セドリックが王都から離れた領地へ出張してから数日が経った。もともと彼は仕事柄、貴族同士の会合や商会の視察などで頻繁に屋敷を留守にするとは聞いていたが、ここまで長く不在になるのは初めてだ。
ルシアーナは与えられた客室で、婚礼準備の書類をまとめていた。招待状の発送状況や式場の飾り付けに関する打ち合わせメモなど、確認すべきことは山ほどある。彼女自身はなるべく自分で方針を決め、決断していこうとしていた。なぜなら、セドリックが戻ってきたときに「あなたがいない間もきちんと進めました」と胸を張れるようにしておきたかったからだ。
ところが、その作業も午後には一段落し、夕方の早い時間に小休止を取ることにした。侍女のアデラとともに廊下を歩きながら、改めてシュヴァイツァー侯爵家の広さに感心する。どこもかしこも手入れが行き届き、豪華でありながら整然とした印象を受ける。
けれど、気のせいか、先日まではどこか遠巻きだった使用人たちが、最近になってルシアーナに対してより丁寧に接してくれるようになった気がする。まるで「次の夫人として認めるべきかもしれない」と感じ始めたのか、それとも何らかの指示があったのか――そこまではわからない。しかし彼女としては、好意的に扱われるのは悪い気分ではなかった。
「ルシアーナ様、少し中庭にでも出てみませんか? 今日はお天気もよくて気持ちがいいですよ」
アデラの誘いに、ルシアーナは頷いた。屋敷の中ばかりだと気が詰まるので、外の空気を吸ってリフレッシュしたいという思いもある。中庭は客人や使用人たちの憩いの場にもなっており、噴水や小さな花壇が彩りを添えている。
そっと扉を開けて庭へ足を踏み出すと、緩やかな風が髪を揺らし、花の香りがふわりと鼻をくすぐった。やわらかな日差しが石畳を照らし、初夏の穏やかな気配を感じさせる。こんなとき、もしセドリックがいてくれたら、どんな風に声をかけるのだろう――そんな想像が頭をよぎり、ルシアーナはかすかな恥じらいを覚えた。
「……少し、変わってきたのかもしれないわね、私」
心の中でつぶやく。以前の自分ならば、政略結婚の相手など興味を抱くまいとすら思っていた。それが今では、彼の帰りを待ち遠しく感じてしまう。この変化はなんだろう。もはや“協力関係”というだけでは説明のつかない、小さな感情の芽生えかもしれない。
しかし、その微笑ましい思考は突然、割り込む声によって中断された。
「……ルシアーナ嬢、少しお時間をいただけますかな?」
振り返ると、そこにはセドリックの兄アレクシスが立っていた。軍人の制服姿ではなく、淡い茶色の詰襟の貴族服に身を包んでいる。前回、夕食の場で皮肉とも挑発とも取れる態度を取られた手前、ルシアーナはやや警戒心を抱く。アデラもまた目を細め、無言のうちにルシアーナの後ろへ控えるように立った。
アレクシスは軽く微笑む。相変わらず人当たりは良さそうだが、底の見えない雰囲気がある。どこまで本気で笑っているのか、測りにくい。
「セドリックが留守だと聞いていますが、あなたが屋敷を取り仕切っているのかな? 婚礼の準備は順調かい?」
「ええ、おかげさまで……大きな問題もなく進んでおります」
ルシアーナはなるべく丁寧な口調で答える。アレクシスは興味深げに頷いた。
「そうか、それは結構なことだ。先日は夕食の場で、余計なことを言ってしまってね。あなたには悪いことをした。政略結婚と言えば聞こえは悪いが、本人同士がうまくやれるならそれでいい。……もっとも、セドリックがどう考えているかはわからないけど」
ちらりとこちらを伺うような視線に、ルシアーナは少し息苦しさを覚える。アレクシスの言う“どう考えているかはわからない”という言葉には、どこか含みがあるように感じられた。それは「本当にセドリックはあなたを必要としているのか?」という問いにも聞こえるし、「セドリックが何か企んでいる可能性はないのか?」という暗示にも思える。
だが、ルシアーナは動揺を見せず、小さく微笑む。
「セドリック様は、家を守ることを常に考えておられます。それは私にとっても同じこと。家同士の結びつきが互いの利益となるのは当然ですし、私もそれに協力する意志がありますから、そこに特別な不満はありません」
当たり障りのない返答だったが、アレクシスは変わらず笑みを浮かべて言葉を続けた。
「なるほど……。まあ、君の言うとおりだ。ところで、最近ベランジェ公爵家の方では面白い噂を耳にしてね。ベランジェ公爵――君の父親が、どうやら何か新しい事業に手を出そうとしているらしい。軍需物資の納入ルートを抑えたいのか、あるいは宮廷での地位を強化したいのか……そこまではわからないが」
不意に、ルシアーナの胸がざわつく。父にはもともと政治への関与を強めたいという野心がある。それは聞いていたが、具体的にどう動いているかは知らされていない。もしかすると、今回の結婚を機にシュヴァイツァー家の財力を利用しようとしているのかもしれない――そう考えると、少なからぬ不安が込み上げてくる。
「父が……何を企んでいるか、私には分かりかねます。けれど、もしそれがシュヴァイツァー侯爵家に不利益をもたらすようなことならば、私は看過できません。あなたがその噂を信じているのでしたら、具体的に何か証拠があるのですか?」
ルシアーナの問いかけに、アレクシスは肩をすくめた。
「証拠なんてないよ。ただ、貴族社会で“噂”というのは意外と馬鹿にならなくてね。火のないところに煙は立たないものさ。ま、君が気にすることではないのかもしれないが……。ただ、セドリックはこれまで何度も父上や私に勝る成果を上げてきた。それを面白く思わない者たちがいるのも確かだ」
その言葉は、暗にシュヴァイツァー家の中だけでなく、外部――つまり他の貴族や商人たちまでがセドリックの足を引っ張る可能性があることを示唆しているように思われる。もしかすると、ベランジェ公爵がその一端を担っていると疑われているのかもしれない。
ルシアーナは胸の内で葛藤を覚える。父が本当にシュヴァイツァー家を利用しようとしているなら、自分はいずれ難しい立場に追い込まれるだろう。婚約者として夫側の利益を守りたい思いと、生まれ育った家に対する義理がせめぎ合う。
そんな彼女の気配を察したのか、アレクシスは柔らかな口調で続けた。
「まあ、さっきも言ったが、君たち二人がうまくやっていければ、それでいい。セドリックが戻ったら、彼にもその話をしてみるといいさ。それをどう捌くかは彼の勝手だけど……。じゃあ、僕は用があるから失礼するよ」
そう言い残して、アレクシスは軽やかに踵を返した。その去り際の笑みには、何とも言えない底意地の悪さ――もしくは“楽しんでいる”ような色が見え隠れしている。彼の言動には常に曖昧な余白があって、はっきりと敵か味方かを判別できない。
アレクシスの姿が見えなくなった後、アデラが心配そうに声をかけた。
「ルシアーナ様……大丈夫ですか? セドリック様のいないところで、あのようなことを言われては不安になりますよね」
ルシアーナは軽く息を吐き、無理に笑みを作る。
「ええ、大丈夫。気にしないようにするわ。たとえ父が何を企んでいても、私は私。セドリック様との結婚は、一人の人間としての選択でもあるもの」
その言葉は、半分は自分に言い聞かせるようなものだった。父が裏で画策している可能性を完全には否定できない。だが、だからこそ自分はセドリックのそばで真実を見極めたい――ルシアーナはそう決意を新たにした。
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さらに数日が過ぎ、セドリックの帰還が近いと聞かされるころ、ある異変が起きた。
ルシアーナがアデラと夜遅くまで明かりをともして書類整理をしていた折、廊下から何やら騒がしい声が聞こえてきたのだ。聞き慣れた使用人たちの声ではない――荒々しく、低い怒声のように思える。続いて、がたんという衝撃音が響いた。
アデラと顔を見合わせたルシアーナは、急いで扉を開ける。すると、屋敷の奥の方で燭台が倒れたのか、明かりが揺れて床に散乱しているのが目に入った。何人かの使用人が慌てて駆け寄り、消火しようと手を動かしている。煙がわずかに立ち上り、その向こうに屈強な男が二人、使用人を突き飛ばすようにしているのが見えた。
「な、何事ですか……?」
ルシアーナが思わず声を上げると、その男たち――どうやら門番ではない、“外部”のならず者のように見える――がこちらに気づいて振り返った。目つきが鋭く、ボサボサの髪と埃まみれの服装。正規の客ではないことは一目瞭然だ。
彼らが何を目的に屋敷に侵入したのかはわからない。ただの盗賊か、それとも何らかの指示を受けた刺客か。いずれにしても、彼女がここにいるのは危険だと直感した。アデラを含め、周囲に護衛や騎士の姿が見当たらないのも不安を煽る。
そのとき、背後の廊下から新たな人影が現れた。大柄な体格で、軍人のように背筋を伸ばしている。アレクシス……ではない。見覚えのない、しかし明らかに“慣れた”動きをする男だ。薄暗い明かりの中で、男はすっと剣を抜き放ち、ならず者たちに向かって一喝した。
「そこまでだ。シュヴァイツァー侯爵家の屋敷で暴れるなど、命が惜しくないのか」
男たちは途端に警戒した様子を見せるが、怯む様子もない。むしろ、片方の男は狂気じみた笑みを浮かべて刃物をちらつかせる。
「へっ、こちとら誰の屋敷だろうが関係ねえ。金目のもんを置いて、さっさと道を開けな!」
怒声が飛び交い、使用人たちが悲鳴を上げる。ルシアーナも思わず身をすくめたが、そのとき胸の奥で奇妙な違和感が芽生えた。ただの盗賊にしては、行動が粗雑すぎる。それに、どうしてこんな深夜に堂々と屋敷へ押し入れたのか。警備が薄い時間を狙ったにしても、あまりに無謀だ。
一瞬、頭をよぎるのは“陽動”という言葉だ。もしかすると、屋敷の混乱を起こすことで何か別の目的があるのではないか――。
それでも、今は逃げるしかない。アデラを守るためにも、危険に巻き込まれるわけにはいかない。ルシアーナは廊下の隅に身を寄せ、なんとか退避できる道を探す。しかし、足がすくんで思うように動けない。周囲も混乱のあまり悲鳴や怒声に包まれている。
「ルシアーナ様、こちらへ……!」
アデラが手招きしている。その先には、別の階段へ続く小さな扉があった。普段は使用人たちが使う裏階段だ。そこを下りれば、屋敷の別翼へ抜けられるかもしれない。ルシアーナは思い切ってアデラの腕を取り、二人で扉に飛び込んだ。
しかし、そのとき床板がぎしりと音を立てる。視界の端に、“ならず者”の一人がこちらへ向かって走り出す姿が見えた。金目のものを求めるはずなのに、なぜか一直線にこちらを狙ってきている。その速度や剣の構え方は、どう見ても素人ではない。やはりこれは陽動ではなく“本命”がルシアーナだったのでは――そんな不安が頭をかすめる。
逃げ切れるか――恐怖が全身を走る。扉を開けかけたアデラをかばうようにして、ルシアーナは男の動きを凝視する。逃げるのが先か、それとも使用人たちが助けてくれるのか。頭の中でいくつもの可能性を考えているうちに、男は驚くほどの勢いで距離を詰めてきた。
「っ……誰か、助けて――!」
思わず声を上げたとき、背後の廊下から別の人影が飛び出した。振り返ると、それは先ほどの大柄な男だ。彼もまた剣を握りしめ、見事な立ち回りで間に割り込むと、刃同士が激しくぶつかり合う甲高い音が鳴り響いた。
「させるものか……!」
男の力強い声が廊下にこだまする。ならず者の一人は、その衝撃にたまらず大きく後退した。ルシアーナは一瞬チャンスを感じ、アデラと共に裏階段へ滑り込む。階段を数段下りたところで振り返ると、さきほどの大柄な男が必死に相手を食い止めていた。彼は何者なのか。警備の兵士とも違うような装いだが、腕は確かそうだ。
痛烈な剣戟(けんげき)の音が響き、男たちの怒声が混ざり合い、まるで戦場のような混沌が屋敷内に広がっていく。逃げようにも、別の道はあるのだろうか――そんな迷いが渦巻く中、アデラが小声で言った。
「ルシアーナ様、今のうちに遠くへ……! 安全な部屋へ戻りましょう。すぐに護衛の者や兵士が駆けつけてくれるはずです!」
その提案に頷きつつも、ルシアーナは別の不安を抱いていた。もしこの乱闘が単なる盗賊の仕業なら、いずれ制圧できるだろう。だが、仮に狙いが彼女自身であるなら、安全な部屋などどこにもないかもしれない。セドリックがいない今、いったい誰が自分を守ってくれるのか――そんな思いが頭をよぎる。
しかし、とりあえずは危険を遠ざけることが先決だ。二人は階段を下り、脇道を通って屋敷の奥へと急いだ。走るうちに、胸は高鳴り、息は荒くなる。上品に振る舞う余裕など微塵もない。ようやく鍵のかかる一室へ駆け込み、扉を閉めて錠を下ろすと、どっと力が抜けたように身体が震え始める。
「ルシアーナ様、大丈夫ですか……?」
アデラが心配そうに背中をさする。ルシアーナはなんとか息を整えながら、部屋の暗がりに目を凝らす。ここは普段は使われていない客間の一つで、家具が少なく、壁際に大きな箪笥だけが置かれている。窓も小さめで、外へ逃げ出せそうにはない。ただ、一度隠れて息を潜めるには最適かもしれない。
外からは、まだかすかに怒鳴り声や物音が聞こえる。使用人たちが必死に応対しているのだろうか。あるいは、あの大柄な男が戦っているのか。セドリックの不在を狙って襲撃してきたとしたら、これは何者かの計画によるものなのか――どんどん不安が膨らむ中、ルシアーナは自分の立場を再認識する。
私は“ベランジェ公爵家”の娘で、近々“シュヴァイツァー侯爵家”の嫁になる身。つまり、この結婚によって最も利益を得るのは両家だ。だが逆に言えば、両家に恨みを抱く者もいるかもしれない。あるいはベランジェ公爵自身が、今の時期にこちらの家を揺さぶる何かを仕掛けた可能性すらゼロではない――想像はどこまでも広がり、胸の苦しさが募る。
「こんなとき……セドリック様がいてくれたら」
思わず口をついて出たその言葉に、ルシアーナは切なさを覚える。少し前まで、自分は彼との結婚など望んでいないと思っていたのに、いま無性に彼の存在を頼りにしている自分がいるのだ。
そのとき、扉の外で微かな足音が聞こえた。足音が止まり、扉の前で誰かが佇んでいる気配がする。喉がひりつくように緊張が走る。アデラも息を止め、ルシアーナの腕をぎゅっと握った。
扉の向こうの人影は、どうやら手探りで扉の取っ手を押しているらしい。かちゃかちゃと錠が試される音がするが、鍵がかかっているので開かない。すると、低い声が漏れた。
「……誰か中にいるのか? もし聞こえるなら、開けてくれ」
その声は意外にも落ち着いていた。そして聞き覚えのないものではない。ルシアーナは小さく息を呑み、アデラと目を見交わす。もしかして、さっき助太刀していたあの大柄な男だろうか。
しばらく迷ったが、周囲が落ち着いてきた気配もあり、ルシアーナは意を決して扉越しに声をかけた。
「あなたは……どなたですか? さっき襲撃者と戦っていた方、ですか?」
「そうだ。名乗りが遅れてすまない。俺はガウェイン。セドリック様の命で、しばらくこの屋敷を警護するように言われていた者だ。お嬢様の安全を確保したい」
ガウェイン――初耳の名だ。騎士のような雰囲気があるが、屋敷の正式な護衛というわけではなさそうだ。おそらくセドリックが個人的に雇っている、あるいは信頼を置いている傭兵か何かだろうか。
ルシアーナは心臓の鼓動が少し落ち着いてきたのを感じる。もし彼が本当にセドリックの手の者なら、信頼してもいいのかもしれない。とりあえずドアを少しだけ開けて様子を窺うと、そこには血のにじんだ剣を持った屈強な男が立っていた。荒くれ者の雰囲気はあるが、その表情には敵意や狂気は感じられず、むしろ真剣さが窺える。
「……分かりました。今は落ち着いているのですか?」
ルシアーナが問うと、ガウェインは頷いた。
「一応、数名で取り押さえた。相手は腕っ節が強いが、なんというか……盗賊にしては動きが違う。何か裏があるだろう。俺も詳しくは知らないが、セドリック様から“いずれ屋敷が狙われる可能性がある”と聞いていて、万が一に備えて待機していたんだ」
やはり――ルシアーナは胸の奥で思う。セドリックは自分の不在中に、何らかの襲撃や陰謀が起こり得ると読んでいたのか。彼の“冷徹な戦略家”としての一面が、こうした危機管理にも現れているのだろう。
ガウェインは一呼吸置いて続けた。
「申し訳ないが、屋敷の奥で動き回られるのは危険だ。もう少し状況が落ち着くまで、俺が護衛するから部屋に留まっていてほしい。仲間が増援を呼んでいるはずだから、そう遠くないうちに安全になると思う」
「わかりました。ありがとうございます」
ルシアーナは扉を再び閉め、今度は一転してホッと息をついた。少なくとも、敵ではない“味方”がいる。アデラも同じように安堵している様子だ。
そのまま部屋の中で待機していると、数十分ほどで屋敷の騎士団が駆けつけ、襲撃者たちを完全に取り押さえたとの連絡が入る。二人はガウェインの案内に従って廊下へ出ると、そこには焦げ臭い臭いが漂い、壁際には転倒して壊れた壺や割れたランプなどが散乱していた。まるで嵐の後のような惨状だ。
何人かの使用人や護衛が負傷したものの、命に別状はないという。襲撃者たちは捕えられ、騎士団が尋問を進めることになった。しかし、彼らが“どこの指示”で動いていたのか、ただの盗賊なのか、それとも裏に雇い主がいるのか――真相はまだ明らかになっていない。
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その翌日の朝、ルシアーナはアデラの助けで身支度を整え、少し離れた客間に通された。そこにはアレクシスとガウェインが待機しており、屋敷を取り仕切る代理として、今回の事件の経緯をまとめようとしているようだ。アレクシスは相変わらず薄笑いを浮かべているが、その目にはいつもとは違う警戒と苛立ちが混在して見える。
「ルシアーナ嬢、昨夜は災難だったね。君に怪我がなくて何よりだ」
そう言われ、ルシアーナは複雑な思いを押し隠す。アレクシスがどこまで本気で心配しているのか、判断がつかない。だが、礼儀として頭を下げて感謝を述べる。
「ご配慮ありがとうございます。幸い、ガウェイン様のおかげで助かりました。ところで……あの者たちは、まだ何も吐かないのですか?」
アレクシスは手にしていた書類を机に置いて、ため息交じりに答える。
「ええ、黙秘している。盗賊のような風体だが、明らかに何らかの訓練を受けている痕跡がある。もしかすると、“誰か”が裏で糸を引いているかもしれないね。いま騎士団が厳しく取り調べている最中だ」
その“誰か”とは誰なのだろうか――ルシアーナは胸の奥で冷たいものを感じる。ベランジェ公爵家が関わっている可能性も、今の時点では否定しきれない。あるいはセドリックのビジネス上のライバルが報復に出たとも考えられるし、王国の政治に絡んでいるかもしれない。
そんな考えに耽(ふ)けっていると、アレクシスが微笑を深める。
「セドリックが帰還するのは、もう間もなくと聞いている。彼が戻ったら、また詳しく調べるといいさ。……君も疲れただろうから、しばらくは部屋で休んでいるといい」
形式上の優しさを示すアレクシスに、ルシアーナは「ありがとうございます」とうなずくが、どことなく居心地の悪さを覚える。アレクシスは何を考えているのか。まるで“これでセドリックがどう動くか楽しみにしている”と言わんばかりの、含みのある態度だ。
一方、ガウェインは黙ったままルシアーナを見やり、軽く頭を下げる。彼には昨夜の命を懸けた助けがあったからこそ、今こうして無事でいられるのだと思うと、素直な感謝が込み上げてくる。だが、彼がセドリックとどのような関係なのかは、まだ聞けていない。
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事件からさらに一日置いて、ついにセドリックが屋敷に戻ってきたという報せが届いた。昼下がり、玄関ホールには騎士や使用人たちがずらりと並び、彼の帰還を出迎える。ルシアーナもまた、軽く緊張しながらその列の一角に加わった。
大きな扉が開き、セドリックが姿を見せる。いつもと変わらぬ端整な姿――しかし、その瞳には明確な怒りの色が宿っていた。戻るなり騎士団長やガウェインと言葉を交わし、手短に状況を把握すると、真っ先にルシアーナのところへやってきた。
その瞬間、彼の瞳がわずかに安堵の色へ変わったのを、ルシアーナは見逃さなかった。
「無事でよかった。すぐに戻れず、すまなかった」
そう言われ、ルシアーナは胸がいっぱいになる。昨夜の恐怖が、一気に溶け出すような気がした。彼の表情にわずかでも自分を気遣う感情が見えると、安心のあまり涙さえ浮かびそうになる。だが、必死でこらえて口を開いた。
「いえ、私の方こそ……危うく巻き込まれそうになりましたが、ガウェイン様や屋敷の方々が守ってくれました。あなたが、もしものときのために警護を手配していてくださったのですね?」
セドリックは微かに頷く。
「そうだ。以前から、屋敷の警備体制に不備があると思っていた。父やアレクシスは“無用な警戒だ”と言っていたが、どうも嫌な胸騒ぎがしていたから、信頼できる者を数名だけ配置しておいたんだ。幸いにして彼らが動けたようで何よりだ」
相変わらず彼の言葉はクールだが、その目には“守れたこと”に対する安堵が混じっている。ルシアーナは思わず「ありがとうございます」と頭を下げる。
だが、すぐにセドリックの表情が険しくなる。彼は低い声で言った。
「しかし、こんな形で襲撃があった以上、もう事態は深刻だ。単なる盗賊の仕業とは思えない。誰かが裏で糸を引いている可能性は高い。それを突き止めなければ、君や家の者たちの安全も保証できないからな」
その声音には、はっきりとした怒りと決意が宿っている。屋敷を守るため、そして婚約者であるルシアーナを危険から遠ざけるため――セドリックはあらゆる手を尽くすつもりだろう。
同時に、ルシアーナは思わず父の姿を思い浮かべる。もし本当にベランジェ公爵が何か裏で動いているとしたら――彼が直接関わっていなくとも、別の貴族と結託している可能性もある。あるいは、まったく別の敵対勢力かもしれない。疑い出すときりがないが、これまでの“ただの政略結婚”という認識が大きく揺らいでいくのを感じる。
彼女はセドリックを見つめ、思い切って口を開いた。
「セドリック様、私にできることがあれば協力します。私……この結婚を、こんな陰謀に振り回されるままにはしたくないんです」
決して大きな声ではなかったが、その言葉には確かな意志がこもっていた。セドリックは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに真剣な面持ちで応じる。
「ありがとう。君がそう言ってくれるなら心強い。家を守るためにも、まずはこの襲撃の正体を突き止めないといけない。手を貸してくれ」
政略結婚とはいえ、二人はここに来て初めて“共通の目的”を意識し始めた気がする。ルシアーナは胸の奥に生じる熱を覚えながら、はっきりと頷いた。セドリックもまた、その答えを信頼と受け止めたように微かに微笑む。
そう、これはただの婚礼準備や家同士の取引では終わらない。二人は今、暗い陰謀の只中に立たされている。愛がどうとか、まだ分からない。けれど、少なくともルシアーナは“彼と力を合わせたい”と思っているし、セドリックもまた、“彼女を守る”と心に決めている。その互いの意思こそが、今後訪れる試練への唯一の拠り所になるかもしれない。
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こうして襲撃事件をきっかけに、ルシアーナは家同士の陰謀と試練に巻き込まれることになる。セドリックは彼女を守りつつ、事件の裏を探るために動き出すが、そこには兄アレクシスの思惑や、ベランジェ公爵家の不可解な動き、さらには王国の権力争いなど、さまざまな絡み合いが浮かび上がり始めていた。
一方で、夜毎に思い出すのは、暗い廊下で感じた恐怖と、そのとき募った「セドリックがそばにいてくれたら」という思い。政略結婚という言葉で割り切れるほど、二人の関係は単純ではなくなり始めている。そして、これから起こるさらなる波乱が、二人を試し、また“ざまぁ”の遠因となっていくことを、当の本人たちはまだ知らない。
それでも、ルシアーナの中には確かな決意があった。どれほど厳しい嵐が襲いかかろうと、もう以前のようにただ黙って流されるだけの存在ではいられない。セドリックと共に真実を探り出し、自分の手で幸せを掴むために――不本意な婚約から始まった物語は、今や甘さだけでなく、苛烈な陰謀と試練を伴いながら加速していこうとしていた。
やがて訪れる大きな転機と、そこに潜む敵対者たち。二人が真に“夫婦”として絆を築くには、まだ多くの障害を乗り越えなければならない。それでも心に芽生えた小さな想いが、嵐の中を照らす一筋の光となることを、ルシアーナは願わずにはいられないのだった。