乾いた風が、砂の上を流れる。
砂埃が舞い、星も
月明かりだけが差す夜の帳の下。
砂漠に点在する小さな湧き水のほとりに、黒髪の少女が横たわっていた。
(……冷たい)
頬に当たる砂の冷たさで、次第に意識が戻ってくる。
砂は、生物を拒絶するような、異質な冷たさを放っていた。
一瞬力が抜ける感覚があったが、淡い光が少女を包み、脱力感はすぐに消える。
だが、動くことはできなかった。
固く結ばれた縄が、ザーミーンを締め上げている。
昼の熱気も去り、少女は寒そうに身を震わせる。
ぱちぱちと燃える焚き火は、彼女からやや遠い位置にあった。
その傍らには、三人の
獰猛な大顎が、生肉に喰らいついている。
複眼は、食事中も油断なく虜囚を見張っている。
黒い外骨格が冷たく光り、少女に威圧感を与えていた。
(でえれえことじゃが、ほいでも蟲人でまだよかったけん。こやつらは下級兵じゃ。魔力を持っておらん)
ザーミーンは、自分がなぜここにいるのかわからなかった。
覚えているのは、強烈な光と差し出された手。
そして、耳をつんざく悲鳴。
(王国に砂漠なんてなかったはずじゃが……)
ならばここは異国だろうか。
不安が押し寄せてくる。
(大戦はどうなったんじゃろ)
迎撃に出た王国軍は、ナマク湖のほとりで侵攻軍と激突。
ザーミーンも、その一翼である。
父親の役に立つため、少女はその力を磨いてきた。
彼女の咆哮は敵兵は震え上がらせ、その爪は数多の蟲人をなぎ倒した。
だが、敵の本隊の防壁を崩せず、突撃はそこで止まってしまった。
事態を打開すべく、エスファンディアルが女神の大魔法を行使しようとしていたはずだが……。
「キョキュキュ……砦の跡がまだ残っていてよかったぜ。お陰で水が飲める」
一番大きな蟲人が、骨を吐き捨てながら言った。
少女は息をひそめ、聞き耳を立てる。
「ここが落とされたのは、二ヶ月前か。結構大きな砦だったのに、いまじゃもうこの程度の魔力しか残ってねえんだな」
「キョキュ……
「
彼らが話に熱中しているならちょうどいい。
縄がほどけるか、試してみる。
だが、身じろぎをしただけで、ぎろりと蟲人が睨んできた。
彼らもまた、戦場の経験を積んできた戦士なのであろう。
食事中でも、油断している様子はない。
絶望が、重く心にのしかかる。
緑晶石のような目を閉じると、ザーミーンは恐怖を追い出そうとした。
生きながら喰われた仲間もいる。
そんな死に様だけはごめんだ。
「キョキュキュ……それにしても、本当に人間がいるとはな。
「おかしな光が出たときにはびっくりしたけれどよ」
どくん、と少女の心臓が跳ねた。
彼らは、ただザーミーンを捕まえたわけじゃない。
明確に、そこに彼女がいると知っていたのだ。
(預言者……。双角神の代理人)
焦燥が、少女の身体を灼く。
だが、そのとき、不意に絶叫が闇夜を切り裂いて響き渡った。
(──襲撃!)
蟲人の一人の頭に、矢が突き立っている。
それを見た残りの二人は、瞬時に立ち上がり抜剣した。
「キョキュー!」
「敵襲だ!」
「傭兵だ、油断するな!」
暗闇の中から、いきなり笑みをたたえた若い男性が現れる。
冷酷な細い眼差しと、貼り付いた笑顔。
瞬く間に、一人の懐に滑り込む。
剣先が頭上から振り下ろされる前に、彼の短剣が心臓を鋭く抉っていた。
「
「はっ、おれも有名になったもんだぜ」
憎悪と恐怖を込めた声とともに、また一人が崩れ落ちる。
「猛き双角神よ!」
生き残った一人が、若者と対峙する。
ザーミーンは、咄嗟に跳ね起きると、後ろから蟲人の足を払った。
体勢を崩す蟲人。
倒れながら、複眼が激しく明滅する。
恐怖と憎悪が入り混じった目。
無理やりに少女に向けて剣が振り下ろされる。
衝撃、そしてかん高い音。
だが、刃の下に生まれた輝きが、その到達を阻む。
同時に、黒い外骨格を貫き、頭に矢が突き刺さった。
「女神にかけて!」
倒れる蟲人を蹴り飛ばすと、若者が天を仰ぐ。
「援護が遅いですぜ、キミヤー。間に合わなかったじゃないですか」
短剣の血を拭うと、若者が舌打ちをする。
その背後から、左目に赤い眼帯をつけた初老の傭兵と、弓を携えた美しい
「べバール、あなたも
辛辣に女性が批評する。
べバールと呼ばれた初老の男は、懐中から煙草を取り出すと、火口で火を付けた。
「いつまでも年寄りに頼るでない。若者の力を信頼したまでだ」
「
ティグヘフと呼ばれた若者が、近づいてくる。
その伸ばされた手が、途中で不自然に止まった。
「女神の黄金の目にかけて! こりゃ驚いた。隊長、こいつ無傷ですぜ」
「なに?」
べバールの声にも、驚きの色が混ざる。
蟲人の膂力は高く、その斬撃の威力は侮れない。
まともに受ければ、致命傷を負ってもおかしくないのだ。
「そいつはすごいな。普段鉄でも食べているのか?」
ザーミーンの傍らで、べバールが膝を折る。
肌に触れようとして、手を止めて首を捻る。
何かを、見つけたような表情。
ザーミーンの肌には、うっすらと鱗のような紋様が現れており、次第にそれが消えていこうとしていた。
「……
べバールの頭上で、女性が
そんな莫迦な、とべバールが首を振る。
自分の力を正確に見抜いた二人に、ザーミーンは少し警戒心を持つ。
「きれいな鱗だな。親戚にうわばみでもいるのか?」
べバールが煙草をくゆらせる。
ザーミーンは三人を順に見比べると、最後にまたべバールに向き直った。
彼らのことはよくわからないが、助けてくれた以上敵ではない。
「あいにく、うちの家族は人間しかいませんよ。あなた方はあの蟲人たちを追っていたんですか?」
「いや、神殿からこの砦跡を見てくるように依頼を受けてな。来てみれば、迷惑な先客がいたもんでね。早々とご退場を願わせてもらった。わしは、都市ティラーズに拠点を置く
「ティラーズの傭兵でしたか。助けてくれてありがとうございます。うちはザーミーン。神官長とはぐれて、探しているんですよ」
「ほう。小言の多い神官長に会いたいなら、連れていってもよいぞ。見ての通り、キミヤーは
ありがたい申し出であった。
どうやら、ザーミーンの上司はティラーズにいるようだ。
王都から移った理由はわからないが、無事であるなら戻らねばならない。
「あなたがザーミーンね。父が言っていたのは本当だったんだわ。まあ、聞きたいこともあるけれど、先に勤めを果たしましょう。ザーミーン、かわいい娘、あなたも手伝ってもらえるかしら?」
べバールの後ろに立っていたキミヤーが、転がる敵兵の亡骸へと移動する。
神官の勤めを果たすのだろう。
ザーミーンも立ち上がり、その隣へと動いた。
女神官は長い睫毛を伏せ、形のよい唇から詠唱を始める。
鈴のような声。
思わず聞き惚れそうになったザーミーンは、慌てて自制すると自分も詠唱を始めた。
二人が掲げた手から光が生じ、三体の亡骸へと吸い込まれていく。
すると、それ自体も光り始めた。
その間、さりげなくべバールとティグヘフは周囲を警戒する位置に移動し、二人の守りに付いている。
歴戦の傭兵らしい動きにザーミーンも心強さを感じた。
物哀しい詠唱の声が続く。
亡骸の光はさらに強まる。
そして、次第にその光の中に亡骸自体が消え去っていく。
(アレイエの御許に)
ひときわ大きい輝きが放たれる。
そして、光が消えた後にはもう亡骸は残っていなかった。
「お勤めご苦労。二人とも、今年の感謝祭の祭司を狙えそうな見事な声だな。神官というのも間違いなさそうだ」
煙草の煙をゆっくりと吐くと、べバールが近づいてきた。
ティグヘフは、まだ周囲の警戒に当たっているようだ。
これは試されたのかもしれない、とザーミーンは思った。
「彼女は本物よ。でも、不思議なことに、王都の神殿の流儀なの。聖句にセパーハーンでしか使われていない癖があるわ。ザーミーン、あなたはどこから来たの?」
儀式の手際から、キミヤーが高位の神官であることはわかっている。
ザーミーンは懐から
「へえ。うちは、セパーハーンの神官長エスファンディアルの直属です」
べバールと、キミヤーが顔を見合わせる。
二人とも、困ったような表情をしていた。
「神官長の髭にかけて。──お嬢、こんなことってあり得るんですかね」
いつの間にか、ティグヘフが後ろに立っていた。
口許に笑みはあるが、その糸目は笑っていなかった。
「本当かどうか、賭けませんか、隊長」
ぴんとティグヘフが銅貨を弾く。
べバールは、煙草の煙を吐くと肩をすくめた。
「やめておくさ。わしは命を賭けない賭け事はやらん」
「もったいないですぜ。賭けってのは金を使った遊びなのに。隊長は仕事でやっているじゃないですか」
軽口を叩く若者を、女神官が睨む。
たちまち、ティグヘフは口を閉じた。
「彼女が、セパーハーンの神殿所属の神官というのは本当よ。父がわたしにそう言ったもの。砦跡で、百年前のセパーハーンから来た神官を助けなさいと」
「で、でーれー!」
キミヤーの言葉に、少女は目を見開いた。
思わず、訛りが出るのを抑えられない。
王都に所属していたとはいえ、ザーミーンは地方の田舎の村の生まれだ。
普段は都会の女っぽさを装っているが、時折素性が出てしまう。
「王都は、双角神の眷属に占領されているのよ。百年前の大戦に敗北し、王都は陥落してしまったの。いま、人はセパーハーンに立ち入ることはできないわ」
「大戦に……負けたじゃっと」
動揺するザーミーンに、べバールは憐れみの視線を向けた。
いかに神官とはいえ、彼女はまだ十代半ばの少女であろう。
「最近の世界は驚きに満ちているようだな。おまえさん、この
「吸魔の砂漠……ここは王国なんですか? てっきり蟲人の国かと思っていましたが……」
「昔は王と名乗る者が治めていたようだな。だが、王の血は百年前に絶えた。人は、やつらの侵攻を防ぐために、自らの土地を砂漠に変えたのだ。魔力を吸い尽くす砂漠にな」
べバールの説明を聞き、ザーミーンの血の気が引いた。
ここは異国ではなく、かつての王国であったとは。
確かに、いくら優秀とはいえ、傭兵三人で敵国に潜入するはずもない。
王都がすでに敵の勢力圏ということは、ここは王都とティラーズの間あたりということだろうか。
「それと、キミヤー。
「ええ」
キミヤーが、思慮深い眼差しをザーミーンに向ける。
「思い出したわ。英雄エスファンディアルには、娘がいた。