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第?話


 白い鳥が、その体に見合ってないくらい大きな羽をパタパタと動かしながら、枯れ木のてっぺんにとまろうとしていた。今日は風が強く、鳥もたいそう飛びづらそうにあくせくしているようで、ただの観測者である私としても、それなりに見ていてハラハラとする光景だった。

 頑張れ、というのも上から目線で、流れに身を任せて、というのも無責任なような、不思議な気持ちの波の上で、私は右手を握って鳥の行く末を見守る。

 鳥は強風に煽られながらもなんとか枝にとまり、しかし吹きさらしの中では耐えられなかったのか、すぐにどこかへ飛んでいってしまった。ここは鳥にとって安息の地ではなかった。そしてまた、彼だか彼女だかは本当の安寧を求めて風に流されるのだろう。


 小さくなっていく鳥の羽ばたきを見送り、私は握っていた拳を氷が溶けるようにじわっと解いた。

 あの生きづらそうな鳥の姿が、少しだけ、自分と似ていると思ってしまった。

 私の得意な、感傷的で被害者ぶった共感の仕方だ。

 どうにも私という人間はこういう気質で素ができているようで、何かにつけて可哀想な枠組みの中に自分を置いて、自分の目の先の、でも決して届かない空間しか太陽は光をくれない、とか考えるのはもはや全自動的。常に思考の頭にマイナス記号が付いているみたいに、何かを考えたら考えただけ、思考の継ぎ目から悪い芽が吹き出てくる。


 こんな人間と一緒にいて楽しいと感じる人は稀だろう。いないとは言い切らない。私はそんなに世の中のことを知らないし、実際、そう言ってくれる人はいたから。

 コンコン、と扉がノックされる。


「――さん、手紙が来てましたよ」


 私は黙って受けとった。基本的に、私はあまり喋らない主義なのだ。私に手紙を渡した人もそれはわかっているので、「またお返事書いたら出しておきますからね」と微笑み混じりに言って、そのまま出ていった。

 封を切り、いつも通りの便箋を開きながら、よく飽きないな、と思う。それは私自身もそうだし、何よりこんな私と時代錯誤な文通を続けているこの人に対して。

 別に私だって連絡手段を持っていないわけじゃない。電話はもちろんしたことがないけれど、メールアドレスくらいならいつだって教えられるのだ。いや、実際教えたこともあるはず。手紙って、一通書いて送るのにいくらかのお金がかかるし、届くのはどれだけ早くても二日後だ。

 それなのに、この人はいつまで経っても手紙を送ってくる。メールアドレスの件については全く触れられないまま。もしかしてスマホ、持ってないのかな。いやそんなわけない。私もこの人も高校生なのに。


 お互い返事の手紙を出すのは一週間から、遅くても一ヶ月以内。書く内容は近況報告から、読んだ本の話、つい気になったこと、なんとなく思いついたこと。総じて、なんでもない話が九割くらいだろうか。私は基本的に喋らないスタンスだけれど、文字でなら何を書いても平気だと気づいた。それでも、なんでこんなことしてるんだろうって気持ちにはよくなるけれど。

 この妙なやり取りを始めてから、もう五年になる。

 手紙には今日も、私の知らない学校の話と、私の知ってる本の話が書いてあって、最後にはいつも通り、『じゃあ、また』と綴られていた。

 変わらない。あまりにも代わり映えのしない日常だった。

 私は他にやることもないので、早速返事に着手することにした。ベッドに備え付けられた簡易机を設置し、引き出しから便箋を一枚引っ張り出して、ボールペンを手に取る。


『久しぶり。――くんの文章は段々上手になっていくね。私は変わらず、鳥が飛んでいるのを眺めてたら午前中が終わりそうだよ。鳥が飛んでいるってさ、なんだか気持ちの悪い文章だと思わない? 人が歩く、よりも当たり前のこと言ってるみたいで。でもさ、鳥はまだ歩くこともある分、ちゃんと飛んでいるって描写は省く気になれなかった』


 何書いてるんだろ。

 でも、この時間は嫌いじゃなかった。たった一人しか読まないこの便箋の上でのみ、私のろくでもなさが許されている気がして。無駄な部分を吐き出すことで、頭の中のざわめきが少しクリアになる気がした。

 けれど、クリアになればなるほど、そこには純粋な疑問符だけが残ってしまったりする。雑音のおかげで考えなくて済んでいる、どうしようもない疑問符が。


「……なんで生きてるんだろう」


 これは自分に向けての独り言だった。

 手紙が終盤に差し掛かるにつれ、その独り言がボールペンの先から便箋に滲み出たりしないかと怖くなった。これは、この手紙はきっと彼にとっても心のノイズを吐き出すためのもので、こんな答えようのない問いかけを書き残すわけにはいかない。

 そう思う自分と、そんな気遣いは馬鹿馬鹿しいと感じる自分がいた。むしろ後者の自分の声の方が、ずっと大きい気がした。


『私が君を困らせたら、君は順当に私を嫌いになるだろうね。だって私たちはこれだけ言葉を交わしていても、ちっとも体重を預け合ってないし、いつどちらかがいなくなっても生きていけるようにしか関わってないもんね。別に君に何かしてほしいとか、そういうことじゃなくて、ただ世界はそういうふうにできていて、その仕組みの中で、私たちは比較的うまくやれている方だけど、ときどき、頭がおかしくなりそうになる。見せ合うのは上っ面だけで、汚いところは見ないで、それだけ、それだけ守ってれば平穏に回る世界に、頭がおかしくなりそう。ねえ、ごめん、君ならわかるような気がして、あの、変』


 そこでボールペンの先が滑り、便箋は派手に破れた。呼吸が乱れていた。私は机の上の手紙を見直す。文字は途中から便箋のガイドラインをはみ出して、荒く粗雑なものになっていた。流れている涙が誰のものなのかわからなかった。


 その日から、私は手紙を書かなくなった。

 五年経って初めて浮かんだ、彼に伝えたいことは、きっと文字なんかでは伝わらないことなのだと気づいたから。


 私は同じ夢ばかりを見るようになった。子供じみたゲームで、たくさんの人間が死ぬ夢だった。夢の内容が鮮明になればなるほど、私の体は枝のようになっていった。

 改めて、手紙を書かなくなってよかった。日に日にこけていく頬を指でなぞりながら、そう思う。

 これ以上、彼とどんなかたちであれ繋がり続けていたら、彼と会うような事態にもなっていたかもしれない。

 それは、それだけは避けるべきことだ。

 いつかもし、彼に会うことがあったら、私は。


 ――私は、彼を殺してしまうかもしれない。

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