襲撃事件から半月ほどが経った。シュヴァイツァー侯爵家にはまだ不穏な空気が残っていたが、セドリックの徹底した調査と指揮によって、屋敷の警備は以前より格段に強化されている。襲撃者たちは王国騎士団のもとで厳しい尋問を受けたものの、依然として黒幕の名を明かそうとはしなかった。しかし、捜査を進めていく中で、いくつかの“手掛かり”が浮上したのだ。
その手掛かりを元に、セドリックは独自の情報網を駆使して動き出す。王都の裏社会にもパイプを持つ彼は、ひそかに手足を伸ばし、ベランジェ公爵家をはじめとする貴族たちの動向を探っていく。
ルシアーナはその過程をそばで見守りながら、複雑な思いを抱き続けていた。もしこの事件に、自分の父――ベランジェ公爵が深く関わっていたら。それは政略結婚の根幹を揺るがすばかりか、セドリックと自分の間に取り返しのつかない亀裂を生むかもしれない。
それでも、彼女は覚悟を決めた。何があってもセドリックの味方でいる、と。もはや自分の幸せを父親の手に委ねるつもりはなかった。セドリックとともに掴む未来こそ、彼女にとっての“本意”なのだ。
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1.兄アレクシスの陰謀
ある夕刻、セドリックはようやく屋敷に戻ってきた。忙しい日々が続いていたにもかかわらず、扉を開けて真っ先にルシアーナを探し、安否を確かめる姿は、まるで彼女を宝物のように思っている証拠だった。
ルシアーナは客間から廊下へ出て、彼の姿を認めるとほっとした表情を浮かべる。
「おかえりなさいませ、セドリック様。お疲れでしょう。少しお休みになっては……?」
しかし、セドリックの顔には深い疲労と、そして強い決意が読み取れた。彼は人払いをし、ルシアーナと二人きりになったところで、低い声で切り出す。
「実は、兄アレクシスの動向を追っていたところ、気になる事実がいくつか判明した。彼は軍の遠征資金を“ある筋”から融通してもらっているらしい。その“ある筋”の一部に、ベランジェ公爵が絡んでいる可能性が高い」
その言葉に、ルシアーナは小さく息を飲む。やはり父の名が出てくるのか。しかも、軍の遠征資金といえば、王国の戦力や利権に深くかかわる重要な案件だ。もしそこに不正があれば、国家を揺るがすスキャンダルに発展しかねない。
「アレクシス様と……父が? それで、何を企んでいるのでしょう」
「わからない。おそらくは、軍の派閥争いと商会の利権拡大が複雑に絡んでいるんだろう。アレクシスは軍で自分の権限を強化しようとしているし、お前の父上はそれを利用して王国への発言力を高めたいと踏んでいるのかもしれない。問題は、その資金の一部が闇の組織を通して不正に集められている節があることだ。今回の襲撃者たちも、あのルートを辿って送り込まれた可能性がある」
セドリックの口調からは、怒りがにじみ出ている。自分の家だけでなく、いずれ王国そのものに波紋が広がりかねない案件だ。さらに、彼の頭には疑問が浮かんでいた。――“兄アレクシスは、何のために自分の足を引っ張るようなまねをするのか”。
政略結婚によってシュヴァイツァー侯爵家とベランジェ公爵家の力関係は強化される。アレクシスが得をする部分もあるはずだが、むしろ彼はセドリックに対して皮肉や挑発を繰り返し、その背後でこそこそと暗躍している。もしかすると、アレクシスなりに別の大きな目的があるのか――そんな不安がセドリックを苛んでいた。
ルシアーナは彼の拳が固く握りしめられているのに気づき、そっとその手に触れる。
「大丈夫です。私も、できる範囲で協力します。……もし父が絡んでいるとしても、私はセドリック様を裏切りません」
その言葉に、セドリックの瞳にわずかな安堵が宿る。彼は黙って微笑み、ルシアーナの手を握り返した。いつもはクールな彼が、こんなにも素直に感情を示してくれることが、ルシアーナにとっては大きな救いだった。
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2.対立する父と娘
翌週、ルシアーナのもとへ突然、ベランジェ公爵から手紙が届いた。内容は「近日中に帰郷せよ」という強い口調での命令だ。まるで、シュヴァイツァー侯爵家で婚礼準備を進める彼女の行動に口出しするかのように、期日まで指定してある。
これまで、結婚のために“正式に滞在”している以上、娘を呼び戻すなど本来あまり考えられない。しかし、ルシアーナは不審に思いながらも、父が何を狙っているのかを確かめるべく、セドリックに相談したうえで渋々実家へ戻ることにした。もちろん、屋敷の警護やガウェインの同行も取り決められ、セドリック自身もそれを容認した。
「俺も一緒に行ければいいんだが、まだこちらで片付けねばならない用事がある。だが、すぐに合流するつもりだ。もし父上と兄上が何か動くようなら、一報をくれ」
別れ際、セドリックはルシアーナの手にそっとキスを落とす。以前ならば信じられないほど自然な所作だったが、今はむしろそれが頼もしく、そして甘い。ルシアーナの胸はきゅっと締めつけられるような切なさと期待に包まれた。
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ベランジェ公爵家へ戻ると、そこは以前にも増して張りつめた雰囲気が漂っていた。使用人たちはルシアーナを敬うというよりも、どこか突き放すような態度を見せる。母は顔を合わせるや否や「あなたったら、まだ結婚前なのに浮ついているのではありませんか」と冷ややかに皮肉を口にした。
そして父である公爵は、応接間で彼女を待ち構えていた。厳めしい眼差しのまま、慇懃にも椅子を勧めるが、その声には怒りが混じっている。
「ルシアーナ、お前は私の言いつけも守らず、シュヴァイツァー侯爵家に取り込まれるように滞在を続けたな。……一体どういうつもりだ?」
まるで娘が裏切りでもしたかのような叱責。ルシアーナは動じず、静かに返す。
「婚礼前の準備や、今後の生活のことを話し合うためです。そもそも、この結婚は父上が決めたものではありませんか。私がシュヴァイツァー侯爵家に滞在することに、何の問題があるのでしょう」
公爵の眉がさらに吊り上がる。
「確かに婚約は私が決めた。しかし、あの男――セドリックがやり方を誤れば、我が家も危うくなる。事業の拡大を盾に、我がベランジェ公爵家を飲み込むつもりかもしれんのだぞ。もう少し慎重に動くべきだったのだ」
言葉の節々に、シュヴァイツァー侯爵家への警戒心がにじむ。だが、本当にそれだけが理由なのだろうか。ルシアーナは父を見据え、苦い思いを押し込めたまま切り出す。
「父上は、シュヴァイツァー家と協力して権力を強めたいのではなかったのですか? 私はその意志に従って、ずっと“貴族令嬢としての務め”を果たしているつもりです。……むしろ、父上こそ何をお考えですか?」
公爵の顔に、一瞬の動揺が走る。だが、それはすぐに怒りへと変わった。
「お前には関係のないことだ。私がどう動こうと勝手だろう。お前はただ、結婚相手として相手方に恥をかかせないよう振る舞えばいい。……あれこれと詮索するな」
まさに“娘は道具”とでも言わんばかりの態度に、ルシアーナの胸は痛む。確かに昔から、父はこうだった。家の存続と権力の拡大こそがすべて。それ以外の価値など眼中にない。そして、この政略結婚もまた、ベランジェ公爵家の打算が大きく関わっている。
それでも、ルシアーナには譲れない思いがある。セドリックと築きつつある関係は、単なる道具の押し付け合いではないと信じたい。彼との未来を、父の思惑だけで台無しにさせるつもりはなかった。
「……わかりました。父上の意図は、聞かないことにします。ただ、私は決してシュヴァイツァー侯爵家を害するようなことに加担しません。それだけは、お伝えしておきます」
ぴしゃりと言い放つと、公爵は激高してテーブルを拳で打った。
「ルシアーナ、お前……! ならば、いざというときに“ベランジェ公爵家の娘”として身を捧げることができなくなるぞ!」
「ええ、たとえそうなっても、私はセドリック様のそばに立つことを選びます。もう昔のように、ただ父上の言うがままにはなりません」
ルシアーナの声には、不思議なほどの落ち着きと決意が宿っていた。その瞳を見て、公爵も母も、何も言い返せなくなる。まるで娘ではなく、一人の毅然とした“公爵令嬢”がそこに立っているようだった。
こうして彼女は実家を後にし、シュヴァイツァー侯爵家へ戻ることを決める。多少の抵抗はあったが、父も最後は黙って見送らざるを得なかった。ルシアーナは、ベランジェ公爵家という柵を捨てる覚悟すら秘めている――その気迫が、周囲を圧倒していた。
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3.謀略の果て、そして暴かれる真実
ルシアーナが屋敷へ戻ってから数日後、セドリックはアレクシスとの直接対峙を試みた。蓄えた証拠や情報を携え、王城に併設された軍の執務室へ赴いたのだ。アレクシスは彼が来ると知るや、余裕の笑みを浮かべて迎える。
「わざわざご苦労なことだね、セドリック。……僕に何か用かい?」
「兄上、単刀直入に言います。あなたが闇資金を使って遠征の派閥を牛耳ろうとしていると聞いたが、事実ですか?」
セドリックの問いかけに、アレクシスは一度あっけらかんと笑う。しかし、その瞳はまるで蛇のように冷たい。
「事実だとして、どうする? 僕は軍人だ。軍を強化することは、国のためになるし、父上の望む家名の誇りにも繋がる。それを成功させるための資金なら、手段を選ぶ必要はないと思ってね」
「手段を選ばない――その結果、シュヴァイツァー家やベランジェ公爵家を巻き込み、挙句の果てにはルシアーナ嬢を狙う刺客まで送り込んだ。それだけは絶対に許せない」
セドリックの声に怒気がこもる。しかし、アレクシスは悪びれる様子もなく肩をすくめる。
「実際に手を下したのは僕じゃない。君が勝手にそう決めつけているだけさ。……ただ、僕の“協力者”が暴走した結果かもしれないね。君がいつも目覚ましい成果を上げ、“完璧”であることへの反発かも。羨望は嫉妬に変わるというだろう?」
嫌味たっぷりの口調に、セドリックの眉間がピクリと動く。彼はぐっと感情を抑え込み、さらに問いを突きつけた。
「なぜ、そこまでして私の足を引っ張る? あなたにもメリットはあるはずだ。家と家が結びつけば、軍との連携も強まる。わざわざ敵対する必要などないじゃないか」
するとアレクシスの笑みが消え、瞳に暗い炎が宿る。
「……君は理解していない。僕はいつも家の“次男”――いや、“長男”として扱われるべきなのに、父上も周囲も“セドリックはすごい”としか言わない。僕は軍で地位を得ても、“侯爵家を支えているのはセドリックだ”と陰口を叩かれ続けた。
だからこそ、ベランジェ公爵家との結婚でさらに権力を握ろうとする君を放っておくわけにはいかなかったんだよ。君が完璧であればあるほど、僕が色褪せて見える。だから崩したかった。そう思ったら……こんなこと、造作もない」
ほとばしる劣等感がむき出しになった言葉に、セドリックは何も返せない。その間にも、アレクシスは嘲るような笑みを再び浮かべる。
「さて、そろそろお開きだ。僕を止めたいなら、僕が握っている軍の派閥をどうにかしてみせるんだね。それができないなら、君もルシアーナ嬢も、この先どうなるかわからないよ」
それはあからさまな脅迫だった。けれど、セドリックは逃げなかった。
「……いいでしょう。ならば兄上、自らその地位を明け渡すように。あなたの不正の証拠は手元にあります。もしこれを王宮に提出すれば、あなたは軍を追われることになる」
アレクシスはわずかに顔をしかめるが、すぐに自信ありげに笑う。
「おや、僕がこれまで築いた人脈がそう簡単に崩されると思う? 証拠だって、本当に決定的なものかな?」
無言の駆け引きがしばし続いた。最終的に、二人はその場で決着をつけるには至らず、互いに不穏な火花を散らしたまま別れる。セドリックはアレクシスを糾弾する最後の“切り札”を得るべく、さらに追及を進めなければならない。
一方、アレクシスはベランジェ公爵家との連携を強化し、暗躍を続ける可能性がある。その先には、ルシアーナへの再度の危険が及ぶかもしれない――セドリックは焦燥を抱えつつも、なんとか事態を好転させる方法を模索し始める。
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4.ざまぁ──そして溺愛の果てへ
そんな中、追い風となる出来事が起こる。王国の要職を勤める高官が、ベランジェ公爵家が闇資金ルートに関与している可能性を示唆する書簡を、匿名で王宮に送付したのだ。まだ裏付けは不十分とはいえ、これがきっかけで王宮は軍の不正資金ルートを厳しく調査し始める。
同時期に、シュヴァイツァー侯爵家の商会に所属する会計士が、アレクシスとベランジェ公爵家の取り決めた裏帳簿を手に入れた。そこには、複数の闇業者へ資金が流れた痕跡が克明に記されており、しかも軍の勲章授与や遠征権限の裏取引まで示唆する文言が含まれていた。これこそがセドリックにとっての“決定的証拠”となり得る代物だった。
セドリックはすぐさまその裏帳簿を携え、王宮の調査委員会へ提出する。そして、王宮内部の調査官が動き出し、アレクシスを含む関係者の呼び出しが行われる運びとなった。
追い詰められたアレクシスは一時的に逃亡を試みるが、王城付近で捕縛される。ベランジェ公爵もまた、この疑惑に巻き込まれ、家名を賭けた釈明を余儀なくされた。公爵は無理やり言い訳を並べるが、確固たる裏帳簿の存在を否定しきれず、最後には王室への忠誠を誓うことでしか赦しを乞えなくなる。
こうして、軍と闇の資金ルートを利用した陰謀は頓挫し、首謀者であるアレクシスや協力者たちは事実上の失脚を余儀なくされた。ベランジェ公爵家もその責任を問われ、今後の影響力は大幅に低下していくだろう。まさに“ざまぁ”と呼ぶに相応しい結末だったが、その余波はルシアーナにとっても苦いものではあった。血の繋がった父が公の場で追及され、実家が没落の危機に瀕している――その事実は決して喜ばしいものではない。
とはいえ、ベランジェ公爵自身が招いた結果である。ルシアーナは思い悩みつつも、セドリックの手を離さなかった。彼が苦渋の選択を迫られながらも正しい道を選び、真実を暴いたことは誇りに思うし、何より彼がルシアーナを守るために全力を尽くしてくれたことが嬉しかったからだ。
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そして婚礼の日――
数多の波乱が過ぎ去り、ついにルシアーナとセドリックの婚礼が王都の大聖堂で執り行われることとなった。当初は貴族社会を大きく巻き込む豪華絢爛な式になる予定だったが、ベランジェ公爵家の不正発覚によって列席者は厳選され、王族や一部の信頼できる貴族、シュヴァイツァー家と関わりの深い商会の代表など、限られた者のみが招かれることになった。
それでも、会場の装飾は華やかに整えられ、白を基調とした花々とシャンデリアが美しく彩っている。参列者たちは、不正の余波を知ってかやや緊張気味ではあったが、新郎新婦を祝福する気持ちは本物だった。
ルシアーナは純白のドレスに身を包み、控室の鏡の前で緊張から唇を噛んでいた。ここまでの道のりは決して平坦ではなかった。政略結婚として始まったが、実際には命を狙われ、実家の陰謀が明るみに出て、セドリックとともに幾度も苦境を乗り越えた。それでも、彼の隣にいることを選んだ自分に、今は確かな誇りを感じる。
「ルシアーナ様、お支度はお済みになりましたか?」
侍女のアデラが声をかけてくる。ルシアーナは小さく息を吐いて笑みを浮かべる。
「ええ、ありがとう。……ずいぶん遠回りをしたけれど、やっとこの日を迎えられるわ」
扉が開かれると、目映いほどの光が大聖堂の内に差し込み、厳かな祭壇へと続く道が照らされる。その先には、すでにセドリックが立っていた。いつもの冷静な面差しは変わらないが、どこか優しい光が瞳に宿っているように見える。
ルシアーナが一歩一歩を踏みしめるたびに、胸が高鳴っていく。周囲の視線をまったく気にする余裕もない。今はただ、彼のもとへ辿り着くことだけが大切だ。ようやく隣に並ぶと、セドリックはそっとルシアーナの手を取り、その手の甲に口づけを落とす。まるで初めて会ったときの挨拶を、今ここで改めて交わしているかのように。
「……ルシアーナ、あなたに誓います。私はどんなときもあなたを守り、共に未来を切り開く。政略結婚という形で始まったとしても、私の気持ちは本物です」
セドリックが静かにそう告げると、ルシアーナの瞳に涙が宿る。その涙は悲しみではなく、長い試練の果てに辿り着いた安堵と幸福のしるしだ。
「私も、あなたと同じ思いです。あなたのそばにいて、一緒に前を向いて歩んでいきたい。……愛しています、セドリック様」
神官が儀式の言葉を述べ、参列者が見守る中、二人は指輪を交換し、誓いの口づけを交わす。シュヴァイツァー侯爵家の当主であるセドリックと、その妻となるルシアーナ。式の最中、ざわつく空気はまったくなく、むしろ厳かで温かな雰囲気に包まれていた。
闇資金による陰謀は崩れ去り、アレクシスと父ベランジェ公爵はその行いを公に糾弾される形になった。外聞を大いに損ない、彼らはこれから先、表舞台で堂々と権勢を振るうことはできないだろう。その意味で言えば、これこそが“ざまぁ”というべき結果だった。
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祝宴と、新たなる始まり
婚礼の後、大広間での簡素な祝宴が催された。以前の計画では王族や高位貴族など大勢を招くはずだったが、今回は事件の影響を考慮してこぢんまりとした集まりとなっている。
それでも、セドリックの幼馴染である商会の仲間や、ルシアーナをよく知る侍女のアデラなど、二人を心から祝いたい人々が集い、華やかさではなく“温かさ”に満ちた宴に仕上がっていた。
ルシアーナはドレスを少し動きやすいものに着替え、セドリックと肩を並べて賓客たちを迎える。時折、グラスを手にした友人や協力者が「おめでとう」「やはり二人はお似合いだ」などと声をかけてくれるのが、とても嬉しい。
「お疲れではないですか? 少し休みましょうか」
セドリックが囁くように気遣う。ルシアーナは軽く首を振り、微笑む。
「いいえ、あなたの隣なら大丈夫。こうして皆さんに祝っていただけるのは、幸せなことですわ」
その言葉に、セドリックも静かに頷く。いつもならクールな表情を崩さない彼が、今は柔らかな微笑を隠さない。その変化に気づく人々の間では「セドリック様がこんなに優しい顔をするなんて」と、小さな驚きと喜びが広がっていた。
やがて宴もたけなわとなり、ルシアーナとセドリックは中座して一息つく。部屋を出て廊下を歩いていると、アデラがそっと声をかけてきた。
「ルシアーナ様、あらためておめでとうございます。こうしてお二人が結ばれる日が来るなんて、本当に感激しています。……これまで大変でしたね」
アデラの目にも涙が浮かんでいる。ルシアーナは感謝の気持ちを込めて、そっとアデラの手を握る。
「あなたがいてくれたから、私は乗り越えられたの。ありがとう、アデラ」
その光景を見守っていたセドリックは、照れくさそうに視線を外すが、心の底から安堵しているようだった。
すべてが終わり、そしてここからが新たな始まり。政略結婚という歪んだ形から始まった二人の物語は、波乱と陰謀の中で育まれた真実の愛へと変わっていった。彼らを引き裂こうとした者たちは失脚し、結果として二人は互いを選び、共に生きる道を切り開いたのだ。
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エピローグ:溺愛の果てに
夜が更け、祝宴が終わって賓客たちが帰路についたころ、ルシアーナとセドリックは屋敷の一室で二人きりになっていた。新婚の二人がこれから暮らす部屋は、落ち着いた色調で整えられ、窓の外には静かな月の光が差し込んでいる。
ドレスもタキシードも脱ぎ、少しラフな装いになったセドリックは、ベッドの脇に座ってルシアーナの手をそっと引いた。
「ようやく、二人だけになれましたね」
その言葉に、ルシアーナは恥じらいを滲ませつつも、愛しげに微笑む。
「こんなに穏やかな気持ちで夜を迎えるのは初めてです。今までは、いつ襲撃されるか、父が何を企んでいるか……そんな心配ばかりでしたから」
セドリックはふっと笑みを漏らし、彼女を抱き寄せる。
「これからはもう、そんな心配はいらない。俺が君を守る。……いや、君が望むなら共に戦い、共に生きていく。それが、今の私の本心だ」
その甘い囁きに、ルシアーナは頬を染めながらうなずいた。柔らかな唇が重なり合い、胸の奥に熱い幸福が広がる。
思えば、始まりは不本意な政略結婚だった。だが、運命の歯車が回るたびに二人の心は近づき、闇の陰謀を乗り越える中で培われた絆は、もはや誰にも壊せない。
彼女をただの道具として扱おうとした父は権勢を失い、冷酷な策略家と噂された彼は、今は妻への溺愛を惜しみなく注いでいる。まさに“ざまぁ”な結末でもあり、最高の幸せの瞬間でもあった。
夜の闇に溶け込むように、二人は何度も口づけを交わす。ルシアーナは“妻”として、セドリックに身も心も預け、セドリックもまた“夫”として彼女を慈しむ。この優しい熱の中で、彼女は強く確信する――もう、どんな苦難があっても大丈夫だ。二人で手を携えて進めば、きっと乗り越えられる。
こうして、不本意な政略結婚から始まった物語は、溺愛と逆転の果てに、甘く穏やかな愛の形へと昇華したのである。互いの家に振り回されるのではなく、自分たちの意志で歩む新たな未来――その扉は、今まさに開かれようとしていた。 襲撃事件から半月ほどが経った。シュヴァイツァー侯爵家にはまだ不穏な空気が残っていたが、セドリックの徹底した調査と指揮によって、屋敷の警備は以前より格段に強化されている。襲撃者たちは王国騎士団のもとで厳しい尋問を受けたものの、依然として黒幕の名を明かそうとはしなかった。しかし、捜査を進めていく中で、いくつかの“手掛かり”が浮上したのだ。
その手掛かりを元に、セドリックは独自の情報網を駆使して動き出す。王都の裏社会にもパイプを持つ彼は、ひそかに手足を伸ばし、ベランジェ公爵家をはじめとする貴族たちの動向を探っていく。
ルシアーナはその過程をそばで見守りながら、複雑な思いを抱き続けていた。もしこの事件に、自分の父――ベランジェ公爵が深く関わっていたら。それは政略結婚の根幹を揺るがすばかりか、セドリックと自分の間に取り返しのつかない亀裂を生むかもしれない。
それでも、彼女は覚悟を決めた。何があってもセドリックの味方でいる、と。もはや自分の幸せを父親の手に委ねるつもりはなかった。セドリックとともに掴む未来こそ、彼女にとっての“本意”なのだ。
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1.兄アレクシスの陰謀
ある夕刻、セドリックはようやく屋敷に戻ってきた。忙しい日々が続いていたにもかかわらず、扉を開けて真っ先にルシアーナを探し、安否を確かめる姿は、まるで彼女を宝物のように思っている証拠だった。
ルシアーナは客間から廊下へ出て、彼の姿を認めるとほっとした表情を浮かべる。
「おかえりなさいませ、セドリック様。お疲れでしょう。少しお休みになっては……?」
しかし、セドリックの顔には深い疲労と、そして強い決意が読み取れた。彼は人払いをし、ルシアーナと二人きりになったところで、低い声で切り出す。
「実は、兄アレクシスの動向を追っていたところ、気になる事実がいくつか判明した。彼は軍の遠征資金を“ある筋”から融通してもらっているらしい。その“ある筋”の一部に、ベランジェ公爵が絡んでいる可能性が高い」
その言葉に、ルシアーナは小さく息を飲む。やはり父の名が出てくるのか。しかも、軍の遠征資金といえば、王国の戦力や利権に深くかかわる重要な案件だ。もしそこに不正があれば、国家を揺るがすスキャンダルに発展しかねない。
「アレクシス様と……父が? それで、何を企んでいるのでしょう」
「わからない。おそらくは、軍の派閥争いと商会の利権拡大が複雑に絡んでいるんだろう。アレクシスは軍で自分の権限を強化しようとしているし、お前の父上はそれを利用して王国への発言力を高めたいと踏んでいるのかもしれない。問題は、その資金の一部が闇の組織を通して不正に集められている節があることだ。今回の襲撃者たちも、あのルートを辿って送り込まれた可能性がある」
セドリックの口調からは、怒りがにじみ出ている。自分の家だけでなく、いずれ王国そのものに波紋が広がりかねない案件だ。さらに、彼の頭には疑問が浮かんでいた。――“兄アレクシスは、何のために自分の足を引っ張るようなまねをするのか”。
政略結婚によってシュヴァイツァー侯爵家とベランジェ公爵家の力関係は強化される。アレクシスが得をする部分もあるはずだが、むしろ彼はセドリックに対して皮肉や挑発を繰り返し、その背後でこそこそと暗躍している。もしかすると、アレクシスなりに別の大きな目的があるのか――そんな不安がセドリックを苛んでいた。
ルシアーナは彼の拳が固く握りしめられているのに気づき、そっとその手に触れる。
「大丈夫です。私も、できる範囲で協力します。……もし父が絡んでいるとしても、私はセドリック様を裏切りません」
その言葉に、セドリックの瞳にわずかな安堵が宿る。彼は黙って微笑み、ルシアーナの手を握り返した。いつもはクールな彼が、こんなにも素直に感情を示してくれることが、ルシアーナにとっては大きな救いだった。
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2.対立する父と娘
翌週、ルシアーナのもとへ突然、ベランジェ公爵から手紙が届いた。内容は「近日中に帰郷せよ」という強い口調での命令だ。まるで、シュヴァイツァー侯爵家で婚礼準備を進める彼女の行動に口出しするかのように、期日まで指定してある。
これまで、結婚のために“正式に滞在”している以上、娘を呼び戻すなど本来あまり考えられない。しかし、ルシアーナは不審に思いながらも、父が何を狙っているのかを確かめるべく、セドリックに相談したうえで渋々実家へ戻ることにした。もちろん、屋敷の警護やガウェインの同行も取り決められ、セドリック自身もそれを容認した。
「俺も一緒に行ければいいんだが、まだこちらで片付けねばならない用事がある。だが、すぐに合流するつもりだ。もし父上と兄上が何か動くようなら、一報をくれ」
別れ際、セドリックはルシアーナの手にそっとキスを落とす。以前ならば信じられないほど自然な所作だったが、今はむしろそれが頼もしく、そして甘い。ルシアーナの胸はきゅっと締めつけられるような切なさと期待に包まれた。
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ベランジェ公爵家へ戻ると、そこは以前にも増して張りつめた雰囲気が漂っていた。使用人たちはルシアーナを敬うというよりも、どこか突き放すような態度を見せる。母は顔を合わせるや否や「あなたったら、まだ結婚前なのに浮ついているのではありませんか」と冷ややかに皮肉を口にした。
そして父である公爵は、応接間で彼女を待ち構えていた。厳めしい眼差しのまま、慇懃にも椅子を勧めるが、その声には怒りが混じっている。
「ルシアーナ、お前は私の言いつけも守らず、シュヴァイツァー侯爵家に取り込まれるように滞在を続けたな。……一体どういうつもりだ?」
まるで娘が裏切りでもしたかのような叱責。ルシアーナは動じず、静かに返す。
「婚礼前の準備や、今後の生活のことを話し合うためです。そもそも、この結婚は父上が決めたものではありませんか。私がシュヴァイツァー侯爵家に滞在することに、何の問題があるのでしょう」
公爵の眉がさらに吊り上がる。
「確かに婚約は私が決めた。しかし、あの男――セドリックがやり方を誤れば、我が家も危うくなる。事業の拡大を盾に、我がベランジェ公爵家を飲み込むつもりかもしれんのだぞ。もう少し慎重に動くべきだったのだ」
言葉の節々に、シュヴァイツァー侯爵家への警戒心がにじむ。だが、本当にそれだけが理由なのだろうか。ルシアーナは父を見据え、苦い思いを押し込めたまま切り出す。
「父上は、シュヴァイツァー家と協力して権力を強めたいのではなかったのですか? 私はその意志に従って、ずっと“貴族令嬢としての務め”を果たしているつもりです。……むしろ、父上こそ何をお考えですか?」
公爵の顔に、一瞬の動揺が走る。だが、それはすぐに怒りへと変わった。
「お前には関係のないことだ。私がどう動こうと勝手だろう。お前はただ、結婚相手として相手方に恥をかかせないよう振る舞えばいい。……あれこれと詮索するな」
まさに“娘は道具”とでも言わんばかりの態度に、ルシアーナの胸は痛む。確かに昔から、父はこうだった。家の存続と権力の拡大こそがすべて。それ以外の価値など眼中にない。そして、この政略結婚もまた、ベランジェ公爵家の打算が大きく関わっている。
それでも、ルシアーナには譲れない思いがある。セドリックと築きつつある関係は、単なる道具の押し付け合いではないと信じたい。彼との未来を、父の思惑だけで台無しにさせるつもりはなかった。
「……わかりました。父上の意図は、聞かないことにします。ただ、私は決してシュヴァイツァー侯爵家を害するようなことに加担しません。それだけは、お伝えしておきます」
ぴしゃりと言い放つと、公爵は激高してテーブルを拳で打った。
「ルシアーナ、お前……! ならば、いざというときに“ベランジェ公爵家の娘”として身を捧げることができなくなるぞ!」
「ええ、たとえそうなっても、私はセドリック様のそばに立つことを選びます。もう昔のように、ただ父上の言うがままにはなりません」
ルシアーナの声には、不思議なほどの落ち着きと決意が宿っていた。その瞳を見て、公爵も母も、何も言い返せなくなる。まるで娘ではなく、一人の毅然とした“公爵令嬢”がそこに立っているようだった。
こうして彼女は実家を後にし、シュヴァイツァー侯爵家へ戻ることを決める。多少の抵抗はあったが、父も最後は黙って見送らざるを得なかった。ルシアーナは、ベランジェ公爵家という柵を捨てる覚悟すら秘めている――その気迫が、周囲を圧倒していた。
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3.謀略の果て、そして暴かれる真実
ルシアーナが屋敷へ戻ってから数日後、セドリックはアレクシスとの直接対峙を試みた。蓄えた証拠や情報を携え、王城に併設された軍の執務室へ赴いたのだ。アレクシスは彼が来ると知るや、余裕の笑みを浮かべて迎える。
「わざわざご苦労なことだね、セドリック。……僕に何か用かい?」
「兄上、単刀直入に言います。あなたが闇資金を使って遠征の派閥を牛耳ろうとしていると聞いたが、事実ですか?」
セドリックの問いかけに、アレクシスは一度あっけらかんと笑う。しかし、その瞳はまるで蛇のように冷たい。
「事実だとして、どうする? 僕は軍人だ。軍を強化することは、国のためになるし、父上の望む家名の誇りにも繋がる。それを成功させるための資金なら、手段を選ぶ必要はないと思ってね」
「手段を選ばない――その結果、シュヴァイツァー家やベランジェ公爵家を巻き込み、挙句の果てにはルシアーナ嬢を狙う刺客まで送り込んだ。それだけは絶対に許せない」
セドリックの声に怒気がこもる。しかし、アレクシスは悪びれる様子もなく肩をすくめる。
「実際に手を下したのは僕じゃない。君が勝手にそう決めつけているだけさ。……ただ、僕の“協力者”が暴走した結果かもしれないね。君がいつも目覚ましい成果を上げ、“完璧”であることへの反発かも。羨望は嫉妬に変わるというだろう?」
嫌味たっぷりの口調に、セドリックの眉間がピクリと動く。彼はぐっと感情を抑え込み、さらに問いを突きつけた。
「なぜ、そこまでして私の足を引っ張る? あなたにもメリットはあるはずだ。家と家が結びつけば、軍との連携も強まる。わざわざ敵対する必要などないじゃないか」
するとアレクシスの笑みが消え、瞳に暗い炎が宿る。
「……君は理解していない。僕はいつも家の“次男”――いや、“長男”として扱われるべきなのに、父上も周囲も“セドリックはすごい”としか言わない。僕は軍で地位を得ても、“侯爵家を支えているのはセドリックだ”と陰口を叩かれ続けた。
だからこそ、ベランジェ公爵家との結婚でさらに権力を握ろうとする君を放っておくわけにはいかなかったんだよ。君が完璧であればあるほど、僕が色褪せて見える。だから崩したかった。そう思ったら……こんなこと、造作もない」
ほとばしる劣等感がむき出しになった言葉に、セドリックは何も返せない。その間にも、アレクシスは嘲るような笑みを再び浮かべる。
「さて、そろそろお開きだ。僕を止めたいなら、僕が握っている軍の派閥をどうにかしてみせるんだね。それができないなら、君もルシアーナ嬢も、この先どうなるかわからないよ」
それはあからさまな脅迫だった。けれど、セドリックは逃げなかった。
「……いいでしょう。ならば兄上、自らその地位を明け渡すように。あなたの不正の証拠は手元にあります。もしこれを王宮に提出すれば、あなたは軍を追われることになる」
アレクシスはわずかに顔をしかめるが、すぐに自信ありげに笑う。
「おや、僕がこれまで築いた人脈がそう簡単に崩されると思う? 証拠だって、本当に決定的なものかな?」
無言の駆け引きがしばし続いた。最終的に、二人はその場で決着をつけるには至らず、互いに不穏な火花を散らしたまま別れる。セドリックはアレクシスを糾弾する最後の“切り札”を得るべく、さらに追及を進めなければならない。
一方、アレクシスはベランジェ公爵家との連携を強化し、暗躍を続ける可能性がある。その先には、ルシアーナへの再度の危険が及ぶかもしれない――セドリックは焦燥を抱えつつも、なんとか事態を好転させる方法を模索し始める。
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4.ざまぁ──そして溺愛の果てへ
そんな中、追い風となる出来事が起こる。王国の要職を勤める高官が、ベランジェ公爵家が闇資金ルートに関与している可能性を示唆する書簡を、匿名で王宮に送付したのだ。まだ裏付けは不十分とはいえ、これがきっかけで王宮は軍の不正資金ルートを厳しく調査し始める。
同時期に、シュヴァイツァー侯爵家の商会に所属する会計士が、アレクシスとベランジェ公爵家の取り決めた裏帳簿を手に入れた。そこには、複数の闇業者へ資金が流れた痕跡が克明に記されており、しかも軍の勲章授与や遠征権限の裏取引まで示唆する文言が含まれていた。これこそがセドリックにとっての“決定的証拠”となり得る代物だった。
セドリックはすぐさまその裏帳簿を携え、王宮の調査委員会へ提出する。そして、王宮内部の調査官が動き出し、アレクシスを含む関係者の呼び出しが行われる運びとなった。
追い詰められたアレクシスは一時的に逃亡を試みるが、王城付近で捕縛される。ベランジェ公爵もまた、この疑惑に巻き込まれ、家名を賭けた釈明を余儀なくされた。公爵は無理やり言い訳を並べるが、確固たる裏帳簿の存在を否定しきれず、最後には王室への忠誠を誓うことでしか赦しを乞えなくなる。
こうして、軍と闇の資金ルートを利用した陰謀は頓挫し、首謀者であるアレクシスや協力者たちは事実上の失脚を余儀なくされた。ベランジェ公爵家もその責任を問われ、今後の影響力は大幅に低下していくだろう。まさに“ざまぁ”と呼ぶに相応しい結末だったが、その余波はルシアーナにとっても苦いものではあった。血の繋がった父が公の場で追及され、実家が没落の危機に瀕している――その事実は決して喜ばしいものではない。
とはいえ、ベランジェ公爵自身が招いた結果である。ルシアーナは思い悩みつつも、セドリックの手を離さなかった。彼が苦渋の選択を迫られながらも正しい道を選び、真実を暴いたことは誇りに思うし、何より彼がルシアーナを守るために全力を尽くしてくれたことが嬉しかったからだ。
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そして婚礼の日――
数多の波乱が過ぎ去り、ついにルシアーナとセドリックの婚礼が王都の大聖堂で執り行われることとなった。当初は貴族社会を大きく巻き込む豪華絢爛な式になる予定だったが、ベランジェ公爵家の不正発覚によって列席者は厳選され、王族や一部の信頼できる貴族、シュヴァイツァー家と関わりの深い商会の代表など、限られた者のみが招かれることになった。
それでも、会場の装飾は華やかに整えられ、白を基調とした花々とシャンデリアが美しく彩っている。参列者たちは、不正の余波を知ってかやや緊張気味ではあったが、新郎新婦を祝福する気持ちは本物だった。
ルシアーナは純白のドレスに身を包み、控室の鏡の前で緊張から唇を噛んでいた。ここまでの道のりは決して平坦ではなかった。政略結婚として始まったが、実際には命を狙われ、実家の陰謀が明るみに出て、セドリックとともに幾度も苦境を乗り越えた。それでも、彼の隣にいることを選んだ自分に、今は確かな誇りを感じる。
「ルシアーナ様、お支度はお済みになりましたか?」
侍女のアデラが声をかけてくる。ルシアーナは小さく息を吐いて笑みを浮かべる。
「ええ、ありがとう。……ずいぶん遠回りをしたけれど、やっとこの日を迎えられるわ」
扉が開かれると、目映いほどの光が大聖堂の内に差し込み、厳かな祭壇へと続く道が照らされる。その先には、すでにセドリックが立っていた。いつもの冷静な面差しは変わらないが、どこか優しい光が瞳に宿っているように見える。
ルシアーナが一歩一歩を踏みしめるたびに、胸が高鳴っていく。周囲の視線をまったく気にする余裕もない。今はただ、彼のもとへ辿り着くことだけが大切だ。ようやく隣に並ぶと、セドリックはそっとルシアーナの手を取り、その手の甲に口づけを落とす。まるで初めて会ったときの挨拶を、今ここで改めて交わしているかのように。
「……ルシアーナ、あなたに誓います。私はどんなときもあなたを守り、共に未来を切り開く。政略結婚という形で始まったとしても、私の気持ちは本物です」
セドリックが静かにそう告げると、ルシアーナの瞳に涙が宿る。その涙は悲しみではなく、長い試練の果てに辿り着いた安堵と幸福のしるしだ。
「私も、あなたと同じ思いです。あなたのそばにいて、一緒に前を向いて歩んでいきたい。……愛しています、セドリック様」
神官が儀式の言葉を述べ、参列者が見守る中、二人は指輪を交換し、誓いの口づけを交わす。シュヴァイツァー侯爵家の当主であるセドリックと、その妻となるルシアーナ。式の最中、ざわつく空気はまったくなく、むしろ厳かで温かな雰囲気に包まれていた。
闇資金による陰謀は崩れ去り、アレクシスと父ベランジェ公爵はその行いを公に糾弾される形になった。外聞を大いに損ない、彼らはこれから先、表舞台で堂々と権勢を振るうことはできないだろう。その意味で言えば、これこそが“ざまぁ”というべき結果だった。
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祝宴と、新たなる始まり
婚礼の後、大広間での簡素な祝宴が催された。以前の計画では王族や高位貴族など大勢を招くはずだったが、今回は事件の影響を考慮してこぢんまりとした集まりとなっている。
それでも、セドリックの幼馴染である商会の仲間や、ルシアーナをよく知る侍女のアデラなど、二人を心から祝いたい人々が集い、華やかさではなく“温かさ”に満ちた宴に仕上がっていた。
ルシアーナはドレスを少し動きやすいものに着替え、セドリックと肩を並べて賓客たちを迎える。時折、グラスを手にした友人や協力者が「おめでとう」「やはり二人はお似合いだ」などと声をかけてくれるのが、とても嬉しい。
「お疲れではないですか? 少し休みましょうか」
セドリックが囁くように気遣う。ルシアーナは軽く首を振り、微笑む。
「いいえ、あなたの隣なら大丈夫。こうして皆さんに祝っていただけるのは、幸せなことですわ」
その言葉に、セドリックも静かに頷く。いつもならクールな表情を崩さない彼が、今は柔らかな微笑を隠さない。その変化に気づく人々の間では「セドリック様がこんなに優しい顔をするなんて」と、小さな驚きと喜びが広がっていた。
やがて宴もたけなわとなり、ルシアーナとセドリックは中座して一息つく。部屋を出て廊下を歩いていると、アデラがそっと声をかけてきた。
「ルシアーナ様、あらためておめでとうございます。こうしてお二人が結ばれる日が来るなんて、本当に感激しています。……これまで大変でしたね」
アデラの目にも涙が浮かんでいる。ルシアーナは感謝の気持ちを込めて、そっとアデラの手を握る。
「あなたがいてくれたから、私は乗り越えられたの。ありがとう、アデラ」
その光景を見守っていたセドリックは、照れくさそうに視線を外すが、心の底から安堵しているようだった。
すべてが終わり、そしてここからが新たな始まり。政略結婚という歪んだ形から始まった二人の物語は、波乱と陰謀の中で育まれた真実の愛へと変わっていった。彼らを引き裂こうとした者たちは失脚し、結果として二人は互いを選び、共に生きる道を切り開いたのだ。
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エピローグ:溺愛の果てに
夜が更け、祝宴が終わって賓客たちが帰路についたころ、ルシアーナとセドリックは屋敷の一室で二人きりになっていた。新婚の二人がこれから暮らす部屋は、落ち着いた色調で整えられ、窓の外には静かな月の光が差し込んでいる。
ドレスもタキシードも脱ぎ、少しラフな装いになったセドリックは、ベッドの脇に座ってルシアーナの手をそっと引いた。
「ようやく、二人だけになれましたね」
その言葉に、ルシアーナは恥じらいを滲ませつつも、愛しげに微笑む。
「こんなに穏やかな気持ちで夜を迎えるのは初めてです。今までは、いつ襲撃されるか、父が何を企んでいるか……そんな心配ばかりでしたから」
セドリックはふっと笑みを漏らし、彼女を抱き寄せる。
「これからはもう、そんな心配はいらない。俺が君を守る。……いや、君が望むなら共に戦い、共に生きていく。それが、今の私の本心だ」
その甘い囁きに、ルシアーナは頬を染めながらうなずいた。柔らかな唇が重なり合い、胸の奥に熱い幸福が広がる。
思えば、始まりは不本意な政略結婚だった。だが、運命の歯車が回るたびに二人の心は近づき、闇の陰謀を乗り越える中で培われた絆は、もはや誰にも壊せない。
彼女をただの道具として扱おうとした父は権勢を失い、冷酷な策略家と噂された彼は、今は妻への溺愛を惜しみなく注いでいる。まさに“ざまぁ”な結末でもあり、最高の幸せの瞬間でもあった。
夜の闇に溶け込むように、二人は何度も口づけを交わす。ルシアーナは“妻”として、セドリックに身も心も預け、セドリックもまた“夫”として彼女を慈しむ。この優しい熱の中で、彼女は強く確信する――もう、どんな苦難があっても大丈夫だ。二人で手を携えて進めば、きっと乗り越えられる。
こうして、不本意な政略結婚から始まった物語は、溺愛と逆転の果てに、甘く穏やかな愛の形へと昇華したのである。互いの家に振り回されるのではなく、自分たちの意志で歩む新たな未来――その扉は、今まさに開かれようとしていた。
闇の陰謀は浄化され、壊そうとした者たちには相応の報いがもたらされる。二人は互いを守り抜き、そして愛し合う。そこにあるのは、やさしくも熱い、夫婦としての誓い。そして、これから先の人生は、どんな嵐が来ようとも共に支え合えるだろう。
月明かりが窓から差し込む静かな夜。ルシアーナとセドリックは、重ねた手の温もりを分かち合いながら、長い一日の幕を閉じた。新しい夫婦としての明日が、どれほど眩しく輝いているかを確信しながら――。
闇の陰謀は浄化され、壊そうとした者たちには相応の報いがもたらされる。二人は互いを守り抜き、そして愛し合う。そこにあるのは、やさしくも熱い、夫婦としての誓い。そして、これから先の人生は、どんな嵐が来ようとも共に支え合えるだろう。
月明かりが窓から差し込む静かな夜。ルシアーナとセドリックは、重ねた手の温もりを分かち合いながら、長い一日の幕を閉じた。新しい夫婦としての明日が、どれほど眩しく輝いているかを確信しながら――。