ルシアーナは薄曇りの窓辺をじっと見つめながら、ため息をついた。王都の外れに位置する広大な敷地を誇るベランジェ公爵家――その令嬢として十八年を過ごしてきたが、今日ほど心穏やかでない日はない。薄い雲の向こうに霞む太陽はまるで、彼女の心の内を象徴しているようにぼんやりと光をにじませていた。
朝早く、急ぎの用があると侍女のアデラから起こされ、父である公爵に呼び出されたと知ったときは、特別な用事などないだろうと気楽に思っていた。しかし、応接間に入ると同時に突きつけられた言葉は、彼女の予想を大きく覆すものだった。
「ルシアーナ、お前はセドリック・シュヴァイツァー侯爵家の次男と婚約が決まった。準備は早速始める。もちろん、お前には断る権利はない」
父の厳かな声が低く響くたびに、ルシアーナは自分の心臓がどくりと大きな音を立てるのを感じていた。政略結婚は貴族社会にとって決して珍しいことではない。むしろ、家の存続や権力の拡大のために行われる、それ相応の慣習だ。ただしルシアーナは、どこかの名家と縁組みすることになるだろうと漠然と想像していたものの、まさかこんなに唐突に、そして本人の意思をまったく無視した形で話が決まるとは思っていなかった。
それでも、表面上は平静を装った。貴族の娘である以上、感情的になって父に食ってかかることは許されない。父の決断が絶対であるという現実を、幼いころから幾度も見せつけられてきたからこそ、反論する口はすでに持たない。それがルシアーナの置かれた立場であり、悲しき教育の賜物でもあった。
公爵の言葉を受け、部屋に控えていた家令が、セドリック・シュヴァイツァー侯爵家の輝かしい功績について、まるで暗唱するかのように流れるような口調で述べ始めた。
「セドリック・シュヴァイツァー侯爵家は、先の大戦で王国に多大なる援助を行った結果、商会の独占権を手に入れまして。その後も金融事業や運送事業など幅広く手掛け、今や王国きっての財閥と評判です。次男のセドリック様は、知略に優れていることで知られ、特に貿易方面で目覚ましい成果を上げておられます。まさに将来を約束されたお方といえるでしょう」
ルシアーナは聞き流すようにして家令の説明を耳に入れながら、心の中で苦々しく思う。どれほど立派な家であれ、どれほど優秀な相手であれ、自分の意志を差し挟む余地がないという事実が、どうしようもない無力感をもたらすのだ。彼女は怒りとも悲しみともつかない感情をぐっとこらえ、父の前に膝をつき、恭しく頭を下げた。
「かしこまりました。父上の仰せならば、私に異存はございません」
そう告げた瞬間、ルシアーナの目にわずかながら悲壮感のようなものが宿った。しかし、公爵はその微かな感情の動きなど一瞥だにしない。ただ自分の決断が正しいことを確信しているかのように頷き、彼女の退室を許可した。
部屋を出た瞬間、ルシアーナは背筋を伸ばし、深呼吸をする。廊下には豪奢な絨毯が敷かれ、美しいランプが規則正しく並んでいる。その光が赤い色合いを帯びていたのは、自分の怒りを映し出しているようにも思えたが、それも勘違いかもしれないと彼女は小さく首を振る。豪奢な公爵家の景観はいつもと何ら変わらないのに、自分の目に映るそれはどこか冷たい世界で、息苦しささえ感じるのだった。
「ルシアーナ様……大丈夫ですか?」
侍女のアデラが心配そうに声をかける。彼女は幼いころからずっとルシアーナの傍に仕えてきた存在だ。年齢は二つほど上で、どちらかといえばおっとりとした性格だが、ときおり見せる鋭い洞察力が彼女の持ち味でもある。
「ええ……大丈夫よ。心配をかけてごめんなさい」
表情だけは取り繕って微笑んだが、もちろん本当に大丈夫などということはない。ああ、私のこれからの人生は、こうして父上の駒として動かされるのだろうか――そんな考えが頭をよぎる。アデラに詰め寄りたい気持ちはあったが、彼女に愚痴をこぼしても状況が変わるわけではない。せめて侍女にはこれ以上余計な気苦労をさせたくないという優しさが、ルシアーナを無理に微笑ませていた。
アデラは何も言わずに小さくうなずくと、ルシアーナの手をそっと握る。そのぬくもりに、ルシアーナの喉の奥がじわりと熱くなった。誰かが自分を気遣ってくれるというだけで、救われる思いがする。それはこの家では本当に貴重なことだった。家族であっても、公爵である父は娘に優しさを見せることはほぼなく、母親もまた名家の令夫人という立場を崩さず、常に「貴族令嬢のあるべき姿」を強要し続けていたからだ。
ルシアーナには姉と兄がいる。姉はすでに他国の王族に嫁いでおり、兄は軍人として活躍しているという話を耳にする。しかし、実家を離れた今となっては、彼らとの交流は手紙程度に限られていた。時折届く手紙にも、家の栄誉や社交界における自慢話が並び、家族としての温もりよりも、自分たちの立場を誇示するような文面が多い。そんな空気に馴染めず、ルシアーナは物心ついたころから、自分の家を“窮屈な場所”だと思うようになっていた。
――しかし、そんな感傷に浸っている場合ではない。
なぜなら、彼女が次にしなければならないのは、近々行われるというシュヴァイツァー侯爵家の次男・セドリックとの顔合わせの準備だ。思わず目を伏せる。相手のことは噂ほどしか知らないが、王都でも名を知られる財閥の御曹司らしい。父の言葉を思い出す。「政略結婚だ。断る権利などない」。昔から聞き慣れた言葉――“家の存続のため”。それが貴族にとっては絶対の理であり、彼らの中ではどうしても優先される要素だ。
ルシアーナは部屋に戻ると、アデラの助けを借りながら着替えを始めた。公爵家の娘ともなれば、衣装は数え切れないほど所蔵されており、そのどれもが質の良い生地や繊細な刺繍を施したものばかりだ。いつもならば、鏡に映る美しいドレス姿の自分に多少なりとも喜びを感じるところだが、今日はまるで罰を宣告されたような気分だった。
「ルシアーナ様、このドレスはいかがでしょう。上品な藤色が、今日の曇り空にも映えますわ」
アデラが選び出したのは、薄紫色の緞子(どんす)に銀糸の刺繍がされたローブ。袖口には小さなパールが規則正しくあしらわれており、見るからに気品を漂わせる一着だった。ルシアーナはかすかに視線を落とし、ドレスの裾を撫でる。まるで自分の悲しい運命を何も知らない衣装が、ただ優雅さだけを纏ってそこにあるように思えた。
「ありがとう、アデラ。それを着るわ」
そう言いながらも、心は重い。どんなに美しい衣装をまとったところで、この婚約が不本意であることには変わりないのだ。どうせ私は他人の道具なのだろう――そんな諦念が胸の底でひっそりと蠢くのを感じながら、ルシアーナはドレスのリボンを結び、髪をまとめ、鏡の前に立った。
鏡に映った自分の姿はどこまでも美しく、見方によっては誇り高い貴婦人のようにも見えるかもしれない。しかし、その瞳に宿る微かな陰りだけはどうしても隠しきれなかった。
――それから数時間後、ルシアーナは公爵家の客間で、シュヴァイツァー侯爵家からの使者を迎えていた。
正面に腰掛けるのは、シュヴァイツァー侯爵家の筆頭執事だという老人。整った白髪に品のある佇まいで、初対面のルシアーナにも丁寧に挨拶をしてくれた。しかし、その目はどこまでも冷静で、必要最低限の言葉しか発しない。使者としての務めに徹しているのだろう。余計な感情を介在させない、まさに貴族社会の手練れといった風格が漂っていた。
「本日はセドリック様がおいでになれず申し訳ございません。近々、正式な場を設けてお会いすることになりますが、ひとまず婚約に関する書状と細かな条件についてお持ちいたしました」
そう言って執事は分厚い書面を取り出す。内容は家同士の取り決めや、結婚に伴う財産の管理、どちらの家が何を負担するかといった事務的な契約事項が主だ。ルシアーナはこれに何ら興味を抱けないが、軽く目を通すふりだけはした。どうせ父と家令が熟読し、決定を下していくのだろう。
「セドリック様は、もともと政略結婚などに興味を持たれる方ではありませんでした。ですが今回、ベランジェ公爵家とは以前から良好な貿易関係があり、また王国の宮廷でも互いに面識はございますので、お二方の縁組を進められるのが望ましいとのことです」
その言葉を耳にし、ルシアーナは胸の奥がひりつくのを感じた。ああ、やはり興味もないのに結婚を押しつけられるのは自分だけではないのだな、と。
これが完全に愛のない形であるならば、相手もルシアーナをどう思っているのかはわからない。ただ、表面上は「家柄にふさわしい婚約者」として、セドリックは私を受け入れるのだろう。そう思うと、ほんの少しだけ救われる気がした。自分だけが犠牲者ではない。彼もまた、同じ渦中にいるのかもしれない――そう考えることで、わずかばかりの共感の念が芽生える。
しかし、それは決して喜ばしいことではない。二人とも、家という大きな枠組みに閉じ込められ、自由に生きる道を持たない者同士。そんな縁組が果たして幸せなものになるのだろうか。ルシアーナは不安を抱きつつも、今は黙って成り行きを見守るしかないと思い直した。ここで無駄に抗っても結果は変わらない。ならば、いっそ利用できるものがあれば利用してしまえばいい――そうした打算的な思いも浮かび上がる。
公爵家とシュヴァイツァー侯爵家が文書を取り交わす儀式は、短時間で滞りなく終わった。使者は粛々と退室し、客間にはひんやりとした空気だけが残される。ルシアーナはそっと椅子から立ち上がり、重々しい扉の向こうへと歩みを進める。廊下の奥には、さきほど父に会った応接間があり、その先には母の私室や家令の執務室が並んでいる。おそらく、これからさらに細かな準備が進められていくのだろう。
「ルシアーナ様、お疲れになったでしょう。少しお休みになりますか?」
気遣わしげにアデラが声をかけるが、ルシアーナは小さく首を振った。今はただ、頭の中を整理したい。気持ちを落ち着かせたいという思いが強い。
「少し、庭を散策してくるわ。外の空気を吸いたいの」
そう告げると、アデラは何か言いかけたが、そっと口を閉じて微笑んだ。「わかりました。お気をつけて」とだけ言って、ルシアーナを見送る。その優しげな笑顔に少しだけほっとしながら、ルシアーナは踵を返し、公爵家の広大な庭へと足を進めた。
季節は晩春から初夏に差しかかる頃。淡い薄緑色が庭全体を包み込み、背の高い植木や花壇が優雅なコントラストを描いている。本来ならばこの景色を眺めるだけで心が洗われるというのに、今日のルシアーナには何か物足りない。心の重石が取り除けず、まるで楽しい音楽を耳にしても、その旋律を楽しめないような感覚だった。
敷石が敷かれた小道を進むと、大理石の噴水が見える。繊細な彫刻が施されたその噴水は、公爵家の誇りの一つだ。噴水の中央には優雅な女神の像が立ち、清らかな水が高く舞い上がって陽の光を反射している。ルシアーナはその前に立ち止まり、じっと水の流れを見つめた。
「私は……どうしてここまで抗えないのかしら」
誰に聞かせるわけでもなく、ぽつりと呟く。噴水の水音が規則正しく響き、まるで小さな世界の鼓動のようだった。すると、視界の端に人影が映る。振り返ると、弟が立っていた。といっても実の弟ではなく、遠縁に当たる少年で、ベランジェ公爵家が養子のような形で引き取った子だ。名をアルフレッドという。まだ十四歳ほどの幼さだが、その瞳にはどこか大人びた光がある。
「ルシアーナ姉上……婚約のこと、聞きました」
アルフレッドは少し躊躇いがちに言葉を続ける。ルシアーナは彼が会話を盗み聞きしていたとは考えない。公爵家では重要事項はすぐに使用人の間で噂になり、瞬く間に全体へ広がる。それが家という小さな社会だ。噂が広まるのも時間の問題というわけだ。
「そうなの。決まってしまったわ。セドリック・シュヴァイツァー侯爵家の次男と」
淡々と答えるルシアーナに対し、アルフレッドは困ったように笑い、噴水のほとりのベンチに腰掛けた。彼はもともと公爵家にとって利用価値があるとされ、幼いころに引き取られた存在だ。学問の才に恵まれ、将来は宮廷で役人として活躍することが期待されている。その点、ルシアーナと似ているといえば似ている。自分の意志とは関係なく、周囲に期待され、道を敷かれている立場なのだ。
「もし僕がもっと力を持っていれば……ルシアーナ姉上がこんな形で婚約させられることもなかったんでしょうか」
悲しげに俯くアルフレッド。そんな彼を見て、ルシアーナは申し訳ない気持ちになった。たとえアルフレッドが力を持っていようと、これは公爵家の最優先事項だ。どうしようもないほど大きな流れに飲み込まれている。アルフレッドが自分を助けられるわけがないのだ。それでも彼は、そんな無力さに苛立ちを覚えているのだろう。
「アルフレッド、ありがとう。でも大丈夫。あなたのせいじゃない。これは……ベランジェ公爵家に生まれた私の宿命なのかもしれないわ」
宿命――口にするたび、その言葉がまるで鉄の鎖のように自分を縛るのを感じる。それでも、ルシアーナはそう言わずにはいられない。今更声を荒げて抗っても、父が翻意するとも思えないし、母が助け舟を出してくれるはずもない。ならば、自分でできることを探すしかない。与えられた環境の中で、少しでも自分の幸せを掴む方法はあるのだろうか――そんな思いが彼女を支えていた。
アルフレッドが小さく「力になれずすみません」と呟く。ルシアーナはかぶりを振って、彼の隣に腰を下ろした。噴水のしぶきが少し飛んでくるが、むしろその涼しさが心地よい。
「あなたがいてくれるだけで、私は救われているわ。少なくとも、こうして心配してくれる人がいるだけでね」
そう言いながら、ルシアーナは空を見上げる。曇っているとはいえ、白んだ雲の合間からは、一筋の光が覗いているようにも見える。その光が、どこか自分に希望を投げかけているようで――ほんの少しだけ、気持ちが軽くなるのを感じた。
私はこれからセドリック・シュヴァイツァーという人と婚約し、いずれは正式に夫婦となる。それがいつになるのかはわからないが、それまでの間に何ができるのだろう。あるいは結婚後に、自分の意思をどこまで通すことができるのか。考えれば考えるほど暗い道のりだが、何もしないよりはマシだ。せめて自分の幸せを、自分自身で掴む努力はしたい。
――翌日、公爵はシュヴァイツァー侯爵家からの招待に応じ、ルシアーナを伴って先方の屋敷へと向かうことになった。まだ正式な顔合わせではないが、一度はお互いの家の者と軽く挨拶を交わしておこうという名目だ。
シュヴァイツァー侯爵家の屋敷は王都の中心に位置し、大理石の柱と真っ白な壁が印象的な壮大な建築物だった。周囲にはいくつもの豪奢な馬車が停まり、人々が出入りしている。貴族や商人、大使など、さまざまな階層の人間が出入りしているらしい。
大きな門をくぐると、左右に美しく剪定された庭園が広がり、噴水の中から水がきらきらと飛沫を上げている。ベランジェ公爵家にも豪華な庭はあるが、こちらはまた別格だ。規模も広く、まるで宮殿のように厳粛でありながら、商人の活気を感じさせる客用玄関が用意されている。中へ入ると、床には光沢のある大理石が敷き詰められ、天井には大きなシャンデリアが燦然と輝いていた。
「やはり豪勢だな。これがシュヴァイツァー家の力というやつか」
父であるベランジェ公爵が満足そうに顎を撫でる。ルシアーナはその横に佇み、無表情を保っていたが、心の中では少し圧倒されていた。これほどの富を持つ家と縁組みすれば、確かにベランジェ公爵家の地位も安泰だろう。父が喜ぶのも無理はない。しかし、一方で、そのような資産や権力を誇る家に嫁いだとき、自分はさらに息苦しい思いをするのではないか――そう懸念せずにはいられなかった。
出迎えに現れたのは、先日公爵家を訪れた執事と数名の使用人。それに続くようにして、当主であるシュヴァイツァー侯爵とその夫人が姿を現す。侯爵は豪壮な衣装に身を包み、その胸元にはいくつもの勲章が光り輝いていた。一方、夫人は気品あふれるドレス姿で、控えめに微笑みながらベランジェ公爵に挨拶をする。
「ようこそお越しくださいました、ベランジェ公爵閣下、そしてルシアーナ嬢。息子のセドリックはまだ執務を終えておらず、少し遅れて参りますが、ご容赦くださいませ。すぐに参りますので、どうぞ客間でおくつろぎを」
そうして案内された客間もまた、驚くほど広々とした空間だった。天井は高く、壁には美しいタペストリーが飾られ、奥には暖炉が設けられている。窓の外には、小さな滝を模した庭園が見え、その水音がかすかに響いてくる。
ルシアーナはベランジェ公爵の隣のソファに腰掛け、出された紅茶を一口飲む。高級な茶葉を使っているのだろうが、彼女の口にはほろ苦さが際立って感じられた。これも自分の置かれた状況のせいかもしれない、と自嘲気味に思う。
しばらくすると、やや足音の速い気配が廊下から近づいてきた。扉が開き、姿を見せたのは、黒髪を短く整えた青年だった。引き締まった体躯は無駄のない動きを感じさせ、その瞳は深い碧色(へきしょく)を宿している。
ルシアーナの視線がその青年に重なった瞬間、胸の奥がほんの少しざわめいた。彼こそがセドリック・シュヴァイツァー――将来を嘱望される侯爵家の次男だ。まるで空気を切り裂くかのような冷静な眼差しと、貴族らしい端正な顔立ちが印象的で、どこか近寄りがたい雰囲気すら漂わせている。
「お待たせして申し訳ありません、ベランジェ公爵閣下。それから……ルシアーナ嬢、初めまして。私がシュヴァイツァー侯爵家の次男、セドリック・シュヴァイツァーです」
落ち着いた声でそう言うと、セドリックは深々と頭を下げた。その動作には無駄がなく、育ちの良さが窺える。ベランジェ公爵は大きく頷き、彼と固い握手を交わす。そして隣のルシアーナを手招きした。
「こちらが、私の娘のルシアーナだ。まだまだ若いが、お前の良き伴侶となるであろう。まあ、まだお互いぎこちないだろうが、今日はいろいろ話してみるといい」
まるで品物を提示するかのような言葉に、ルシアーナは表面上だけ微笑みを浮かべながら、セドリックと視線を交わした。
「初めまして、セドリック様。ルシアーナ・ベランジェと申します。今日お目にかかれて光栄です」
手の甲を差し出すと、セドリックはわずかに躊躇したように見えたが、礼儀正しくルシアーナの手を取り、軽く唇を寄せた。王都の社交界でもよくある挨拶とはいえ、そのわずかな触れ合いにルシアーナの鼓動はなぜか早まる。まるで、彼が放つ冷たい瞳に何か力が宿っているかのようだった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
セドリックが口を開くと、客間の空気がわずかに引き締まったような気がした。彼は貴族の子息らしく、端正な言葉遣いだが、その声の奥に感情の起伏を感じさせない。まるで自分の内面を隠そうとしているかのようにも見える。
ルシアーナはほんの少し胸を痛めた。噂では、セドリックは非常に優れた知略家であり、ビジネスの交渉においては誰もが一目置く存在だと聞く。しかし、彼の婚約についての話を耳にしたことはない。つまり、やはりこれも家同士の都合で決められたのだろうと思うと、ルシアーナは一抹の同情すら覚えた。
「よろしければ、ここでは息苦しいでしょうから、少し屋敷の中を散策なさってはいかがですか。これからご一緒になるお二人です。まずは気楽に話してみるのが一番でしょう」
シュヴァイツァー侯爵の提案に、ベランジェ公爵も同意する。当主たちはここで談笑を続けるという流れだろう。ルシアーナとセドリックは席を立ち、使用人の案内で客間を後にした。
長い廊下を歩きながらも、互いに言葉少なだ。かすかに窓から差し込む陽光が、二人の間に緊張感を浮き上がらせているようだった。とりあえず、ルシアーナは口を開くことにした。何を話せばいいのかわからないが、このまま黙っていても気まずいだけだからだ。
「セドリック様、いつもはどのようにお過ごしなのでしょうか。お忙しいと伺いましたが」
ルシアーナが問いかけると、セドリックは一度ちらりと彼女に視線を向け、淡々と答える。
「はい。家の事業の監査や新規の貿易交渉など、やるべきことは山積みですから。私の兄が軍務につくことが多く、家の財務を管理しているのは私です。正直、女性とこうして散策するのは慣れていません」
それは本音なのだろう。飾り気のない率直な言葉に、ルシアーナは少し肩の力が抜けた。相手もまた、ぎこちなく対応しているという事実が、妙に安心感を与える。
「そうですか……私も、こうして会話をするのは少し緊張しています。あまり社交界に顔を出すのが好きではなくて……。とはいえ、これからはそうも言っていられないのでしょうけれど」
最後の言葉には、自嘲混じりの苦笑がこぼれる。セドリックはそれを聞き、かすかに眉をひそめたように見えたが、すぐに表情を元に戻した。
「そうですね。私たちは……おそらく、互いに不本意な形でこの縁組に臨むことになるかもしれません。ですが、どうせなら上手く協力し合った方が得策だと思いませんか」
どこまでもビジネスライクな言い方だった。しかし、冷たく感じる一方で、セドリックの目にはどこか計りきれない深さを感じる。彼は彼なりに、婚約という既定路線に納得していないのかもしれない。だからこそ、ビジネスのように合理的に割り切ろうとしているのだろう。
「ええ、そうですね。協力……ですか」
ルシアーナは唇の端を少し上げ、笑みとも溜息ともつかない声をもらした。協力と聞けば冷酷な響きがあるが、実はその方が正解なのかもしれない。愛などない形で結ばれると仮定するのなら、せめて衝突するよりは歩み寄った方がお互いのためだ。これは決して情熱的な恋の始まりではないが、それでもうまく活用すれば、自分の人生を多少なりとも自由にできる余地があるかもしれない。
二人はそんな会話を交わしながら、白を基調とした優美な廊下を一巡りする。大きな窓からは、広大な庭園が見下ろせた。噴水や花壇の配置が計算され尽くしたかのように美しく、訪れる貴賓の目を楽しませることだろう。
「美しい……ですね」
思わず感想を口にしたルシアーナに、セドリックは「ええ」と短く返事をする。そして少し照れたように視線を窓の外に向けた。
「あなたが、こんな屋敷に嫁いだらどう思うか……私には想像しかできませんが。もし何か不自由があれば、遠慮なく言ってください。結婚とはいえ、強引に家の習慣を押し付けるつもりはありませんから」
その言葉は、少なくともルシアーナにとって嬉しいものだった。少しでも自分の意見を尊重してくれる余地があるのだとしたら、この結婚生活は真っ暗なものではないかもしれない。
一方で、セドリックの言動にはどこか探るような視線が混じっていた。まるでルシアーナがどう出るかを分析しているようにも思える。彼は仕事の交渉相手に対して、常にそうして相手の出方を読むのだろう。だからこそ優れた知略家と呼ばれるのかもしれないが、その視線が向けられると落ち着かない。
「わかりました。ありがとうございます……。私も、あなたのする仕事の邪魔をしないよう心がけます。家同士の利益を図ることが前提なのは理解していますから」
そう返すと、セドリックはほんのわずかに笑みを浮かべたようだった。
――これが二人の初めての対面。そこには恋の火花やときめきといった甘やかさは見当たらない。むしろ、どこかドライな空気すら漂っている。しかし、ルシアーナはこの一歩を踏み出したことで、少しだけ“自分らしくいる”道が切り開けるのではないかと感じていた。セドリックもまた、少しずつ心を開いてくれるかもしれない。互いに不本意な婚約だが、だからこそ寄り添える部分はあるはずなのだ。
だが、このときのルシアーナはまだ知らなかった。セドリックの背後に渦巻く家族間の確執や、さらに自分の実家であるベランジェ公爵家を巻き込んだ陰謀が、水面下で動いていることを。
そんな数奇な運命の歯車が、今まさに動き出しているとも知らず、二人は廊下を歩き続ける。曇り空の下で交わされた、不本意な婚約から始まる、ささやかな一歩。これがやがて大きなうねりを起こし、ルシアーナとセドリックの運命を大きく塗り替えていくことになるのだ。
そして彼女の心には微かな決意が芽生えていた――“家のため”という言葉に囚われるだけでなく、この結婚をどうにか自分に有利に運び、少しでも幸せを掴む術を探し出してみせる、と。
そのためにはまず、冷徹な策略家と名高いセドリックの内面を知る必要がある。どんな人なのか、何を考えているのか。真正面から向き合ってみなければわからない。
ルシアーナは無意識のうちに、セドリックの横顔をちらりと見つめた。彼は窓の外の美しい庭園を静かに眺めている。光に照らされるその横顔は、どこか物憂げで――しかし、不思議と魅力的にも感じられた。
そうして第一歩を踏み出した二人の関係が、どのような形へ変化していくのか、それはまだ誰にもわからない。
ただ一つだけ確かなのは、この不本意な婚約がルシアーナの人生を大きく揺さぶり、やがては甘く激しい逆転劇を巻き起こすことになるだろうということ。彼女はまだ気づいていない。けれど、その運命の扉はすでに音を立てて開かれようとしているのだ。