「まだ帰ってないのか」
十階建ての真っ白いコの字型マンションを見上げカイムは自宅の様子を確認する。
駐屯地は地区ごとに役割が異なっており、この第四地区にはマンションが密集している。学生のカイムも類には漏れずここが生活拠点となっていた。
オートロックの入り口を抜け三階の自室へと歩く。
並ぶドアはどれも同じように無機質だが、その中には同じ年齢の学生達が同居人と二人セットで住んでいるはずだ。
何の変哲も無い扉の前に立ったカイムはカードキーを差込み、入室する。
部屋の中は真っ暗で正面にある窓がボンヤリと外の光を取り込んでいた。
(しかし、まだ帰ってきてないのは珍しいな……いつもは晩飯を待ってやがるんだが)
特別な用が無い限り二人は行動をよく共にしている。
ゲーセンに寄ったり大勢でファミレスに入り浸ったり。
勿論今日みたいな日もあったが、それでもジャックはカイムより早く帰宅している。
「まさか……捕まったわけじゃないよな」
ジャックもこの辺りでは稀に見る無改造者の一人。
カイムを追って来たマッチョなお兄さんの様に再生化されて襲われていたらと思うと多少とも心配しなくもない。
しかも一人ではなく大勢を相手にしているのなら尚更だ。
いくら自分よりも逃げ足が速く身のこなしが良くても、多数のシルバー・エイジを相手にして無傷で済む筈はない。
「……コーヒーでも買ってくるか」
ちょっと近くのコンビニに行こうかと思い、カイムは再び靴を履く――、
ドンッ。
「ん?」
――のを止め、真っ暗の部屋に振り返る。
物が落ちたような……そんな音が響いた気がする。
「風呂場か……?」
ボディーソープか何やらが床に落ちただけならいい、だがそれにしては衝撃が大きかった。それなりに重量があるものだと音からは推測できる。
カイムは明かりも点けず通路にある一つのドアノブに手をかけた。
(開いてる?)
朝、学校に行く前に確かに閉めたはずだ。と言うか普段から風呂場を開けて登校する習慣は無い。カイムは不信に思いつつそっとドアノブを引く。
ゆっくりと、ゆっくりと。
「うぉぉぉぉぉっ!」
「うぁぁぁぁぁっ!」
どちらがどちらの悲鳴だったか定かではない。
叫び声と同時に風呂場に明かりが灯り、バスタブから妙にドロドロした透明な液体を全身にかぶった男が、ゾンビのように飛び出してきた。
「やーい、引っかかった、引っかかった! 可愛いですにゃあー!」
「ジャ、ジャック……てめぇ……」
そこにはツンツンした黒い髪に、狐のような細長い瞳が胡散臭さを倍増させた妙な同居人がいた。
ご丁寧にワイシャツとネクタイ、ズボンまでもが透明な液体で汚れている。いつも首にかけているヘッドホンだけは大切だったのか風呂場の端に避けられていた。
「待ってました。長い時間待っておりましたよ!
一時間……否、二時間……!
トイレもずっと我慢して、このジャック=フレミング。
迅葉ちゃんを一日千秋の思いで待ち続けておりましたヨ」
「よくも飽きずにやるな、お前は!」
不覚にも腰を抜かして座り込んでいる自分が悲しい!
忍者かぶれで胡散臭い同居人は暇さえあれば、今日のように無駄に人を驚かす悪い癖がある。いつもなら気付いているだろうが今日は日が悪かった。
大人数の大男に追われ、謎のシルバー・エイジに襲われたかと思えば、変な幼女に助けられた日なのだからこいつの遊びにまで気が回るはずがないのだ。
「ノンノン、同じ屋根の下に住む者同士、コミュニケーションを忘れてはいけないでござんす」
「なんで今日に限ってそんなに体張りすぎなんだよ! なんだよそのキモイ液体!」
「知りたいでござるか?」
「……いや、いい」
「残念ですな」
そう言ってジャックはションボリと肩を落としバスタブから脱出を試みる。と、すかさずカイムは蛇口を力いっぱいに捻った。
大雨のようにシャワーが噴出し、眼前に迫るヌルヌル男に直撃する。
「あちちちっ! ちょ、迅葉ちゃん!
たんま、無理、この水熱すぎ! 所謂、OYU!」
「綺麗にしてから出てこいよ」
一仕事終えた様にパンパンと両手を叩き、カイムは熱気溢れる風呂場を後にした。
たまに聞こえる奇声(何処でもテンションが無駄に高い奴なのだ)をBGMにしながらカイムは備え付けられたキッチンの前で野菜を刻む。
余ったご飯を冷凍庫から取り出し、解凍、その後手早くフライパンに熱を入れ、数分もしないうちに余った食材は野菜たっぷりの炒飯に生まれ変わっていく。
フライパンの中で踊る食材達を見つめながらカイムは今日の出来事を思い返していた。
あの少女と別れた後、鞄が無い事に気付き例の現場へと戻ったが、そこに暴走した女子の姿は無く無惨に破壊された電化製品だけが散らばっていた。
もう二度と動く事は無い電子レンジの下から鞄を救出し、ついでに手がかりが無いか見て回ったのだが彼女に繋がるモノは何も無かった。
ご丁寧に保温ポットまで粉微塵にされているのだからどうしようもない。
「……ふむ」
手首のスナップを利かせると炒飯は宙を舞った。
「おっこの匂いは炒飯! さっすが分かってますねぇ!」
風呂場から出てきたジャックはカイムの背中越しに犬のように鼻を鳴らしてから部屋の明かりを点ける。
誰も知りたくないだろうがついでに言えば、タオルが女子の様に胸の辺りから膝上までしっかりと撒かれていて非常に気持ち悪い。
「覗かないでね?」
「馬鹿こじらせて死ね」
新婚みたいな台詞を残してジャックは部屋の隅へと消える。
他の部屋の男は真っ裸で歩いたりするもんだが、ジャックはいつもこうだ。
……いや、出すもの出して歩かれるよりは全然気分は良いのだが。
ジャージに着替えたジャックと向かい合い、カイムはテーブルの前で胡坐をかいて座る。テーブルには迅葉風野菜炒め炒飯に適当にだしを取ったワカメスープの二品だ。
「いただきまーす!」
嬉しそうに手を合わせジャックは腹を空かせた犬のようにかぶりついた。
「うん、うまうま……!
やばふぎる、美味でふにゃ、美味すぎふ!
迅葉ちゃんの料理は宮廷料理や!」
「毎日食ってんだろうが」
相変わらずのジャックを前にカイムは落ち着いた様子でスープを啜った。ほんのりとした塩味が口の中に広がる。次は炒飯を口に運び咀嚼を繰り返す。
「――っ」
「どうかしたんか?」
たまにエセ関西人に生まれ変わる同居人は、箸を持ったまま動きを止めるカイムを見つめた。
「いや、なんでもない」
「ほー! 被せてる奴が外れたらすぐ歯医者に行くでがんすよ!」
「ちげえ!」
そっと自分の頬に手を伸ばし絆創膏を撫でる。
物を噛む度に震動が傷を刺激するのだ。
ビリッと電気が走り皮膚を引き裂く気がする。
(アイツはちゃんと目的地へ着けただろうか……)