僕は野崎の動きを目で追うのが精いっぱいだった。
標的を見つけた肉食獣、その中でも野崎の動きは狼のそれに近かった。絶妙な左右への動きを挟み、矢の攻撃の射線を切りながら、野崎は目標に向かってひた走る。
「逃げてもいいよ、無駄だから」
杭で校舎の窓が割られるような音がして、野崎の姿はすぐに見えなくなった。
「うあああああ!」
そしてそれから数分後、男子生徒の悲鳴が辺り一帯に響き渡ると、野崎はけろっとした様子で僕の元へと戻ってきた。
「終わった」
業務連絡のようにそう言う野崎の頬には返り血がついていて、僕はなんだか妙な気分になる。彼女の頭上の電子数字は、『6』に増えていた。
「追い詰めたら変に抵抗しないでくれてよかったよ。多分将棋部の人だったかな、あれ。前に部活紹介で見たことあったし」
「……野崎、これ」
僕はなんて返したらいいのかわからず、ポケットからハンカチを出して野崎に手渡した。
「え? ああ、ついちゃってたか。ありがと、求は結構マメなんだね。でもいいよ、血って洗濯じゃ中々取れないし」
「いいよ、別に新しいわけじゃないから」
「そういうことなら、遠慮なく」
僕の手からそっとハンカチを受け取った野崎は、頬に痕が残るんじゃないかってくらい雑に将棋部らしい男子生徒の血を拭うと、「じゃあ今度、新しいの買って返すよ」と言ってグシャグシャのままスカートのポケットにそれを押し込んだ。
「ここから早いとこ離れたほうがいいかもね。さっきの声、結構大きかったし」
「確かに、漁夫の利を狙う人もいるかもしれない」
「返り討ちにしてやるけどね」
「……野崎って、いつもそんなに血の気が多いの?」
◇ ◇ ◇
僕たちは中庭から移動し、ひとまず学校の裏口を目指すことにした。
このゲームが校舎を舞台として指定しているなら、きっとあのサカナによってこの校舎の範囲外には出られないように細工がしてあるはずだ。そこの可否を確かめようとする生徒も多いだろう。
身を潜めつつ、ゲームの参加者――スケールメイト同士の交戦があればまずは遠巻きから観察をして、それぞれのスケールメイトにどんなウロコが配られているかを把握するのがいいだろう、というのは僕の提案だった。
「私たちが漁夫の利を狙おうってことだね」
裏口の周りにはまだ人の気配はしなかった。裏口近くにある体育館の階段下で、僕と野崎は身を隠していた。ここなら体育館の中にもすぐに逃げられるし、背後は壁で死角もない。
「いや、別に戦わなくてもいいんだけど。このゲームにおいて一番怖いのは、やっぱりウロコの存在だ。誰がどんな武器を持っているのか、実際に見てみるまでわからない。特に僕たちみたいに複数人で行動している場合は、そこをいかに暴けるか、もしくは隠しておけるかが重要なことなんじゃないかな」
「うん、よくわかんないけど、求はゲームとか得意そうだね」
「僕は野崎みたいに強くないだけだよ。小難しいことを考えるのは弱者に許された唯一の抵抗手段だ」
「強いとか弱いとか、やってみないとわかんないでしょ」
「生き死にがかかってるのにそんな楽観的にはいられないよ」
「ビビる気持ちもわからなくはないけどさ、これ、あくまでゲームだよ?」
僕は少し誤認していたようだ。
このゲームが気に入らない。その点において、僕たちの意見は合致している。
けれど、このゲームに対する割り切り方、みたいなものに関しては、野崎と僕には両極端くらいの認識の違いがあるようだった。いや、正しくは、僕がまだ人を殺す覚悟を全く持てていないだけだ。
正直、怖くて堪らない。
人を殺すことが、殺されるってことよりも、どこか頭の中で想像ができてしまう分、体温をもった怖さがあった。
いくらこれが、取り返しのつくゲームだとしても。
「ゲームでも、死にたいやつなんかいないだろ」
「そうとも、限らないじゃない? 現実で死にたい人なんか、山ほどいるんだし」
野崎はあたかも世界の真実を告げるように言った。そして、多分それは世界の真実だった。
返す言葉に迷っていると、体育館の方からガゴッ、と重いものが落ちるような音、そして慌ただしい足音が複数聞こえて、僕より一瞬早く野崎が階段下から出た。
「中からだ」
「待って野崎、別に僕らを見つけたわけじゃないと思う」
「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないじゃん。……確かめないと」
少し迷ってから、僕は野崎の言葉に頷いた。こういう状況の判断は、野崎の方がきっと正確に下せる。
僕と野崎は体育館の開け放された扉からほんの少しだけ顔を出し、中の様子を確認する。
体育館の中には、男子生徒が二人いた。どうやら彼らは交戦中のようで、展開は一方的だった。
「おい! 止まれって! なあ、頼むからさあ……」
校則的に許容内なのかわからないが、髪を暗い茶髪に染めた男子生徒が、もう一人の、大きな黒いハンマーを持った、小柄で眼鏡をかけた、いかにも真面目そうな見た目の男子生徒に向かって、そう懇願する。
おそらく、別の場所で決着はほとんどついていたのだろう。
茶髪の男子生徒の左足は、半分ほど潰されて使いものにならないようだった。彼が必死に後ずさり、引きずった足で体育館の床につけた血の跡を、わざわざ律儀に踏みながら追い詰める眼鏡姿の男子生徒は、糸で無理やり吊り上げたような笑顔を浮かべている。
「お、お前のことさ、ずっと怖くて。お金も、たくさん渡した。何回か、殴られたことも、あった、かな」
震えながらも、彼の声は確かな怒りで満ちていた。
「ごめん……謝るから、もうやめてくれよ、なあ……俺、死ぬの怖いよ」
「僕が、僕が泣いても! 僕が! 泣いたときも! お前はちっともやめなかったよな!」
眼鏡の男子生徒は、憤りをそのまま手に持ったハンマーに込め、体育館の床を割る。さっきの音もこれだったのか。
もはや抵抗の意思さえないのか、茶髪の男子生徒の手にはウロコらしきものも握られていなかった。
「で、でもさ、やってたのは俺だけじゃ……」
「だからお前らみんな殺してやるん」
「やめろ!」
え?
「……求、それなんのつもり?」
隣にいる野崎が異物を見るような目を僕に向ける。それはそうだ。
気づくと僕は扉の陰から身を乗り出して、こともあろうか大声で自らの存在を知らせてしまったのだから。
「……お前、誰だよ」
眼鏡の男子生徒が焦点のブレた瞳で僕を認め、恐怖と怒りがない混ぜになった声で叫んだ。
「今っ、今、僕がこいつを殺すところなんだからさあ! 部外者が軽々しく邪魔すんなよ!」
その声はまさしく悲痛そのもので、それなりに広い体育館の中にもビリビリと響いた。
「私、もしかしてものすごい馬鹿と組んじゃった?」
野崎の心底呆れた声が、すっかり我に返ってしまった僕の耳に死の予感を運んできた。