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第4話

 あれから数日が過ぎた。

 夜の商工会議所には、静けさよりも音と声の渦が広がっていた。


 太鼓を囲んで立つ人々のあいだを、掛け声と笑い声が交錯しながら飛び交っている。

 木のバチが皮を打つ音は、時に揃い、時にばらつき、空間の隅々に響いた。


 最初はぎこちなかった航のバチの握りも、今では自然に手に馴染み、打つたびに肘や肩が心地よく軋んだ。

 和太鼓の音は、腕で聞くものだった。鼓膜ではなく、骨を伝って身体の奥に届く。

 ドン、と打つたびに空気が揺れ、壁が少しだけ押し返してくる。その反動が背中まで戻ってきて、心臓とリズムを重ねる。


 手のひらにはマメの出来かけていた。張った肩と、二の腕に残る鈍い重さ。

 でも、それが自分の中に新しい「音」を通した証のように思えて、嫌ではなかった。


「先輩、マメできました?」


 明澄が、練習の合間に声をかけてきた。

 差し出された手のひらには、小さな水ぶくれが浮かんでいる。


「うん、まあ……これくらいなら大丈夫」


 航が応えると、明澄は少し安堵したように笑った。


「ドラムと違って、打った瞬間が全身に来るっていうか……ちょっと怖いくらいですね」


「怖い、ってより素直なんだろ。音が逃げねぇって感じ」


 そう言ったのは拓だった。

 腕をぐるりと回しながら、「筋肉痛がクセになりそうだな」と軽く笑う。


「まだ少し叩き方が硬い。抜けてる音、出てるよ」


 陸がぽつりと明澄に声をかける。

 それは指摘というより、調整の一環のようだった。


「ええー、結構いけてると思ったのに。まだ力、入れすぎてます?」


「まあ、後は慣れだよな。俺も昨日、腕つって歯磨きしながら呻いてた」


 拓の言葉に、航が小さく笑う。


 ドン、と一打だけ打ってみた。

 音が皮から空気に伝わり、壁を押し返し、それが全身に返ってくる。


 耳で聴くというより、骨で浴びる音。

 それが、今の自分にとって一番リアルな“音楽”だった。


「そのリズムはな、満ち潮に乗ってくる風の速さで叩くんだ」


 久保田宗介の声が、輪の向こうから響いた。


 白髪が肩にかかるほど伸びているが、背筋はまっすぐに伸び、眼光は鋭く、よく通る声を持っている。

 年齢を聞いていなければ、航の祖父と同世代とは到底思えなかった。


 宗介がバチを片手でくるりと回して見せる。


「風の音、聞いたことあるだろ。潮の早さ、波の返し。それを、手で叩いてみるんだ」


「それ……感覚でわかるものなんですか?」


 航が尋ねると、宗介は笑った。


「まあ、何よりも大事なのは、“音に気持ちをのせる”ことだな。腕の力じゃなく、腹と背中で打つ」


 その言葉を聞きながら、航はふと、宗介の立ち姿を見つめる。

 まだ元気だった頃の祖父・南雲航平の顔が、記憶の奥からぼんやりと浮かんでくるようだった。


 ──じいちゃんが、もし今もしっかりしてたら。こうして並んで太鼓を叩きながら、いろんな話ができたんだろうか。


 宗介は練習の合間に、町の昔話をぽつぽつと語ってくれた。

 市場の賑わい、網にかかった数百匹のカツオ、祭りの夜の喧騒。

 そして──若き日の南雲航平の話も、自然と口をついて出た。


「あいつはな、酒が入るとすぐ歌い出すタチでな。俺とふたり、帰りの舟で夜の海ん中、大声で唄ってよ……」


 祖父の記憶が、こうして他人の言葉で目の前に差し出される。

 航の口からも、聞きたくても聞けなかったことが、自然に出てきた。


「じいちゃん、昔から舟唄、よく歌ってたの?」


 航が訊くと、宗介は頷いた。


「おうよ。特に、舟の帰りはよく唄ってた。“星を見上げて、北を頼りに──”なんてな。俺は、ぜんっぜん歌詞を覚えられなかったけどな」


 それを聞いて、少しだけ胸があたたかくなった。


「ひとつとせ〜」


 誰かがふと、舟唄の出だしを口ずさむ。


「帆をあげろ……」


 もう一人が続く。

 声がばらばらに重なり合い、数え唄のように部屋の奥へと広がっていく。


 舟唄は、正しくなくてもいい。

 リズムもテンポもあいまいで、言葉もところどころ忘れられていたけれど──

 誰もそれを恥じず、否定もしなかった。


 不揃いな声が、まるで町の呼吸のように感じられた。


 航はただ静かにそれを聞いていた。

 太鼓を打つ手のひらが、少しだけ温かく感じられた。


 ◇


 夜の空気は湿り気を帯びていた。

 家に着いたのは九時を回っていたが、灯りはキッチンの一つしか点いておらず、リビングは薄闇に沈んでいた。


 食卓には、ラップのかかった夕飯が置かれていた。

 その内側に、冷えかけた味噌汁の表面に張った薄い膜と、ラップの内側にうっすら曇った水滴が光っていた。


 航がリビングのドアをそっと閉める音に、母は振り返らず言った。


「こんな時間まで、どこ行ってたの」


 その声は低く、感情はほとんど含まれていなかった。


「……音楽の練習。軽音じゃなくて……夏祭りの準備で」


 母が少しだけ振り向く。


「準備って、何の?」

「和太鼓。地元の太鼓保存会とバンドで、コラボやるって話で……それで、練習してる」

「和太鼓?……誰と?」

「久保田宗介さんって人。じいちゃんの、昔の知り合いで──」


 その瞬間。それまで黙って食卓の横に座っていた祖父が、ゆっくりと顔を上げた。

 乾きかけていた眼に、ふっと光が戻る。


「……宗介、か……懐かしい名前だ」


 それは、いつも曖昧に揺れていた声ではなかった。

 明確で、芯のある言葉だった。


 かつての祖父が、確かに“ここ”に戻ってきたような気がした。

 母が、一瞬だけ言葉を失った。

 航もまた、驚きと戸惑いで身体を強ばらせる。


「……その人に教わってる。最初は、なんで太鼓なんかって思ってたけど……やってみたら、なんか、自分の中が音になる感じで」


 自分でも、それがうまく説明できないことはわかっていた。

 けれど、話したいと思った。


「楽しい、って言えるほど簡単じゃないけど……叩くと、何かが届くような気がする」


 祖父は、黙って航を見ていた。


「……宗介に教わった、和太鼓か。……そりゃあ、聴いてみたいなあ」


 祖父の言葉に宿った意思に、母がふと目を伏せた。

 少しだけ、喉が動いて、息を飲んだのがわかった。


「……航。夏祭りが終わったら、塾の合宿にはちゃんと行くって、約束できる?」


 静かに出た、母の言葉。その声はかすかに揺れていた。


「うん。……約束する」


 祖父が小さく、満足そうに目を細めた。

 その目に浮かんだ光が、なぜか胸の奥にすっと染み込んでいく。


 夜の闇の奥で、何かが静かに満ちていく気がした。


 言葉にできないこの気持ちを、もし音にできたら。

 誰かと、それを一緒に奏でられたなら。


 そんな思いが、指先の奥でゆっくりと形をとりはじめていた。

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