王国西部を南北に走る大山脈セトン・ファガラート。
峡谷を抜けた先に広がる緑の高原。
荒涼とした砂漠に慣れた目には、鮮やかすぎる色彩であった。
麦の穂が揺れるその先に、白い尖塔が見えてくる。
美しきティラーズ。
かつては、王都であった時代もある。
「ティラーズは初めてかい、嬢ちゃん」
暗殺者の若者は、黒装束から商人のような平凡な服装に着替えている。
巻き毛の金髪と絶やさない笑顔で、いかにも害のなさそうな市民に見えた。
「へえ。うちは東部のアレイヴァの出身ですんで、西部の都市はセパーハーンしか行ったことはないです」
「王都は遊ぶところがないからなあ。あそこは、敵の侵攻を防ぐための軍事都市だ。行ってもつまらんだろう」
主に少女の話し相手になってくれたのは、意外にもティグヘフである。
この若者は、知識も豊富で口も回る。
金に細かく博打好きのようだが、会話の相手としては面白かった。
「ティラーズの
口うるさいじじいだと、ティグヘフはこっそり耳打ちする。
少女は、くすりと笑った。
「悪い人ですね。キミヤー様に叱られますよ」
「女神の公正な目にかけて、ザーミーン。正直なところ、どんなに内緒にしても、お嬢に隠し事はできない。なぜか知っているんだよ。絶対に、勝てない。それを胸に刻んどけよ」
軽口で慰めてくれているのがわかる。
ザーミーンの尊敬する父、エスファンディアルはもういないのだ。
人類の英雄と称えられた大魔術師も、百年前の大戦で多くの
それを知らされたとき、ザーミーンは幼児のように大泣きした。
父を手助けしたくて、田舎から出てきたのだ。
父の横を並んで駆けるのは、誇らしかった。
だが、もうそれも過去の話となってしまっている。
戦場で散った同胞たちは、女神のもとにも還れず
そう考えると、腸が千切れるほど悔しい。
「
ティグヘフが少女の影に立つ。
すると、その身体が次第に影の中に沈んでいくではないか。
「でーれー!」
驚愕のあまり、ザーミーンが叫ぶ。
「
ザーミーンの驚きを見て、ティグヘフは満足そうに笑いながら影から出てくる。
「ああ。あそこは砦の跡だから、まだ魔力が残っているんだ。だから、少しなら使えるのさ。ザーミーンも、
「ええ……まあ。砦ってのはなんですか?」
「ああ。連中、魔力を吸われるのを嫌がって
砦をいくつも作られると、大軍が前進してきて砂漠が防壁として機能しなくなる。
それで、セパーハーンは陥落したそうだ。
当時は大戦で騎士も傭兵も失い、王国も砦を攻略する戦力がなかったのだ。
「
神官は
聖印に蓄えられた魔力は、砂漠に吸われることがない。
だから、神官は傭兵に同行し、その命を繋ぐのだという。
「お話が弾んでいるようね、ティグヘフ」
キミヤーはべバールと先行し、麦畑を耕していた農民たちと話していた。
用事が終わったのか、女神官がゆっくりと歩いてくる。
暗殺者は、ばつが悪そうに頭を掻いた。
通常、先行して哨戒するのが彼の役目だ。
だが、いまはそれを怠けているとも言える。
キミヤーに何か言いたげに見据えられると、いつも居心地が悪くなるのだ。
「い、いやあお嬢。ちょっとティラーズの説明していただけですぜ。ザーミーンも、いまの状況を知らないといけないですし」
「そうね。口うるさい父に小言を言われないためにも、しっかりと教えておくといいわ」
「あいた」
ぴしゃりとティグヘフは自分の額を叩いた。
そして、少女にこっそり耳打ちする。
お嬢には隠し事ができない、と。
「ティラーズは特に変わった様子はないようよ。べバールは、先に父に報告に行ったわ。わたしたちも、神殿に来るようにと」
傭兵を束ねるのも、神官長であるフィルーズだ。
隊長であるべバールに報告の義務はあるが、神官にもそれはある。
だが、キミヤーは少女と同行することを優先した。
それだけ、ザーミーンを重要視したのだろう。
「少しは目の赤さも取れたようね。ザーミーン、胸を張りなさい。気持ちはわかるけれど、
キミヤーの言葉は厳しい。
その言葉の強さに、一瞬ザーミーンもうつむいてしまった。
だが、女神官に悪意がないのはわかっている。
これは、少女のために言っているのだ。
(大人の厳しさじゃ)
父の庇護の下にいたザーミーンは、それなりに甘やかされていた。
加護もあり、優遇されていたと言っていいだろう。
キミヤーも同じ父の手の中にいる娘のはずだが、彼女に甘さはなかった。
大人の女性の凛とした強さというものを感じる。
(きれいな御方じゃ。まっすぐで、強くて、芯が通っておるけん。憧れるわあ。うちもこんな感じになれたらなあ)
波打つ小麦の間を抜けると、城門が見えてくる。
山間に屹立する堅牢な城壁。
そこに、巨大な門が作られている。
門は開放されていたが、衛兵が二人立っていた。
「よう、暇そうでいいな」
「なんだ、帰ってきたのか、悪党」
ティグヘフが手を上げると、衛兵がにやりと笑った。
若者は顔が広いようだ。
「意外と早かったじゃないか。他の都市まで行かなかったのか?」
「ああ。今回は近場でね。ほらよ、神殿の印章」
「確かに。キミヤー様も、無事で何よりです。そちらは?」
衛兵が、ザーミーンに目を向ける。
神官の衣装をまとっているので、怪しむ様子はない。
「別の都市の神官さ。ティラーズを訪ねてきたそうだ。ほら、ザーミーン、聖印を持っているだろう」
「へえ。これがうちの聖印です」
少女は胸元から聖印を取り出し、衛兵に見せる。
衛兵は少し凝視した後、首を捻った。
「確かに聖印だが……なんかティラーズのとは違うな。他の都市だとこうなのか?」
「そうよ。聖印も、神殿ごとに特色があるの。それに、この聖印は特別なの。かつての王国でも、十個しか作られなかったものよ」
「そりゃすげえですね、キミヤー様。いや、キミヤー様がいる以上、疑う余地もありませんや。どうぞ、お通りください」