声で挨拶する。

こんな日々を、これから過ごしていくのか。一か月、半年、ずっと耐えて待つ。下手に反応なんてしない。そのうち、他の話題で興味もなくなる。それまで黙って静かにしていれば、きっと忘れてくれる。


でも、そんなの全然楽しくない。だから、一日でもそんな重苦しい雰囲気をなくして楽しく過ごす。これが普通なんだって、そう思わせたい。

その間の文句は俺が受ける。それが俺のやることだと思った。


『おはようございます。……その、びっくり、させたくて、来ちゃったんです。タイミング、間違えちゃいましたよね』

「そんなことないよ、それより体調は大丈夫? 無理しちゃだめだよ」


こくん。笑みを浮かべながら恋仲は頷いた。

『元気です』の文字に安堵する。

なら、少しでも学校に来てよかったって俺が思わせないと。だから絶対に、反応したり喧嘩を売ったりしてはだめだ。恋仲が開いてくれた世界を、俺自身で閉じちゃいけない。

それから休み時間、昼休み、放課後になるまで、時間がある時には恋仲の傍に行き、会話した。会話がない時間もあったけど、それでも近くにいた。


* * *


夕焼けに染まるマンション。

気持ち涼しくなってきたとはいえ、生ぬるい風が頭をすり抜ける。頭上の木々が乾いた音で反応する。子供の遊ぶ声、堂々と走行中の車の前を通るママチャリ軍団は、クラクションなんて気にもしない。

その度胸が、ちょっと羨ましいなって思った。


「ただいま」

「おかえり、お兄ちゃん! 今日は早かったね、今日のご飯はデリバリー頼んじゃってもうちょっとかかっちゃうよ」


さすがに学校が終わって、そのまま恋仲と出かけるとか、家に行くとかは図々しすぎて言えなかった。そんな度胸もなかったし……。

恋仲だって、ゆっくりしたいだろうから、校門の前で別れた。

でもその間、出来るだけ近くにいたつもりだ。


『よろしくおねがいします』

『こちらこそ!』


恋仲から来たチャットメッセージを見つめたまま、スマホをぐっと握りしめる。なんで友達登録しただけでこんなにバクバクしてるんだか。

たぶん、そういうことなんだと思うけど、それは今考えることじゃない。


「お兄ちゃん、最近、笑顔多くて、元気。変わったね。……すごくいいと思うよ」


近くのファミレスから届いた、中華料理の匂いに食欲をそそられる。琴音のそんな一言でまた、救われる気持ちにもなる。


「……恋仲さんのおかげだね」


その通りだった。

こんな前を向いて歩こうって思う気持ち、初めてのことだった。

俺の口からは恋仲のおかげ、だなんて言えるはずもないけれど。

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