昨夜は恋仲の負担にならないように心掛け、一言、二言チャットした。
『明日も行きます^^』
これだけの文字に、心臓の鼓動が喉まで届いて、熱い息になって漏れた。
ほんとに凄いと思った。
俺の不安な気持ちを払ってくれるように、朝の空気はちょっとだけ透き通っていて、思考をクリアにしてくれる。
校門で待つってことはやめた。
今日も来るって恋仲が言っていたし、校門から付き添って教室に入るなんて、それはやりすぎだと思ったから。でも本当は――校門から一緒に登校してみたかった。そうしたら、もっと普通の友達に近づける気がして。それはでしゃばりすぎだから、教室で待つことにする。もし、先に来てるようなら、普通に話しかければいい。
普通に、友達みたいに。
恋仲が教室に入ると、昨日と同じリアクションが起きる。
俺が近づくと、また同じリアクション。テンプレの反応みたいでうんざりしてくる。
でも少しだけ気になるので、声の方に顔を向けると、反応のわりにみんな目を合わせようとしなかった。
からかいたいけど、ちょっかい出すには面倒な奴。
普段の態度からこう過ごしてきたことが、こんなとこで役に立つとは思わなかった。
だから、きっとバカにしたり、ネタにしてるやつやグループチャットでは、激しく燃えてるだろうけど、直接俺に言ってくるやつは居ない。
「ほらここ、学校でさ気づいたんだよ、周りだけちょっと剃りすぎちゃってさ、ぼっちゃんみたいになってんのよ」
恋仲への視線を守る定位置。渾身の自虐ネタを披露すると恋仲を笑わせることができた。
坊主頭は維持してたが、琴音に毎回やってもらっていた。昨日はわざと横と上の陰影がよく見るとわかるように剃ってもらったんだ。
終わった後はもちろん二人で爆笑し、写メも撮られたが。
『あはは。似合ってます』
「えっ、それはバカにしてる意味で?」
くだらない話だけど、それで恋仲の緊張がほぐれるなら、それでいい。
ただ俺の話のネタがゲームとかアニメとかに偏っていて、引き出しのネタが無いことも話すと、
『教えてください。知りたいです』とか、
『私はよく小説を読みます。恥ずかしいですけど恋愛小説、好きです』
とか、恋仲自身の話もしてくれた。
合わないと思います、と前置きされて紹介された小説はすぐにスクショしたし、絶対に読む。
そんな話題で盛り上がる昼休み。
恋仲と俺からは自然とみんなが距離を離していたので、空いてる席に腰掛けて、コンビニのパンを頬張る。恋仲は、何にも入らなさそうな小さな丸い弁当箱を、食べるたびに口元を隠しながら食事をしている。それだけで育ちが違うんだなって実感する。
俺が先に食べ終え、遠慮なくゲームの話でもしてみようかなって思ったその時。
空気を切り裂くように、けど明らかな故意に満ちた笑顔を携えて、あいつが現れた。
「ぜーんきちっ!」
声高らかに、自分のクラスかのように遠慮なしに教室に入ってくる女子。
意味がわからなかった。
「ねぇねぇ! 仲直りできたの? へぇ、よかったじゃん! 恋仲っちおひさだねっ、よく保健室で会ってたでしょ? 覚えてる? うちのこと、凪だよ。なーぎっ」
ズカズカと、俺と恋仲の真ん中に立ち、わざとらしい笑みで恋仲を見下ろしている。
「ぜんきちも昨日ぶりだね! あっ、その目はまたうちのスカートのこと気にしてんの? 言いつけとおり、見えないようにしてるよ」
間髪入れず耳元に顔を近づける。
「あとで、また、ね?」
明らかに恋仲にも聞こえるような小さな声で囁く。
「あははっ、ごめんね。だって放課後まで会うのガマンなんてどうにかなっちゃうよ。……恋仲っち、知ってる? ぜんきちさ、あの動画のことずっと気にしててさ。うちがそうだんに乗ってあげてたんだよね」
何かが喋って笑って、スマホを取り出し、動画を再生する。
耳を貫く大音量が、静まり返っていた教室に異音がこだまする。
いや、あの……君の声がさ、好き――
途中で停止されたが、閉じ込められている室内には震えるような残響が取り残されている。
「でもさ、イケないよね。こんなこと。ねえ……恋仲っち。どうしてぜんきちと一緒にいるの? こんなことされてさ。また遊ばれてるかもしんないよ? じつは今も撮られてたりしてるかもね?」
俺の反応より早く、息を殺すように恋仲は立ち上がり、あの時みたいに教室から出ていく。
「あは。ごめんねぜんきち。でも……ぜんきちなら何とかできるでしょ?」
なんだ、こいつは。
なんなんだこいつはっ!
もう訳が分からない、恋仲を見送ってしまった俺も惨めすぎて訳が分からない。
このまままた、見送るだけの俺で終わるのか。もううんざりしてただろ、そんな自分に。
どん、と背中が蹴られる。椅子から滑り、よろけそうになる。
蹴られた方を見るも、誰もいない。
確かあの時、職員室に行こうとした時も似たようなことがあった。
誰かが「行けよ!」と叫んで、乱暴だったけど背中を押してくれた。
「恋仲!」
もう一度大きく背中が蹴られる、今度は無言だ。
俺はその反動のまま走り出す。恋仲の背中を追う。
ああ──分かってる!
そうだよ、そうだったんだ。これは、俺自身だったんだ。
恋仲の背中が見える、邪魔な生徒は突き飛ばす。
「恋仲っ、待って!待ってくれ!」
恋仲は階段を上っている。
三階を越え、その更に上へ。
俺の足もおぼつかなく、何度も階段に引っかかって転びそうになる。
このまま上がれば屋上だ。
昼休みは限定的に開放されている。なら、追いつける。
──ガチャン、ガチャガチャ。ガチャガチャ。
しかし、この日の屋上の扉は施錠されていた。
何度もドアノブを前後に動かしている恋仲の背中に追いつく。
「……恋仲、あの」
恋仲の背中は丸くなって小さい体が余計小さくなっている。
違うんだ、と言いかけて、声が詰まる。
違う? あの女との関係の言い訳? 笑える。
「気にするなよ……な……?」
恋仲はゆっくり、振り返る。
頷きも否定もしない。
薄暗い階段を照らすのは、出入りができない小窓から零れる外の光だけ。
うっすらと浮かぶその顔は、いつもみたいに笑顔だった。
でも体は、小刻みに震えている。
必死で何かを我慢している。
今も懸命に勇気を出し続けていた。
大きな瞳は潤んでいるが、でも、そこから零れ落ちることはない。
泣きたくても泣かない、そんな自分自身を縛りつけているような震えだった。
そのひたむきな姿、俺にはもう見ていられなかった。
「……っ」
思わず抱きしめる。
腕の中で恋仲の体が大きく跳ねる。
このまま崩れてしまいそうだった。だから俺は、腕に力を込めて、支えるように抱きしめた。
想像以上に小さくて、細くて、すぐに折れてしまいそうな体。
こわばる力が少しずつ緩んでいく。
何を言えばいいか分からなかった。
俺の声は、直接恋仲に届くはずなのに。