登校という行為が楽しかったことなんてないけれど、今日のそれは普段とは比べ物にならないほど憂鬱だった。
誰もいないリビングで家に置いてあった食パンを焼いて食べ、初めて自分でコーヒーをいれた。妙に薄く仕上がったコーヒーは、ほとんど白湯みたいだった。
無音の朝は落ち着かなくて、意味もなくテレビをつけたが、どこのチャンネルも砂嵐だったので母が録画していた観たことのないドラマを流した。顔しか知らない俳優が脈絡のわからないことばかり喋ってくれるので、ただの環境音として扱えてそれはそれでよかった。
世界が滅んだシュミレーションプレイとしては完璧に近い朝だった。とても肝心なシーンなんだろうな、と初見でもわかる湿っぽい絵面を前に制服に着替え、最寄りの停留所に向かったが、当然バスなんて来るはずもなかった。
このままここで待ちぼうけていればサカナも僕のことなんか忘れてゲームを始めてくれるかもしれない。そんな妄想に浸り始めていると、自転車に乗った野崎が僕を迎えに来た。
「やっぱりここにいると思った。バス、来るわけないじゃん」
野崎は今日も調子がよさそうで、ウルフヘアが彼女の輪郭をなぞって踊っているみたいに跳ねていた。
「わざわざ来なくてよかったのに」
僕が言うと、
「往生際が悪いよ。サボれるわけないでしょ」
と一蹴され、僕は昨日に引き続くかたちで野崎の自転車の後ろに跨った。
野崎の運転する自転車は学校に続く坂の前で止まり、「ここからは歩いて」と野崎が言って、「普段はどうしてるの」と僕が訊いた。「気合いで登ってる」と野崎がそれに答え、「なるほど」と言って僕は野崎の自転車から降りた。
「僕がそれ、押して上がるよ」
「余計な体力使わない方がいいよ」
「君に体力を温存しといてもらえると後で助かる」
「確かにそうかも」
そんなやり取りをして、二人で坂を登った。少しして、僕らからだいぶ間隔を離して同じように自転車を押して歩く生徒の姿があった。僕も野崎もそれを認識していたけれど、お互い触れることはなかった。
そして、サカナは現れた。
「おはよう、スケールメイトのショクン」
八時二十五分。
僕と野崎を含め、グラウンドに散り散りになってクラスメイトは集結していた。中には頭を抱えて蹲る者もいたが、おそらくサカナによって強制的にここに連れてこられたのだろう。僕は少しだけ、心の中で野崎に感謝する。
「ほら言ったでしょ」
僕の心の中を見透かしているみたいに野崎が言った。
「今日はあれ、やらないんだね。『殺す』ってやつ」
無視された。
「サンジュウイチニン、カけることなくシュウゴウだ」
グラウンドに置かれた朝礼台の上にサカナはぷかぷかと浮かんで、全員が揃ったことに満足しているみたいに鰭を動かしていた。端の方にいる僕らにもサカナの声は不思議と明瞭に聞こえたが、今更そんなことに頓着する気にもなれなかった。
それよりも僕が気になったのは、
「あの人、昨日の」
「ああ、完全に服従してるって感じだね」
僕たちと十メートル離れた先で固まっている、昨日交戦した眼鏡の男子生徒と、それを囲むように集まった三人の、いかにもといった感じの不良たち。体育館で殺されかけていた、茶髪の男子生徒の姿もそこにはあった。
「フォーマンセルか、案外一番邪魔かも。最初に狙うのはあのグループだね。まだ連携も取れてないだろうし、一気に潰せればポイント美味しいよ」
野崎は狩りの対象としてしか見ていないような口ぶりで彼らを評した。頼もしいことだ。
野崎の殺戮プランを聞き流しつつ、僕は静かにある人間を探していた。が、まだ自己紹介も済んでいない身分の僕に個人の特定など叶わない。
「……やっぱり一人で動いてるんだろうな」
「なんのこと?」
僕の独り言に野崎が反応する。少し口にするか躊躇ったが、やはりチームを組んでいる以上、懸念点は言っておくべきだろう。
「アカツナオヤ。昨日、野崎と並んでポイント一位だった人」
「ああ、あれね。実は私もよくわかんない」
「……どういうこと?」
僕がクラスメイトの名前をわからないのは至極当然のことだ。だって僕は昨日転校したばかりで、野崎以外に名乗ったこともないほど、この学校、ひいてはこのクラスの『部外者』なのだから。
でも、野崎は違う。昨日よりずっと前から野崎は『アカツナオヤ』と同じ学校に通っていて、少なくとも見かけたことくらいはあるはずだ。それに野崎と並ぶポイント数を稼ぐ高校生なんて、普段から目立ってしょうがないはず。
「だって多分、その人も求と同じ、転校生だもん」
野崎はしれっとした態度で、とんでもない事実を言ってのけた。
「は?」
「は? じゃなくて。昨日うちのクラスに転校してくるはずだったのは二人なの。一人は求。それで、もう一人が多分、あの人かな? 消去法でいくと」
野崎が視線をやった先には、グラウンドの地面に座り込んで、サカナの次の言葉を待っている、目元まで伸びた長いパーマがかった黒髪が特徴的な男子生徒がいた。
座ってはいるが身長はおそらく僕と野崎よりも十センチ以上高く、体格は細身ながら要所要所の筋肉のつくりがしっかりとしていた。おおよそイメージ上の陸上部、それも短距離選手みたいな体のつくりだった。
髪型の印象からして、やはり彼は野崎とどこか似ている。野崎が白い毛並みのニホンオオカミなら、彼はサバンナを生き抜くハイエナのような、頬杖をついて座っている姿だけで、どこか血の匂いの濃い野性味を感じさせる出で立ちだった。
「……転校してくるタイミングが被るなんてことあるのかな」
「それはこっちのセリフだよ。同じ学校だった二人が示し合わせて同じ学校から転校してきた。どんな青春ドラマだよって感じだけど、薪があったら人は燃やさずにはいられないってことだね。そういう憶測だって立ってたんだから」
文句を言いたいのはこっちの方だ。そんな顔で野崎は言う。文句を言われても困るんだけど。
……でも、なるほど。
天文学的な確率だけれど、それならそれで、よりいっそう彼の不気味さは増す。
だってそれは彼が、『転校初日で顔も名前も知らないクラスメイトを四人も殺せるような人間』だという事実に他ならないのだから。
「野崎、あいつには極力近づかないようにしよう」
「そう? むしろ真っ先に潰しておいた方が気が楽になりそう」
僕は思わず頭を掻きむしる。
なんでこう、僕のチームメイトは血の気が多いんだ。
「とにかく、いずれ戦うことになるなら尚更、少しでもあいつの情報を得てからにするんだ」
「相変わらず逃げ腰だねえ求は」
「そこ、シゴはホドホドにね」
こともあろうか僕たちは、サカナにそう注意された。
「殺す」
「だからそれやめろって」
杭を飛ばそうとする野崎を、僕は羽交い締めにして制止する。もちろん彼女が本気で動けばこんな拘束は虫の抵抗に等しいが、今度ばかりは野崎も素直に言うことを聞いてくれた。
野崎も野崎で、アカツナオヤも含め、二日目のゲームにある程度の警戒はしているのだろう。
「サッソクサツイムきダしのコもいるみたいだし、ゲームにウツろう。キノウにヒきツヅき、ルールにヘンコウはないよ」
サカナはあくまで主宰者という落ち着きぶりでそう言い、「だが、」と少し低い声で続ける。
「――キョウのゲームカイジョウはここじゃない」
そして次の瞬きの後、僕たちの視界は一転する。
「このバショで、キミたちにはコロしアってもらう」
――真夜中の、商店街へと。
二日目のゲームが、始まった。