「……はあ」
背中を扉に預けそのままずりずりとカイムは力なく腰を下ろした。
中ではきっとメロウ先生がジーンの処置をしているだろう。
「くそっ……」
拳を硬く握り何も無い地面に一撃を振り下ろす。
ガスッと鈍い音が骨に響いて拳がじんわり熱を持っていくのが分かる。
どうしようもない無力感はどこにぶつけても消える事は無い。
もう取り戻せないのだ。
過去も未来も。
やり直せないのだ。出会いからも。
「……ジーン、お前は一体どうしたかったんだ?」
目指すべき場所があった。
それを探して彼女はこの軍事基地に潜入した。
カイムには分からないが彼女なりの理由があって、これほどの危険を冒してもここへ来るべき理由があったのだろう。
この遺伝子を弄くり再生者たる子供たちを作る基地に。
けどこれ程の危険を冒しても命を落としては元も子もない。
何も残らないのだ。
「そういや、あいつ……」
あの葵坂に忍び込んだ夜に言っていた。
自分は『全人類を救う唯一のバケモノ』だと。
これは一体どういう意味があったのだろうか。
今となっては分からないが、その言葉と彼女がここに来た理由は繋がっているはずだ。
陽の光が完全に遮られているボロアパートの玄関でカイムはゆっくりと立ち上がった。
緩慢な動きで錆付いた階段を下る。
これは償いではない。
行動に意味も無い。
けれどただ待っている事なんて出来なかった。
それに全てが終わっても待っているのは『二人の決別』だけだ。
ならばもう少し、もう少しだけ首を突っ込みジーンの居場所へ踏み込もうと迅葉カイムは決めた。
向かうべき場所はないが、まだこの普通じゃない物語を終わらせない為に。
******
ギィと相変わらず立て付けの悪い扉が閉まり迅葉は力無く外へと出て行った。
出て行ったのを完全に確認するとメロウは小さく息を漏らし死んでいる子供に目を落とす。
「……酷い」
独り言を呟き少女の体から衣類を脱がせる。
どこまでも長いマフラーに、レース付きの可愛らしいキャミソールと薄手のスカート。
全てに血痕が付着しており、メロウは洗面所から取り出した薬品を付着させ、洗濯機へと乱暴に放り込んだ。
次に汚れた体を迅葉が沸かしてくれたお湯を使いタオルで拭いていく。
触れた皮膚は鉄のように冷たく、生気を感じられなれなかった。
「死後変化が始まっていない……?」
本来動物は死んでから自己融解、死後硬直、死斑、死冷、死後凝血、腐敗、乾燥などの変化を生じさせる。
環境や状況にもよるが少なからず人間にも適応される現象だ。
なのにこの少女の肌は已然として潤いを失ってはいなかった。
「死後硬直も?」
通常なら二時間ほどから始まる体の硬直も始まっている様子がない。
殺されてから二時間経っていないとも考えられるが、あのダンボールの渇き具合を見ると、二時間以上は経過しているような気がする。
三十時間ほど経過すると硬直は解けていくのだが、その線も薄いと思えた。
「まるで人形……」
心臓は止まり脈も無いのに彼女の体は死者のそれとは違う。
この少女は人として決定的に『何か』が違うのだ。
今まで様々な生徒をメロウは見てきたつもりだったが、こんな遺体は初めてだった。
死後に変化をもたらす改造でもされているのかもしれない、けれどそれにどんな意味があるのか。
あったとしてもそれはとても下種なものに思えた。
「はい、綺麗になりましたよ。では縫わせていただきますね」
死者を前にメロウは一応、十字を胸の前で切る。
家は両手を合わせる宗教だったがメロウだけは、いとも簡単に侵略国の宗教を受け入れた。
(祈る相手は違えど、死者に敬意を払っている事に間違いは無いもんね?)
そもそもガリアドアの領土に落ちる前までは、神なんてどこにでもいると言われるほど自由な国だった。
無宗教とも呼べるし、自分が崇めればなんだって神になるとも言える国、それが太古のサンイースト。
閉じた眼を開き、透明の手袋をはめ、裁縫用の針と糸を握る。
「失礼します……」
いつまでも瑞々しい内臓が見えている。
皮膚と筋肉はぱっくりと切断されているくせに、何故か血液は外に出ることは無かった。
イメージは鍋だ。
体内に溜まった血液が彼女の体に収まっている。
メロウは震える手でゆっくりと針を進めていく。
実習で人形を縫った事はあったが、家庭用の道具で人間を縫合するのは初めてだった。
それにこの子は普通の人間と違う。
この街の子供は迅葉カイム以外、『人間外』の生き物なので不思議な事は何も無い、けれどこの違和感。
この子供を見ていると死んでいるにも拘らず何故か自分が吸い込まれそうになる。
意味合いとしておかしいかも知れない。
だが、言葉で表すならその感覚が一番しっくり来るのだ。
この子の前に立つと精神が浸食されて行くような気がする。
――浸食、いや違う。
これは
万物を支配するオーラが出ているとしか言いようがない。
実に非化学的ではあるがこうして触れているだけで、何故か精神が満たされていくのをメロウは感じていた。
(うう……なんか酔っていくみたいですね……)
チクチクと皮膚を縫いながらもメロウは真剣に皮膚を閉じていく。
閉じられた皮膚はみるみる分子結合を開始し、縫合しているにも拘らず同時に傷は消えているようだった。
「まだ細胞が生きてる……?」
本来なら死滅していくはずの細胞すら彼女の体を再生していく。
アルコールで酔った様に脳が揺さぶられていたメロウもさすがにこの現象には理性を取り戻した。
だが手を止めるわけにもいかず残り数センチを縫い進めていく。
(この子は一体……? これではまるで甦っていくみたいです……)