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その日、ジュリアは父の書斎に呼び出された。厳格な父がわざわざ呼びつける理由はわかっていた。政略結婚の話が現実のものとなったのだ。
書斎の重厚な扉を開けると、父と見知らぬ男が向かい合って座っていた。その男はアルフレッド・カーヴェル侯爵令息。鋭利な刃物のように冷たい眼差しを持つ、容赦なさそうな男だった。ジュリアはその場の空気が刺すように冷たいことを感じ取った。
「ジュリア、お入りなさい。」父の声は厳然としており、拒否の余地を与えない。
「お呼びでしょうか、お父様。」ジュリアは頭を下げながら答える。
父は手にした書類を彼女に差し出し、言った。
「これが君の婚約に関する契約書だ。今日ここで署名することになる。」
ジュリアは心臓が縮むような感覚を覚えた。この結婚が、彼女の幸せとは無関係なことはわかっていた。だが、公爵家の令嬢として育ったジュリアは、家のために犠牲を払う覚悟を強いられていた。
「アルフレッド・カーヴェル侯爵令息だ。」父は男を紹介したが、その声には温かみはなく、冷たい義務感しか感じられなかった。
アルフレッドは席を立ち、無表情でジュリアを見下ろした。彼の瞳には、彼女に対する興味も情も感じられない。ただ、彼女が「利用価値のある存在」であるかを測っているようだった。
「初めまして、ジュリア様。」アルフレッドは冷淡な声で言った。「お互いにとって有益な契約にしましょう。」
ジュリアは冷ややかな挨拶に戸惑いながらも、微笑みを浮かべた。「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。」
しかし、その笑みは虚ろだった。彼の態度が物語るのは、この結婚が愛に基づくものではないこと。これが彼女の運命なのだと思うと、内心で苦々しい思いが湧き上がる。
「契約内容を確認しろ。」父が言い放つ。
ジュリアは契約書を手に取り、目を通した。それは冷酷な現実をさらに突きつけるものだった。財産分与、家柄の強化、後継ぎの確保。全てが家と家の利益のために綴られており、彼女の感情や幸せについては一言も書かれていない。
「……これで全てですか?」ジュリアは穏やかに問いかけたが、その声にはかすかな震えが混じっていた。
アルフレッドが冷たく答える。「必要最低限のことだけだ。情は不要だ。」
その瞬間、ジュリアの中で何かが崩れた。彼女は、ただの駒として扱われていることを改めて思い知らされた。
「では、サインを。」父が指差す場所を示した。
ジュリアはペンを手に取り、一瞬だけ迷った。だが、迷っても意味がないことはわかっていた。彼女には拒否する権利がない。息を整え、手を震えさせないようにしながら、名前を書いた。
その瞬間、ジュリアの人生が大きく変わったことを感じた。それは彼女の意志ではなく、他人によって決められた未来だった。
「これで契約成立だ。」 父が満足そうに言った。
アルフレッドは契約書を確認し、軽くうなずいた。「これからよろしくお願いします、ジュリア様。」その声には皮肉も温かみもなく、ただ形式的な響きだけがあった。
ジュリアは微笑みを浮かべて答えた。「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。」
だが、その笑みの裏には、絶望と小さな決意が隠れていた。この結婚を受け入れることは、彼女の人生の終わりではない。ここから始めるのだ――たとえそれが復讐という形であっても。
その日の夜、ジュリアはベッドに横たわりながら、冷たく輝く月を見上げていた。
「私は、ただ終わるためにここにいるのではない。必ず、自分の力で新しい道を切り開く。」
彼女の心の奥底で、炎が静かに燃え始めていた。それは彼女の中で初めて芽生えた、未来への希望だった。