「糸、なんだね。戸塚くんのウロコ」
呆気にとられている僕の隣で、野崎が呟く。
糸? って、もしかして……。
よく目を凝らすと、戸塚の足元から周囲の壁に、何か、それこそ細い糸のようなものが伸びているのが見えた。
まさか、と思い辺りの空間を注視すると、その糸のようなものは、既に僕たちのいる裏路地のあらゆるところに張り巡らされているようだった。
まるで蜘蛛の巣だ。
「正解、さっすが野崎ちゃん。こんな小手先の手品じゃ全然驚かないんだもんな」
いや、十分驚いてる。少なくとも僕は。
糸、つまりはワイヤー状のウロコなのだろうが、タネがわかっても尚、そんな細い足場の上に軽々と立っている戸塚の身体能力に驚く。別に運動部でもなさそうなのに。
「昔からバランス感覚にだけは自信あってさ。このウロコとは相性バッチリってわけ。俺、運がいいよね」
「……運、なのかな」
戸塚の話を聞いて、僕の中に微かにあった憶測に色がつく。
「どういうこと?」
意外にも野崎が食いつく。彼女はこういう机上の空論にはあまり興味がないと思っていた。
「もしかしたら、だけど、サカナは僕たち……スケールメイト一人一人の特性も考慮した上でウロコを与えてるんじゃないかな。野崎の杭も、昨日の彼のハンマーも、パッと見すぐに使いこなせるような代物には思えない。――でも、実際はちゃんと使えてる」
「へえ、面白い考察だねえ掛田くん。確かに言われてみれば、野崎ちゃんの杭も俺の糸も、あんまり武器って感じの武器じゃないし。それでも武器として使えてるのはあくまで、最初から俺たちに合うように考えられたウロコだからってことか」
戸塚は第一印象よりもずっと論理的に、僕の発言の意図を汲んで要約した。
「そう、これも一種のバランス調整なのかもしれない。この、殺し合いの」
「ふうん、なるほど」
黙っていた野崎が、いきなり何かに納得したようにそう言った。
「それなら合ってるね、私の読み」
「読み?」
「求のウロコの話」
「あっ、そういえばそうじゃん! 俺、まだ掛田くんのウロコがなんなのか知らないんだよ! 俺も教えたんだし、仲間なんだから教えといてよ」
糸から弾みのある動きで飛び降り、戸塚はずいっと僕に近づく。あまりにも流れるような動きだったから、僕はなんの警戒もないままに、接近を許してしまう。
「仲間にした覚えはないけど」
「手厳しいなあ野崎ちゃんは。でもよく考えて。少なくとも掛田くんはわかってるはずだよ。……俺がここから掛田くんの頭を落とすのに、一秒もあれば十分だってこと」
戸塚の飄々とした立ち振る舞いが、たったひと言で不気味さに切り替わる。もちろんこんなのは脅しで、本気じゃない。そんなことをしたら、次の瞬間、彼の体には野崎の杭が突き刺さるだろう。
でも、この男なら、ふとした気まぐれでそんな釣り合わない天秤に手をかけそうな、戸塚の変わらない調子の声には、そんな不穏さがあった。
戸塚の手には既にワイヤーが用意されている。僕は直観的に理解した。彼はそのときになれば、必ず最速で行動に移す。その数瞬後に自分が串刺しになっても、僕の首だけはそのワイヤーで締め切るつもりだ。
自分の頭が落ちるところを想像して、吐きそうになった。しかし下手な動きはできない。僕の『あれ』も、このシチュエーションでは効果的じゃない。
こめかみから流れた汗が、顎先から落ちるのを感じた。
「仲間になりたいんじゃないの?」
「なりたいよ。でも仲間にしてくれるまでは一人の野良プレイヤーだ。多勢に無勢で負け不可避なら、せめて一人くらい道連れに持ってくのが常套手段じゃない?」
野崎は何も言い返さなかった。きっと、彼女が戸塚と同じ状況なら、迷わずそうすることを選ぶから。だんだんわかってきたけれど、戸塚はどこか野崎と近しい部分がある。
「それともあれかな。掛田くんのこと殺せば、案外あっさり俺が掛田くん枠に成り代われたりすんの? 野崎ちゃんって、それくらい合理主義でしょ?」
それは……ありえるんじゃないだろうか。
我ながら、自分が戸塚に勝っている部分が思い当たらない。野崎の目的がこのゲームを完封して終わらせることなら、戸塚は僕なんかよりずっと野崎のチームメイトとして適任だ。
右手の中には既に僕のウロコ……起爆スイッチが握られている。
どうする? どうせ死ぬなら、自爆覚悟で押すか?
「いいよ、仲間になろう」
僕の思考が最終手段まで手をかけ始めたころ、野崎は潔くそう言った。
正直、意外だった。
「おーけー、それが一番助かる。俺って実際、こういうのキャラじゃないからさ」
野崎の言葉を合図に戸塚は一瞬で緊張を解き、僕の首を落とそうとしていたワイヤーで器用にあやとりを始めた。
「簡単に信じるんだね」
野崎がどこか感心したように言い、
「まあね。ってか、仲間信じないやつなんかいらないでしょ、二人とも」
と戸塚は当たり前のことのように返した。
僕は完全に置物と化していた。
「ごめんよ掛田くん。俺、野崎ちゃんと相討ち狙う勇気なんかなくてさ。別に掛田くんを舐めてるってわけじゃないから、許してよ」
嘘だ、と僕は思う。
「もっとちゃんと謝って」
言いながら、野崎の持った杭の先端が戸塚に向く。
「うおっ、嘘でしょ? 今仲間になったのに!?」
「……野崎と仲間になるっていうのはこういうことだよ、戸塚くん」
「はは、すごいな。経験者は語るってやつだね。……ごめん、掛田くん! 俺、正直君のこと舐めてた! でもきっと、掛田くんのすごさってそこじゃないよな」
「素直になった方がむしろ鋭利になったね。そんな無理くりフォローしてくれなくてもいいよ」
僕が言うと、戸塚はひときわ小さな声で僕に耳打つ。
「いや本心。マジのマジだよ。あの一人大好きな野崎ちゃんに執着されるって、一体何したの?」
「何もしてないよ。野崎と知り合ったのは昨日だし」
「それが異常なんだってば」
ひそひそと話す僕と戸塚の足元に、容赦なく杭が突き刺さる。アスファルトすらも簡単に砕くその鋭さは、野崎が僕たちに向ける視線のそれと全く同じだった。
「……何? 今度は私が仲間はずれ?」
「いやいや違うよ野崎ちゃん! これは男と男だけの……」
「説明は大丈夫、二度としないでくれたら」
「ヤバすぎ。鬼の子孫?」
「……なんか、賑やかになったね」