ルシアーナがシュヴァイツァー侯爵家を初めて訪れてから数日後、彼女のもとに一通の書状が届けられた。差出人はセドリック本人。慇懃な文面で、近々また顔を合わせる機会を設けたい旨が綴られている。内容そのものはそっけなく、まるでビジネス文書のようだったが、それでもわざわざ自分で書いたという事実に、ルシアーナは少し胸の奥がくすぐったい思いを覚えた。
「やはりセドリック様は、実務に慣れているんでしょうね」
侍女のアデラがそう感想を漏らすと、ルシアーナも苦笑まじりに頷く。
「ええ、そうね。手紙からも合理性を感じるわ。飾り気がなくて、むしろ読みやすいくらい」
もっとも、恋文と言えるような甘い言葉は一切ない。だが、形式的にも手紙をくれたという事実が、彼の性格を端的に示しているように思えた。相手を無視するでもなく、必要最低限の礼節は尽くす――まさに初対面の印象そのままだ。ルシアーナは机の上でその便箋を指先でそっと整えながら、胸に湧くさざ波のような感情の正体を探ろうとした。
そして約束の日、ベランジェ公爵家の馬車がシュヴァイツァー侯爵家へ向かう。前回は父と共に訪れたが、今回はルシアーナひとりだ。もっとも、一人きりというわけではなく、侍女のアデラと護衛が数名同行している。結婚前の身であることを考慮し、なるべく大仰にならないよう人数は絞られていたが、それでも公爵家の馬車が走る姿は周囲の目を引くに十分だった。
馬車の揺れを感じながら、ルシアーナはしばし考え込む。今日はセドリックと何を話せばいいのだろう。おそらくは挨拶を済ませ、今後の打ち合わせ程度だろう。住まいをどうするかとか、結婚式までの日程調整など、事務的な会話が中心になるに違いない。そう思うと、ほんの少しだけ気が重い。それでも、何も話さず黙っているよりはいいだろう。前回の一件でわかったのは、セドリックもまた必要以上に踏み込まれたくない性格であるということ。そして、自分もまた、あまり干渉されたくはない。であれば、気兼ねせず“協力関係”という形を模索すればいいだけのことだ――そう自分に言い聞かせる。
やがて馬車はシュヴァイツァー侯爵家の正門へ到着する。前回と同様、執事や使用人たちが出迎えてくれ、ルシアーナとアデラは案内されるままに広い玄関ホールを抜けて客間へと向かった。
そこにはすでにセドリックが待っていた。前回は執務の合間に姿を見せた彼だったが、今日はきちんとこの場にいるということは、やはり自分で呼び寄せておいて不在という失態は避けたいと思ったのだろう。そうした「段取りを重視するところ」も、ビジネスマンらしい――とルシアーナは思う。
「ようこそ。お越しいただきありがとうございます、ルシアーナ嬢」
軽く会釈をしてソファを勧めるセドリック。その口調は相変わらず丁寧だが、前回よりもわずかに柔らかさがあるように感じられた。それが錯覚ではないことを願いつつ、ルシアーナはドレスの裾をたたみ、優雅に腰掛ける。アデラは控えの席に下がって待機し、テーブルには温かな紅茶と茶菓子が並べられた。
「お招きありがとうございます。先日は慌ただしくしてしまいましたから、こうして改めてお目にかかれるのは嬉しいですわ」
ルシアーナがそう言うと、セドリックは一瞬だけ視線を落とし、微かに微笑んだ。
「いえ、こちらこそ。実のところ、こうした場に慣れていませんので失礼があればご容赦ください」
はっきりと「慣れていない」と言い切るあたりが、やはり彼の率直さなのだろう。普通ならば、貴族としてのプライドからこうした言い方は避けるものだ。しかしセドリックには、必要以上に取り繕う気配がない。以前の手紙の文面もそうだったが、彼は自分の不得手な面を割とあっさり認めてしまうのかもしれない。
「お忙しいと伺っていますが、今日は私のために時間を割いていただいたのですね」
まるで取材のように問いかけてしまったことに気づき、ルシアーナは内心で少しだけ顔を熱くする。しかしセドリックは表情を変えずに答えた。
「まあ、そうですね。婚約者を呼び寄せておいて、当人が不在というのはあまりにも不誠実でしょう? そもそも結婚に向けて話し合わなければいけないことも多いですし」
それがセドリックなりの“誠実さ”なのだろう。言葉尻が冷たく感じるのは、やはり情緒よりも合理性が勝る性格ゆえか。だが、ルシアーナはその冷静な態度の裏に、一瞬だけ優しげなものが混じった気がしていた。“不誠実”という言葉を彼が使うからには、自分でもきちんと向き合う姿勢を示そうと決めているのだろう。それだけで十分だ、とルシアーナは思う。少なくとも、彼が彼女をまったく無視するような人間ではないことがわかったからだ。
そうこうしているうちに、一通りの形式的な挨拶が済む。テーブルの上の書類には、婚約の詳細や今後の予定がまとめられていた。式の日取りは半年後を目安とすること、ベランジェ公爵家とシュヴァイツァー侯爵家の間で取り決める財産や持参金の内容、さらには新居についての方針――そうした事務的事項が綴られている。ルシアーナはざっと目を通し、「特に問題はありません」と述べた。実のところ、こういう分野は父が中心となって詰めているため、ルシアーナが言及できることはほとんどない。
「結婚後は……基本的にはこちらの屋敷に住むことになりますわね?」
書類から視線を上げて問いかけると、セドリックは軽く頷く。
「そうなります。私自身もここを拠点に事業を管理していますので。ただ、あなたがどうしてもベランジェ公爵家との二重生活を望むなら、定期的に実家へ帰ることは可能でしょう。もっとも、これは“政略結婚”なのですから、公にあまり奔放な行動を取られるのは避けたいところですが」
最後の言葉に、ルシアーナは唇をきゅっと結んだ。たしかに公の場では、婚約者あるいは夫人としての立場を踏まえなければいけない。しかし、セドリックの言い分はあくまで合理性に基づくものであり、彼女を束縛しようという意図は感じられない。むしろ、“必要とあらば実家に戻ってもいい”と可能性まで示してくれている点は、優しさといえるのかもしれない。
「わかりました。ベランジェ公爵家に戻っても、長居は無用ということですね。私もそのつもりでいましたから、心配いりませんよ」
自嘲気味にそう言うルシアーナに、セドリックはわずかに眉をひそめた。
「……何かご実家で不都合でも?」
「不都合というか……私にとって息苦しい場所なんですの。父は昔から厳格すぎる人ですし、母も“貴族令嬢の務め”をひたすら教えこむだけで、息をつく暇がありませんでした。自分の意見を言おうものなら“それは公爵家の娘として相応しくない”と一蹴される。ここでの生活がどうなるかはわかりませんが、少なくとも私は“使い勝手のいい道具”としてではなく、一人の人間として扱われたいんです」
そこまで言葉を吐き出してから、ルシアーナはしまったと思った。まだ知り合ってそう日も浅く、しかも相手は完全に他家の人間。こんなに率直な感情をぶつけてしまうのは軽率だったかもしれない。しかし、セドリックは思ったほど驚いた様子を見せず、むしろ静かな目で彼女を見つめていた。
「そう……。まあ、家というのは得てしてそういうものかもしれませんね。私の家族も、互いに利害を最優先する部分があります。兄は軍務で家の名誉を高めることしか考えていないし、父も母も“家名”に固執している。だからこそ、私がこうして財務を管理し、それなりの実績を上げる必要があるのです。“家の誇り”を維持するためにね」
それはおそらく、セドリックなりの“痛みの共有”なのだろう。ベランジェ公爵家と同じように、シュヴァイツァー侯爵家もまた、古くからの名門としてのプライドや責任、体面を最優先する家風なのかもしれない。彼にとっても、それは一種の重荷なのだ。
ルシアーナは、少しだけ胸が軋むのを感じた。彼を冷たい策略家と評する人は多いが、少なくともここにいる彼は、自分の置かれた立場を受け入れつつ、どうにか道を切り開こうと奮闘する普通の青年ではないか――そう思えたのだ。
「……あなたも大変なんですね」
率直な共感の言葉に、セドリックの瞳がわずかに揺れた。だが、それは一瞬のこと。すぐに彼は淡々とした表情に戻り、「私の場合、そういう環境の方が性に合っているだけですよ」と言葉を返す。
そのやり取りを横で聞いていたアデラは、胸を撫で下ろすように小さく笑みを浮かべた。どうやら、一方的な言い争いにならず、互いを理解しようとする空気がそこに生まれていると感じたからだ。もちろん、これだけで完璧にわかり合えるはずもない。だが、少なくとも二人の間には、尊重し合える何かが芽生えつつあるように見える。
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翌週、ルシアーナはシュヴァイツァー侯爵家の一室に滞在することになった。結婚に向けての準備や打ち合わせが本格化し、ベランジェ公爵家と行き来するよりは、日程を集中させて一気に済ませようという算段だ。父からは「娘を預けるのだからよろしく頼む」と、形式的な文書がセドリック宛に届き、それを受けたセドリックはあっさりと「結構だ」と答えたという。
こうしてルシアーナは、仮住まいとして侯爵家の客用の部屋を与えられ、しばらく生活することになる。もちろん結婚前の男女が同じ家に住むというのは通常ならば不謹慎だが、両家の取り決めと侍女や護衛の監視もあるため、公的には問題ないと判断されたようだ。
それでも、ルシアーナにとっては初めてのことだ。実家を出て、しかも婚約者の屋敷に滞在するなど想像もしていなかった。アデラと共に与えられた部屋に入り、広々とした調度品やベッド、衣装ダンスなどを見回す。シンプルだが上質な家具が揃い、窓からは手入れの行き届いた庭園が一望できる。なんという贅沢さだろう。
「すごいわね……客用の部屋とはいえ、十分すぎるほど広いわ」
ルシアーナは小さく息を吐く。心なしか緊張感もあるが、それ以上に「ここでセドリックと日常を少しだけ共有するのだ」という実感が湧いてきて、なんとも言えない気持ちになっていた。一方のアデラは「ルシアーナ様が少しでも気楽に過ごせるよう、お側にいますからね」と優しく微笑んでくれる。その言葉に支えられ、ルシアーナはなんとか落ち着きを取り戻した。
滞在初日の夜、夕食の場では侯爵夫妻やセドリックの兄・アレクシスも同席し、にぎやかな会食となった……はずだったが、ルシアーナにとってはどこか居心地の悪い時間でもあった。なぜなら、侯爵夫妻は終始「家の威厳」や「財政の拡大」を誇る話題ばかりを振り、アレクシスは父の言うことに相槌を打ちながら、自分の軍での功績を自慢げに語る。ルシアーナが話を振られるのは、「ベランジェ公爵家はどうかね?」というような家同士の比較ばかりだ。まるで自分は“ベランジェ家の代表”のような扱いで、それが窮屈に感じられる。
そんな中、セドリックだけは口数が少なく、ルシアーナに無理やり発言を求めるようなこともしない。時折フォローのように話を振ってくれる程度で、あとは適度に相槌を打つにとどめる。まるで会食の表舞台は父と兄に任せ、自分は裏方に回っているようにも見えた。
しかし、アレクシスが話題を軍の遠征に切り替えたとき、ふとその視線がルシアーナに向けられる。
「……ところで、妹殿になるルシアーナ嬢は、政略結婚という形に納得しているのかい?」
唐突な問いにルシアーナは一瞬息を呑んだ。アレクシスは淡々と微笑んでいるが、その目はどこか探るような光を帯びている。周囲の視線が一斉に自分へ注がれるのを感じ、胸がどきりと鳴った。
セドリックが口を開こうとするのを制するように、アレクシスは手を上げて続ける。
「いや、詮索するつもりはないんだ。ただ、家の都合で結婚させられるなんて、あまり面白くないだろうと思ってね。僕は軍務が忙しくて社交界には関わらないけれど、噂は聞こえてくる。“セドリックはベランジェ公爵の娘を手に入れ、さらなる事業拡大を図っている”とかね」
それは噂というより、事実の一端かもしれない。両家の繋がりがより強固になれば、経済的にも政治的にも互いに利益があることは間違いない。だが、それを面と向かって言われると、ルシアーナはどう応じればいいかわからなくなる。
瞬間的に、彼女はセドリックを見やった。するとセドリックは、どこか冷ややかな表情で兄を見返している。兄弟同士とはいえ、険悪とはいかないまでも、やはり微妙な空気が流れる。
やむなくルシアーナは微笑を保ちながら口を開いた。
「確かに……家同士の結びつきが強まれば、様々な恩恵があるでしょう。でも、私とセドリック様は、まだお互いをよく知らない仲です。いずれは協力し合う形が得策だと思っていますけれど、少しずつ理解を深めていく段階かと」
婉曲な答え方だが、これが今のルシアーナにとっては精一杯だった。裏を返せば、「家のメリットだけを求められるのはごめんだ」という気持ちも含まれている。アレクシスは唇の端を上げ、面白そうに笑う。
「はは、なるほどね。セドリックは幸運だな。きっと自分のプランをしっかり練っているんだろう。軍務で留守がちの僕には到底真似できないよ」
明らかに皮肉交じりの口調に、ルシアーナは居たたまれなくなる。しかし、そのときセドリックが静かな声を上げた。
「兄上、あまり失礼な口ぶりはやめてください。ルシアーナ嬢にとっては心外でしょう。私の結婚をどう捉えようと自由ですが、家を利用しているのはお互い様のはずです」
一瞬、テーブルの空気がひやりとする。だが、アレクシスは笑みを崩さず、むしろ楽しげに肩をすくめるだけだった。侯爵夫妻も特に咎めるでもなく、軽く咳払いして話題を別の方向へ移してしまう。
ルシアーナは急に胸が詰まる思いだった。まるで目の前で見えない火花が散ったかのようだ。セドリックにはセドリックの事情があり、アレクシスにはアレクシスの思惑がある。この家族の関係は一筋縄ではいかない――それをひしひしと感じさせる場面だった。
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夕食後、ルシアーナは少し散歩をしようと屋敷の廊下を歩いていた。昼間に見た庭園は闇に包まれ、窓の外はぼんやりとした月の光だけが頼りだ。静まり返った廊下には、壁にかけられたランプが控えめに灯り、足音すら響いてしまうほどの静寂がある。
ふと、前方に見覚えのある背中を見つけた。黒い髪、少しうつむき加減の姿勢――セドリックだ。どうやら彼も同じように夜の空気を吸おうと散歩しているらしい。
ルシアーナは思わず声をかけようとしたが、セドリックの表情を見て、言葉を飲み込んだ。彼はどこか疲れたような面持ちで廊下の窓を見つめている。月光が窓ガラスに反射し、その横顔を照らし出しているが、先ほどの夕食時とはまるで別人だ。あの冷静な雰囲気が嘘のように、どこか憂いを帯びていた。
どうしようか迷った末に、ルシアーナは思い切って近づくことにした。足音を立てないよう気を配りながら、ゆっくりとセドリックの隣に立つ。そして、わざと窓の向こうを眺めるようにして口を開いた。
「……夜の庭も綺麗ですね。昼間とはまた違って、静けさがあるわ」
セドリックはわずかに驚いた様子で振り返ったが、すぐにうっすらと口元に笑みを浮かべた。
「ルシアーナ嬢、こんな夜更けに散歩を? 風邪をひかないようお気をつけくださいね」
からかうような調子ではなく、本当に心配しているかのような声音だった。ルシアーナはその微妙な優しさに、胸の奥がくすぐられる思いがする。
「ありがとうございます。セドリック様こそ、少しお疲れではありませんか? 夕食のときに、少し険悪な雰囲気になってしまって……」
言いにくそうにそう告げると、セドリックはすぐには答えず、窓ガラス越しに遠くを見つめた。月に照らされた庭の木々や噴水が、夜の闇に溶け込むように静かに佇んでいる。
しばし沈黙が続き、ルシアーナは次に何を言おうかと思案するが、言葉が出てこない。しかし、そんな彼女の心中を知ってか知らずか、セドリックが静かに口を開いた。
「兄上は昔からああいう性格でね。悪気はないのかもしれないが、ときどき挑発的な態度をとるんです。軍人としての誇りがあるのはわかるけれど、家のことにはほとんど口を出さないのに、こういう場面では首を突っ込んでくる。あれが彼なりの愛情表現なのか、家を揺さぶろうとしているのか……正直、私にもわからないんですよ」
言葉の端々に、深い溜息が混じる。ルシアーナには、セドリックが家族関係に悩んでいるのだとありありとわかった。
アレクシスは一見愛想が良さそうに振る舞っていたが、そこに含まれる皮肉や探りの言葉は、確かに不穏なものを感じさせる。この兄弟の間には、当人たちにしかわからない溝があるのだろう。たとえば、長子として家名を継ぐ立場と、次男として財務を握る立場の確執……そうしたものが積み重なっているのかもしれない。
「そうだったんですね……。私がああして巻き込まれる形になるとは思っていなかったので、少し戸惑いました」
ルシアーナの言葉に、セドリックはうっすらと笑みを浮かべる。
「申し訳ありません。あなたには関係のないことなのに、兄上のせいで気を遣わせてしまいました。ですが、私としてはあなたをかばうのが当然です。それが“婚約者”という形の最低限の責務だと思っていますから」
その言葉は、思った以上に真っ直ぐで、ルシアーナの胸を打った。合理的で冷ややかだと思っていたセドリックが、「当然の責務」としてではあっても、彼女を守ろうとしたのだ。そして、その声には微かな温もりが宿っているように感じる。
まるで“自分はあなたをないがしろにはしない”と宣言しているかのようで、ルシアーナはほっと安心すると同時に、少しだけ頬が熱くなった。
「……ありがとうございます。正直、政略結婚である以上、私はお飾りとして扱われるだけかもしれないと覚悟していました。でも今の言葉を聞いて、あなたは私を道具にするだけの人ではないんだとわかりました」
言葉に詰まるルシアーナに、セドリックは意外そうに目を見開く。
「道具、ですか。……そう思わせるほど、私は冷たく見えますか?」
それはどこか寂しげな響きを含んだ問いだった。ルシアーナは慌てて首を横に振る。
「い、いえ、そういうわけではないんです。ただ、世間には“あなたは冷徹な策略家だ”という噂があって。最初にお会いしたときも、どこか壁があるように感じてしまって……」
素直に打ち明けると、セドリックはふっと笑みを漏らした。
「なるほど……世間の噂というのは、いつも面白いものです。確かに、私は仕事の交渉や事業運営では徹底した手段を取ることもありますが、それは“家を守るため”という大義名分があるからに過ぎません。個人的な感情まで排除しているわけではありませんよ。むしろ、だからこそ私は……」
そこまで言いかけて、セドリックは口をつぐむ。そして、小さく首を振った。
「失礼。あまり余計なことを話すのはよしましょう。あなたにはこれから先、いろいろ迷惑をかけるかもしれませんが、最低限の誠意は示すつもりです。今日の件で、不快な思いをさせてしまったなら謝ります」
「そ、そんな……謝られるほどのことじゃありません。むしろ、私こそ頼もしく感じましたよ」
ルシアーナがそう言うと、セドリックはわずかに微笑みを返し、また夜の闇へ視線を戻す。二人の間には静かな空気が流れ、言葉はなくとも、どこか安らぎのようなものが生まれていた。
それは、不本意な婚約から始まった二人が、わずかに心の距離を縮める一瞬だった。政略という形は変わらないが、それでもお互いに人間として存在を認め合えるかもしれない――そう思わせるだけの温度が、そこには確かにあった。
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翌日以降、ルシアーナは日中、屋敷内で婚礼準備に関わる打ち合わせに追われることになる。会場の候補や招待客のリスト、衣装の選定や式次第など、やるべきことは山積みだ。侍女のアデラとともに業者や使用人と細かい確認をしながら進めていくが、貴族の結婚式だけあって決めることが多すぎる。彼女は疲労を感じながらも、できるだけ主体的に意見を出していく。
そんな中でも、セドリックはやはり仕事で忙しく、日中は屋敷にいないことがほとんどだ。しかも夜遅くに戻ってくるため、顔を合わせる機会は少ない。彼の部屋からは時折、徹夜で書類に目を通しているという噂も聞こえてくる。
そういえば、初対面のときから言っていた。財務や新規事業の交渉などに明け暮れていると。これほど多忙でありながら、なぜわざわざ政略結婚なんて受け入れたのか――そんな疑問がルシアーナの胸中に芽生える。もっとも、本人は「家を守るため」と言っていたし、当主である父や兄にも押し切られた部分があるのかもしれない。
数日後、ようやく一段落してルシアーナが部屋でくつろいでいたとき、扉をノックする音が聞こえた。アデラが対応すると、なんとセドリックが訪ねてきたという。
急いで身繕いを整え、ルシアーナは部屋にセドリックを招き入れる。こんな時間(夜更け)に部屋を訪問されるのは想定外だが、彼は要件があるらしく手に書類を抱えていた。周囲の目を憚り、アデラは少し離れた場所で待機している。
「こんな夜分に申し訳ない。明日、私は王都から少し離れた領地へ出張が入っていて、数日間戻れない。それで、今のうちに結婚式の進捗を聞いておきたかったんです」
そう言って差し出された書類には、式の日程調整や細かい装飾に関する費用概算が書かれている。ルシアーナはその資料を受け取りながら、思わず感心する。これほど多忙にもかかわらず、ちゃんと目を通してくれていたのだ。
「ありがとうございます。おかげで大方の準備はスムーズですわ。衣装は私の方で手配が進んでいますし、あとは会場の飾り付けや招待状の発送ですね。あなたが戻られるまでには、できるだけ形を整えておくつもりです」
ルシアーナが説明すると、セドリックは満足げに頷いた。
「それなら何よりです。急ぎの要件は済んだようですね……失礼します、もう一つだけ聞かせてください」
彼は少しためらうように一瞬だけ目をそらした後、再びルシアーナを見つめた。その瞳には微かな緊張が宿っているように見える。
「あなたは……本当にこの結婚に納得していますか? 表面的には“協力”と言いながら、実際には無理をしているんじゃないかと、気になっていたんです。特に、最近は私がほとんど家にいないので、何か困っていることがあれば今のうちに言ってください」
不意を突かれたルシアーナは、思わず心臓が跳ねるような感覚に襲われた。この数日の間、セドリックはほとんど姿を見せなかったが、その裏で自分のことを気遣ってくれていたのか――そう思うと、不思議な温かさがこみ上げてくる。
だが同時に、そう訊かれると簡単には答えにくい。政略結婚であることに変わりはなく、今でも完全に心の底から「嬉しい」とは言えないからだ。しかし、彼女は正直に答えることを選んだ。
「無理をしていないと言えば嘘になるかもしれません。でも、あなたが私の意見を無視することなく、こうして話を聞いてくれるだけでも救われているんです。今のところは、これ以上望むことはありません。……私の方こそ、あなたに負担をかけていないか気になっています。私たち、まだお互いを探り合っている段階ですものね」
その返事に、セドリックは小さく息をついた。まるで安堵したかのように、肩の力が抜けるのがわかる。
「そうか……なら、よかった。あなたが辛そうにしているのに何もできないのは避けたいですから。家を優先するのは当然ですが、あなたがこの屋敷で自由を感じられないのでは本末転倒ですしね」
その言葉は、政略結婚という枠を超えた“気遣い”のようにも聞こえた。ルシアーナの中で、セドリックへの印象がまた少し変化するのを感じる。彼は決して冷徹なだけの人間ではない。自分の責任をきちんと果たしつつ、相手を思いやる余裕がある――少なくとも今夜のやり取りは、それを裏付けるものだ。
「ありがとうございます。私もあなたの役に立てることがあれば、何でも言ってくださいね。政略結婚とはいえ、“協力関係”なのですから」
ルシアーナが微笑むと、セドリックもまた微かに笑みを返した。まるで「今後ともよろしく頼む」という無言の合意がそこに生まれたかのようだ。
そして、セドリックは書類をまとめると、名残惜しそうに一礼して部屋を後にする。去り際に、彼はほんの少しだけためらいがちに言葉を付け足した。
「数日後に戻る頃には、もう少し時間が取れると思います。そしたら、庭や屋敷の中を案内しますよ。“夫婦”として暮らす可能性のある場所を、きちんと見ておいてほしいので」
そう言い残して出て行く彼の背中を、ルシアーナはしばらく見送っていた。扉が閉じ、足音が遠ざかると同時に、胸に込み上げてくる微かな安堵と期待感を自覚する。政略結婚に過度な期待を寄せるわけにはいかないが、少なくとも彼は彼女を“対等に扱おう”としてくれているようだ。その事実は、ルシアーナにとって大きな救いだった。
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こうしてルシアーナは、シュヴァイツァー侯爵家での日々を重ねるうちに、セドリックの仮面の裏側に潜む“人間らしさ”を少しずつ垣間見るようになった。彼は確かに冷徹な策略家としての一面を持つが、それは家と自身を守るための鎧のようなもの。内心では、家族との確執や責務の重圧に耐えながら、己の立場を全うしようと懸命なのだ――そのことを察したとき、ルシアーナの中で何かが変わり始めているのを感じる。
一方で、アレクシスを始めとする家族や周囲の者たちが、どのような思惑を抱いているかはまだわからない。ベランジェ公爵家も含め、貴族社会では往々にして“表の顔”と“裏の顔”が使い分けられるものだ。セドリック自身も、すべてをルシアーナにさらけ出しているわけではないだろう。
それでも、少なくともこの婚約は単なる道具の押し付け合いにはならない――そう信じるだけの手応えを、ルシアーナは感じ始めていた。仮面の奥で灯る微かな“優しさ”が、やがて二人を結びつける絆へと成長していくのか。それとも新たな陰謀がその芽を摘み取ってしまうのか――それはまだ、神のみぞ知る運命というほかない。
しかし、夜の闇の中でセドリックと交わしたあの言葉、そして彼がちらりと見せた寂しげな横顔は、ルシアーナの胸に深く刻み込まれていた。不本意な縁組であるがゆえに抱いた諦観。それが少しずつ薄れ、“この人をもっと知りたい”という好奇心に変わりつつある。そして、彼の隣にいてあげたい、もし傷ついているなら救ってあげたい――そんな想いが芽生え始めていることに、彼女はまだはっきりとは気づいてはいない。
こうして、静かに二人の距離は縮まりはじめる。
だが、一方でセドリックの実家や兄を巡る不穏な動きも、ゆっくりと姿を現そうとしていた。王国一の財閥を抱えるシュヴァイツァー侯爵家には、多くの者たちが利害を求めて集まり、またその影に潜む敵意も存在する。ルシアーナはまだ、その波乱の渦中に巻き込まれていく未来を知らない。彼女の優しさと強さが、どんな試練に立ち向かい、そしてどんな“ざまぁ”を巻き起こすのか――今はただ、その幕開けに気づかず、薄暗い廊下で灯りを眺めているだけであった。
次の日の朝、セドリックは早くに屋敷を発ち、仕事で王都を離れた。ルシアーナは彼の不在中も結婚式の準備に没頭することになるが、その間にも、着実に何かが変化していく気配を感じていた。屋敷の使用人たちは彼女に対して敬意を払いつつも、どこか不安げな視線を向ける者もいる。彼女がどこまでこの家に溶け込み、やがて“次期夫人”としてやっていけるのか――皆、期待と猜疑心をない交ぜにして観察しているのかもしれない。
「仮面の裏側」を覗き見たルシアーナは、少しずつセドリックに対する見方を改め始める。表向きは冷酷な御曹司であっても、実際には責務と家族の間で苦悩する一人の青年だ。それを知った今、彼女はどう行動を起こすのだろうか。政略結婚という制約の中でも、きっと自分なりの道を模索するはずだ。
そしてこの先、シュヴァイツァー侯爵家とベランジェ公爵家に忍び寄る影――それは、婚約者である二人を巻き込む波乱の予感をはらんでいる。
まだ始まったばかりの、仮面越しの交流。そこに芽生えた一筋の温もりが、やがて大きく花開くのか、あるいは誰かの陰謀によって摘み取られてしまうのか。物語は、さらに深く、甘く、そして激しく動き出そうとしているのだった。