三日目の夜――ようやく、遺跡がその姿を現した。
切り立った崖の狭間に黒曜石のような巨大な石門が、まるでこの地を見下ろす守護者のようにそびえ立っていた。門の表面には無数の渦巻き模様が彫り込まれており、その模様が月明りを受けて、鈍く蠢くように光っている。
(あの模様、どこかで見た記憶がある。そうだ。両親の身体を覆っていた、病の発疹と同じじゃないか!)
不吉な既視感が、胸をぎゅっと締めつける。
「ここから先が、生還者たちが口を閉ざした理由……わかるかもしれないわね」
レイナ様の声が、張りつめた夜気にかすかに震えながら漂う。そのとき峡谷を駆ける風がびゅうと吹き抜け、石門の隙間から低く唸るような音が漏れ出した。
「……これ、生きてるみたいだ」
誰かがそう呟いた瞬間、俺の背筋を冷たいものが這い上がった。
騎士団が石門の前に陣を張る重々しい空気の中、ベテランのバルド様が指揮を執る。
「最初の試練は、この門を開くことだ。壁に何か手がかりがあるはず。皆で徹底的に探せ!」
騎士様たちが一斉に動き出す。門に刻まれた渦模様を調べ、力任せに押す者、剣で打ちつける者、それぞれができることを試してみたのだが、門は微動だにしない。苛立ったバルド様が、吐き捨てるように叫んだ。
「無駄だ! 爆薬でも持ってくるべきだった!」
その声を聞きながら、俺はふと鞍袋に手を伸ばした。
(――そうだ。あの石片……)
業者のハンスがくれた、不思議な渦巻き模様が刻まれた石。彼の言葉が耳に蘇る。
『隣国の生還者が持ち帰った石だってさ。願いを叶える力があるとか……まあ、俺にはただの石ころにしか見えないから、お前にやるよ』
ポケットから取り出し、松明の灯りにかざす。石に刻まれた模様が、門のくぼみと一致しているのに気づいて、胸が高鳴った。
「これだ!」
「どうしたの、それ?」
俺の叫びに、レイナ様がすぐに駆け寄ってくる。
「これ、ハンスからもらった石です。試してみます!」
石を門のくぼみに嵌めると、カチッという小さな音が鳴った。直後、ゴゴゴという地鳴りのような音が遺跡全体に響き、門がゆっくりと、しかし確かに動き始めた。
石が振動で外れ、落ちたのを慌てて拾い上げた瞬間、騎士たちからどよめきが起こる。ガレンが俺の肩をぽんと叩き、ニッと笑った。
「お前、やっぱりただの馬番じゃねえな。やるじゃないか」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。――初めて、自分がこの旅に必要とされている気がした。
だがその喜びは、すぐに氷のような恐怖にかき消された。
開いた門の奥からひやりとした風とともに、闇に蠢く触手のような影が這い出てきた。門のそばにいた騎士数名が悲鳴をあげる間もなく、その影に呑まれた。
「逃げろ!」
ガレンの怒声が響く。俺は咄嗟にルーンの手綱を握りしめ、恐怖で凍りついた体に命じて動かす。だが、レイナ様は一歩も引かなかった。
「これは試練よ! 怯んでる場合じゃないわ!」
彼女の剣が、暗闇の入り口に向けて構えられる。その姿に勇気づけられ、騎士様たちも次第に体勢を立て直していく。
門の奥は、光が一切届かない深い闇。騎士様たちが松明を掲げて進むと、濡れたような石の壁が浮かびあがる。その表面には、古代文字が刻まれていた。
『病は石の怒り。癒すは試練を越えし者のみ』
その言葉を読んだ瞬間、俺の脳裏にあの人の声が蘇る。
「私になにかあったら、アレックスが民を導いてね。優しくて勇気のあるあなたなら、きっとできるわ」
あれは、いつだっただろうか。俺はまだ幼く、両親の仕事を手伝いながら、姫様の話を聞くお世話係をしていた。
それは春の日の中庭でリリアーヌ姫が、庭園の片隅で花の冠を編んでいた。俺は掃除用のバケツを抱えて通りかかっただけだったのに、姫はふと手を止めて、優しい笑顔で声をかけてくれた。
「アレックス。ねぇ、ちょっとこっち来てくれる?」
「は、はい!」
慌てて近づくと、姫は膝の上に完成した花冠を乗せて、少し恥ずかしそうに言った。
「もしね、私に何かあったら、アレックスが民を導いてね。優しくて勇気のあるあなたなら、きっとできるわ」
「え……僕がですか? そ、そんなの、騎士様や貴族の方が……」
言いかけた俺の言葉を、リリアーヌ姫は小さく首を振って遮った。
「民のことを一番近くで見て、話をよく聞き、涙に寄り添える人が、誰より強いのよ。あなたにはその力がある。私はそれを信じてるわ」
その言葉が、胸にしっかりと刻まれていた。俺にできるわけがないと思っていた。けれどリリアーヌ姫が、俺を信じてくれた。
姫様のあの微笑みが、恐怖で萎縮しそうになる心に火を灯す。
「行くぞ、皆!」
バルド様の号令が響く。騎士様たちがそれぞれの覚悟を胸に、暗き通路の奥へと足を踏み入れて行く。俺も震える手を抑えながらルーンを導き、最後尾からその後を追った。
何が待ち受けていようとも、俺は姫様を救う。そのために、諦めるわけにはいかない。
(馬の世話しかしてこなかった俺が、そんな大それたことをできるのか……)
ふとよぎる弱音。しかし、だからこそ――せめて騎士様たちの助けになりたい。かわされる会話に耳を傾け、彼らの表情や動きに気を配る。
俺にできることをやるべく、集中して遺跡の中を進んで行ったのだった。