翌週、侯爵家の屋敷は朝から落ち着かない空気に包まれていた。理由はもちろん、王太子アレストの来訪である。正式な連絡があってからすぐに準備を始めたものの、何かと不足している物が見つかり、急いで取り寄せるなど、使用人たちは総出で走り回っていた。シェラもまた、その一人として立ち働いている。
近頃、彼女は自ら領地視察に出向き、村や町の声を熱心に聞いていた。婚約破棄を言い渡されたショックが完全に拭えたわけではない。それでも、侯爵家に生まれた自分に何ができるのか――そう考えるほどに「領地を守り、発展させる」という目標が明確になっていったのだ。
そして、その姿勢は父である侯爵の目にも確かに映っていた。かつての彼女は、控えめで自己主張を苦手とする典型的な令嬢だった。しかし今や、現地の人々と同じ目線で話を聞き、課題を一つずつ洗い出し、それを父に報告する姿は、どこか頼もしさすら感じさせる。
だからこそ、今回の王太子来訪で「若い人の意見を聞きたい」という要望があがったとき、父は迷わずシェラを案内役に指名した。本人にとっては大きな重圧だろうが、それ以上に、自身の可能性を広げる好機でもあった。
そんな期待と緊張を抱えたまま、シェラは玄関ホールへと急ぐ。通りかかった侍女のメアリーが、落ち着いた声で話しかけてきた。
「お嬢様、まもなく王太子殿下の馬車が到着するそうです。外でお迎えをなさるご予定とのことですが……ご準備はよろしいですか?」
「ええ、ありがとう。メアリー、ドレスの裾が乱れていないか確認してくれる?」
今日は念入りに装いを整えた。婚約破棄でスキャンダルの渦中にいるという身の上ではあっても、王太子を迎える場に失礼があってはならない。柔らかなクリーム色を基調としたドレスは、派手さを抑えつつも、上質なレースの装飾が品位を感じさせる。
メアリーが素早く点検し、「大丈夫です」と微笑むのを見て、シェラは胸に手を当てて深呼吸する。この一歩を踏み出すごとに、過去の自分と決別して前に進むのだ――そう自分に言い聞かせながら。
扉の外へ出ると、すでに父と母が待機していた。緊張の色を隠せない母がシェラを見つけ、小さく会釈をする。父は厳めしい表情をしているが、その瞳は「大丈夫だ。落ち着け」というメッセージを伝えているようにも思えた。
そして数分後、正門の方から近衛騎士を先頭にした馬車の行列がこちらに近づいてくる。その行列の中心となる一際豪華な馬車は金の装飾が施されており、一目で王家のものであると分かる。何人もの護衛が周囲を固めながらゆっくりと進み、やがて屋敷の正面で止まった。
「侯爵閣下、並びにご令嬢シェラ様に、王太子殿下アレストがお目通り願います」
近衛騎士の一人が声を張り上げると、馬車の扉が開く。その瞬間、シェラは強烈な既視感に襲われた。――金色の髪。あの森で出会った、優しい笑みを湛えた少年のイメージが一気に甦る。
「ようこそお越しくださいました、王太子殿下」
侯爵である父がまず挨拶をすると、アレストは馬車を降り、微笑を浮かべながら一礼を返す。落ち着いた紺色の上着が、彼の整った顔立ちと金色の髪を一層引き立てている。彼はまだ二十歳ほどの若々しさを保ちながらも、どこか威厳を漂わせていた。
「お招きいただき感謝します、侯爵様。今回の視察、どうぞよろしくお願いいたします」
澄んだ声が耳を打ち、シェラは思わず息を呑む。あの記憶の中の少年が、立派に成長し、今まさに目の前にいる。彼女は父に促され、少し緊張気味に一礼した。
「はじめまして……ではないかもしれませんが、侯爵家令嬢のシェラと申します。至らぬ点も多いかと存じますが、本日は私がご案内役を務めさせていただきます」
どこかぎこちなくなってしまう挨拶。だが、アレストは柔らかな微笑を絶やさず、シェラを見据える。その瞳は確かに、かつて森で彼女を救ってくれたあの少年のものだ。
「お会いできて嬉しいです、シェラ様。もしや、私たちは昔、森で少しだけ言葉を交わしたことがあるのでは……?」
その問いに、シェラは驚きのあまり思わず小さく声を上げそうになった。まさか、王太子も同じように覚えていてくれたのだろうか。彼女が肯定の意味を込めて小さく頷くと、アレストは何か安堵したような、柔和な笑みを浮かべる。
「やはりそうでしたか。あのときは私も迷い込み、困っていたところを見つけて……ですが、詳しいご挨拶もできずに去ってしまいましたね」
そう言いながら、アレストはどこか懐かしそうに視線を遠くへ向ける。シェラもまた、当時のことを思い出して胸がじんと熱くなる。――幼かった自分を背負ってくれた温もり、その後、礼を言う間もなく姿を消した少年の後ろ姿。あの光景は、彼女にとっても忘れられない大切な思い出だ。
そんな二人の様子を見守っていた父が、ややあわてたように口を挟む。
「殿下、よろしければどうぞ中へ。長旅でお疲れでしょうし、まずはお部屋を準備しておりますのでご休憩いただければと」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきます。シェラ様、後ほど詳しくお話しを伺わせてください」
アレストの言葉に、シェラは胸の高鳴りを抑えきれずに小さく微笑む。そして、王太子は側近や近衛たちを伴い、侯爵家の屋敷へと足を踏み入れた。周囲の使用人たちが一礼する中、その動作一つひとつからは育ちの良さと威厳が感じられる。まさに、未来の王に相応しい存在感だと、シェラは改めて思う。
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王太子アレストは予定通り、午後から領地視察に出向くことになっていた。その案内役がシェラである。王太子が訪れる場所は、彼女が先日足を運んだ村々や商業地区など数か所。もともと侯爵家の領地の中でも主要な地域だけを巡る予定だったが、アレストの希望で「実際の暮らしが見えるところ」を念入りに見学したいと追加の要望が出たのだ。
最初に訪れるのは、シェラが前にエドガーという村長と話を交わした農村地帯である。治安維持や盗賊被害への対策など、現場の声を聞きたいとアレストが強く希望したのだ。
午後、準備を整えた馬車が再び出発する。先導役として近衛騎士が何名も付くが、当のアレストはどうやら大人数の行列を嫌っているらしく、必要最低限の警護に絞るよう手配した。
シェラはアレストの隣、同じ馬車に乗る。驚くほどの近距離で、王太子と二人きり――実際には御者台の護衛もいるので完全な二人きりではないものの、それでもシェラは緊張が解けない。
しかし、アレストは気さくな笑顔を向け、和やかに話し始める。
「こうして落ち着いてお話しするのは初めてですね。シェラ様、先ほども少し触れましたが、森でお会いした時のことを、私は今でもはっきり覚えています。確か……まだあなたは十歳くらいでしたか」
「はい。父に連れられて領地見学に来ていて、はしゃぎすぎて森に迷い込んでしまったんです。転んで足を痛めて、泣いていた私を殿下が助けてくださいました」
「いえ、そんな大したことはしていませんよ。私も森で迷子になっていたようなものでしたから。ただ……泣きそうなあなたを見て、何とかして助けたいと思った。それだけですよ」
柔らかな口調に、シェラの心はほどけていく。王太子とはいえ、どこか昔と変わらぬ優しさが感じられる。彼女は自分の中に生まれる安堵に戸惑いながらも、それを素直に受け止めることにした。
馬車は街道を離れ、農村へと続く小道へ入っていく。道が悪く、少々揺れるが、アレストはさして気にした様子もなく、窓の外の風景を興味深そうに眺めている。
「何だか落ち着きますね。こういった光景を眺めるのは久しぶりです。王宮にいると、どうしても仰々しい儀式や会議ばかりで、こうした素朴な暮らしにはなかなか触れられませんから」
「そうかもしれません。私も最近、ようやく頻繁に足を運ぶようになったばかりで……実は、あの婚約破棄の騒動がなければ、ここまで積極的には動いていなかったと思います」
うっかり「婚約破棄」という言葉を口にしてしまい、シェラは慌てて口をつぐむ。しかし、アレストは少しも動じず、むしろ彼女の言葉に真剣な表情を向けた。
「お辛かったでしょうね。私も、公爵家のアレクシス殿とミレイア嬢の噂を耳にしました。……言葉を濁すようですが、彼らについては私自身もあまりいい印象を持っていないのですよ」
「え……」
意外な告白に、シェラは思わず目を見開く。王太子という立場からすれば、公爵家は国の重臣に連なる名門である。表向きは良好な関係を保っているように見えても、裏では何かしらの対立や暗闘があるのかもしれない。
アレストはさらに話を続ける。
「正確に言えば、公爵家そのものというより、アレクシス殿が近年行ってきた振る舞いに問題があると思っています。私個人の意見としては、彼はあまり領地経営に興味を持たず、派手な社交界遊びばかりに明け暮れているように見受けられます。ミレイア嬢も……あなたの従妹でしたね?」
「はい。私と同じ家で育ちましたが……いろいろあって、今はもう……」
シェラは言葉に詰まった。いくらなんでも王太子に対して、「彼女が私から婚約者を奪った」と愚痴をこぼすわけにはいかない。
しかし、アレストの瞳はどこか優しく、その奥には「もし話したいなら、聞きますよ」という意志が滲んでいるように思えた。結局シェラは、さらりとした口調で要点だけを伝えることにする。
「私の家に引き取られた従妹で、とても美しい人です。社交界でも注目を集めていたので、アレクシス様が彼女に惹かれたのかもしれません」
「そうですか……。とはいえ、その裏切りの形は許されるものではない。公爵家の嫡男という立場を利用して、あなたを傷つけたのですからね」
はっきりと「裏切り」と言い切るアレストの口調は、強い怒りを含んでいるようだった。だが、シェラは少し俯きながら首を振る。
「私はもう、あの二人には関わりたくありません。領地のことや、自分の人生に集中したいんです。たとえ婚約破棄になっても、こうして自分の足で立とうと決めたから」
その宣言には、シェラ自身の決意が込められていた。アレストは小さく頷き、彼女を讃えるような目を向ける。
「素晴らしいお考えですね、シェラ様。実際、あなたがどんな想いで領地を回られているか、私も詳しく知りたいと思っています。きっと、国全体を考える上でも参考になるでしょう」
「そんな大げさな……。私はただ、私の家と領地を守れたら、それでいいんです」
謙遜するシェラに対し、アレストは「それこそが大切なのですよ」と優しく笑う。馬車はさらに揺れながら、目的地の村へ近づいていった。
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農村に到着すると、村長エドガーが慌てて出迎えに現れた。「王太子殿下がいらっしゃる」など夢にも思っていなかったのだろう。前にシェラが訪れたときに見たのとはまた違う、必死の表情で頭を下げている。
「こ、これは王太子殿下! ご足労いただき恐れ入ります。私、この村の村長をしているエドガーと申します。ささ、どうぞこちらへ……!」
「お忙しいところ失礼します、エドガーさん。シェラ様からお話を伺って、ぜひ一度、村の様子を直接見たいと思いまして」
アレストが穏やかに挨拶すると、エドガーは恐縮しつつも感激に頬を紅潮させる。村の女性や子供たちも、遠巻きに王太子の姿を眺めては小声でささやきあっているようだ。
やがてエドガーの案内で牛舎や畑を巡り、住民の話に耳を傾けるアレストの姿は、まるで長年かけて習熟した役人のように堂に入っている。シェラもその傍らで補足説明をしたり、以前に聞いた要望を伝えたりと、下支えに回る。
盗賊被害が懸念される出荷ルートのことや、村人の要望などが次々と飛び出すが、アレストは一つも疎かにせず、しっかりとメモを取っている様子だった。王太子ともなれば、「ただの視察」の名目で来るだけの貴族も多いだろう。しかし、彼は違う。最後にアレストは、穏やかな声でエドガーに話しかける。
「本日は貴重なお話をありがとうございました。国としても、こうした小さな村が安心して暮らせるように施策を整えるべきだと考えています。早急に具体案をまとめ、また改めて協議に伺いたいと思います」
「そ、そんな……身に余るお言葉でございます、殿下。村の皆にとっても、大きな希望になります!」
エドガーは涙ぐまんばかりの勢いで頭を下げる。シェラはその光景を見つめながら、王太子が果たすべき本来の役割を目の当たりにしているような気がした。――「国の未来を考え、民の声を聞く」ということ。それは、どんなに立場が高くとも決して忘れてはいけない責務なのだろう。
そして同時に、今のアレストに対するシェラの胸中には、尊敬と安堵、それからほんの少しのときめきが入り混じっていた。あの金色の髪の少年が、立派な王太子へと成長している。その姿を近くで見ることができることが、なぜかたまらなく嬉しく思えるのだ。
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村の視察を終えた一行は、次に商業地区へと向かった。ここでは交易や商売を行う商人たちが集まり、市場が開かれている。近隣からも多くの人々が往来し、活気にあふれた場所だ。
シェラが案内役ということで、地元の行商人や店主たちに声をかけて回ると、皆一様に「王太子殿下がいらっしゃるなんて!」と仰天しながらも、商売道具の品々を見せたり、それぞれの経営状況を説明したりしてくれる。アレストは興味深く耳を傾け、時には具体的な質問を投げかけるなど、きわめて熱心だ。
「なるほど。最近は他領からも商品が流れ込んできて、競争が激しくなっていると……。確かに品質や価格の面で差別化を図らないと厳しいでしょうね」
「ええ、ここ数年で急に商人が増えまして……。活気があるのは嬉しいですが、同時に規模の大きな商会に客を奪われることも多いんです」
店主が嘆くように語ると、アレストは真摯に頷き、さらなる施策について言及する。まるで商務省の官僚のようだ、とシェラは感心するばかりだ。
やがて市場の一角を歩いていると、一際目立つ宝石商の店が目に入った。ショーケースには色とりどりの宝石が並び、丁寧にカットされキラキラと輝いている。シェラもまた思わず足を止めた。
オーナーの女性はすぐにシェラとアレストの一行に気づき、慌てた様子で迎えに来る。
「よ、ようこそお越しくださいました、王太子殿下、そして侯爵家のご令嬢……! もしよろしければ、こちらの宝石などはいかがでしょう。質には自信がございますので……」
勧められるままに、シェラは青く透き通った石の指輪を手に取る。光にかざすと、まるで小さな海を閉じ込めたように幻想的な輝きを放つ。
すると、隣にいたアレストがさりげなく視線を寄越し、「よく似合いそうですね」と小声で囁いた。
「えっ……」
シェラは少し頬を染めながら、指輪とアレストの瞳を交互に見つめる。宝石の青と、アレストの瞳の青がどこか呼応しているような気がした。
オーナーの女性が察したのか、「もし試着なさるようでしたら、こちらへどうぞ」と手鏡を差し出す。シェラは勧められるがままに、恐る恐る指輪を薬指にはめてみた。すると、その青い輝きは彼女の肌の白さを一層際立たせ、息を飲むほど美しく見える。
「本当に似合っていますよ」
アレストが微笑む。その心地よい声に、シェラの胸はさらに高鳴る。――もしこれがアレクシスとの婚約期だったら、指輪を試着するのもなんだか切なく感じてしまったかもしれない。だが今はもう、そのしがらみから解放されている。
そう考えると、ふと「これが新しい出発かもしれない」と感じる自分がいる。もちろん、今ここで指輪を買うつもりはないし、ましてや王太子との間にどうこうという話でもない。けれど、かつて婚約者の存在ゆえに窮屈だった自分が、こうして自由に宝石を試着して楽しめることに、不思議な解放感を味わっているのだ。
しかし、そこに水を差すように現れたのは、なんとミレイアだった。ひときわゴージャスなドレスをまとい、侍女を引き連れた姿が遠目からでも分かる。市場の雑踏の中でも、周囲の視線をかっさらうほどの華やかさだ。
シェラは思わず身構える。どうしてこの場に……と嫌な予感が頭をよぎるが、ミレイアは当然のようにこちらに近づいてきた。
「まあ、王太子殿下……こんな場所でお会いできるなんて、なんという偶然でしょう!」
ミレイアはわざとらしく驚いた口調で言いながら、アレストに優雅に一礼する。その背後には、公爵家の紋章をつけた従者が控えており、どうやらアレクシスは一緒にいないようだ。
アレストの眉が僅かに動き、視線に嫌悪感がちらつくのをシェラは見逃さなかった。だが、王太子という立場上、あからさまに冷たくあしらうわけにもいかない。彼は表面的には柔和な笑みを浮かべたまま、「ご機嫌よう、ミレイア嬢。お買い物ですか?」とだけ問う。
「はい。実は近々、お祝い事があるんですの。ですから、新しく宝石を誂えたくて。あら、シェラもここにいたのね。先日は突然いなくなったと思ったら、今日は殿下にくっついているのね」
言葉の端々に含まれる棘。その真意は言わずもがなだろう。シェラは胸の奥がざわつくのを感じるが、なるべく冷静に対応する。
「ミレイアこそ、こんな場所まで。お買い物と言っても、かなり遠くから来ることになるんじゃ……」
「あら、そこまで遠くはないわ。私とアレクシス様はただいまこちらの街に滞在中なの。幸せいっぱいの日々を過ごしているから、お節介は無用よ。王太子殿下の視察にもお付き合いできたらと思っていたのだけれど、どうやら先を越されちゃったみたいね」
まるで「私のほうがふさわしい」という暗示を含ませているかのようだ。アレストは口を挟まず、ただミレイアを注視している。
ミレイアは続けて、オーナーの女性に声をかける。「ここには私にふさわしい宝石があるのかしら」とでも言いたげな態度だ。そして、ちらりとシェラがはめている指輪に目を留め、口元に嘲るような笑みを浮かべる。
「シェラ、ずいぶんと立派な指輪を試着しているのね。まさかその指輪を殿下から贈られた……なんてことはないでしょうけれど。だって、あなたはもう婚約破棄された身ですものね?」
あからさまな嫌味。その場の空気が一気に重くなる。オーナーの女性や周囲の客たちも、居心地悪そうに視線を伏せたり、ひそひそとささやき合ったりしている。
シェラは言い返したい気持ちを必死で抑え、指輪を外して店の台へそっと戻す。強がって応酬しても、この場では得るものがないと分かっているからだ。けれど、胸の奥底ではやはり傷ついてしまう。
そんな中、アレストが静かに息を吐き、表情を引き締めた。
「ミレイア嬢。もしあなたがお買い物を楽しみたいのであれば、私は何も言いません。ですが、シェラ様を侮辱するような言葉は慎んでいただきたい」
端正な顔立ちから放たれる厳しい声音に、一瞬、ミレイアが言葉を失ったように見える。王太子から面と向かって釘を刺されたのだから当然かもしれない。
それでも、ミレイアはすぐに取り繕うように笑顔を作り、「まあ、お気に障るような言い方でしたか? 失礼したわ」と軽く会釈をする。だが、その瞳には敵意が宿っている。
「お二人の邪魔をするつもりはなかったの。けれど、王太子殿下のご視察をこんなにも間近で拝見できる機会なんて滅多にないものだから、思わず私もご挨拶したくなっただけよ。ほら、私にも少しは公の場で顔を出す義務がありますもの。そうでしょう、殿下?」
ミレイアはしれっと社交辞令を並べ立てるが、アレストはやんわりとその言葉をかわす。
「なるほど、ご挨拶は確かに大切ですね。私はまだここでの視察を続けるつもりですので、どうぞご自由にお買い物をお続けください」
まるでミレイアを早々に退けようとするかのように聞こえるが、王太子としてはこれ以上の波風を立てないための措置だろう。ミレイアはその意図を察しつつも、簡単には引き下がりそうにない。
しかし、彼女はちらりとシェラを見やり、それ以上何も言わずに踵を返した。「またお会いしましょう」とだけ残し、取り巻きの侍女たちと共に店を出ていく。その後ろ姿には、どこか敗北感と苛立ちが滲んでいる。
シェラは思わず安堵の息をつくが、同時に心に重いものが残った。――自分に向けられたあの敵意を、これから先も受け続けなければならないのかと考えると、気が滅入る。
「大丈夫ですか、シェラ様。あまり気になさらないでください。あれは彼女の問題です」
アレストが気遣わしげに声をかける。シェラは「ええ……ありがとう」と微笑もうとするが、その笑顔は少し歪んでしまっていた。
婚約者と従妹に裏切られた過去が、今でもシェラの心を縛りつけようとしている。自分では解放されたはずと思っていても、こうして当人たちが目の前に現れると、当時の苦痛が蘇ってくるのだ。
――だけど、私は進まなきゃいけない。これ以上、ミレイアの思惑に振り回されたくない。
気持ちを奮い立たせるように、シェラは背筋を伸ばした。視察はまだ続く。アレストに申し訳ないと思いながらも、彼の存在に心救われている部分もあるのだと感じた。今はただ、与えられた役目をきちんと全うしよう。王太子の視察を成功させることが、すなわち侯爵家と領地の未来を明るくする一歩になるのだから。
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そんなこんなで市場の見学も終盤に差し掛かり、シェラとアレストは街の中心広場へ足を運ぶ。さまざまな屋台や露店が連なり、ちょうど大道芸のような催しが行われているようだ。子供から大人まで大勢が集まり、笑顔であふれるその光景に、アレストの表情もまた和らぐ。
「いいですね……こういう光景を見ると、国が平和だと実感できます。みんなが笑顔で過ごせるようにするのが、私の使命だと改めて思いますよ」
シェラは隣でそっと微笑み返す。王太子としての責務を強く感じているアレストは、飾りだけの権力者とは違う。自分の言葉を持ち、未来を考え、行動する人だ――それがシェラの率直な印象だった。
「シェラ様も、この広場に来られたことはありますか?」
「ええ、そうですね。最近は領地視察が中心だったのでなかなか来られませんでしたけど、幼い頃はよく家族や友人と遊びに来ました。こうしていろんな人が集まって、笑い声が絶えない場所……私も好きなんです」
しばし二人で風景に見入っていると、突然、一角から子供の泣き声が聞こえた。見ると、幼い男の子が転んでしまったらしく、周囲の大人が心配そうに駆け寄っている。どうやら膝をすりむいてしまったらしい。
シェラは昔の自分を重ねてしまい、思わず駆け寄る。転んだ子供を見ると、自分のハンカチを取り出して膝の汚れをそっと拭った。アレストも一緒に駆け寄り、騎士の一人に薬を頼むように指示を出す。
男の子は顔をぐしゃぐしゃにして泣いているが、「痛い痛い」と訴えながらも、アレストが差し伸べる手当ての薬に興味を示したのか、少し落ち着きを取り戻す。シェラがやさしく声をかける。
「大丈夫よ。ちょっと痛かったけど、傷は浅いみたいだから、これですぐに良くなるわ。ほら、頑張ったね」
子供は涙目のまま、こくりと頷く。周囲の大人たちが「すみません、お嬢様」「王太子殿下、ご迷惑を……」と恐縮するが、アレストは「気にしないでください。誰しも怪我くらいしますよ」と笑って応じる。
こうして少しのアクシデントはあったものの、王太子の視察は終始和やかな雰囲気で進んだ。そして日が暮れ始めた頃、アレストは再び侯爵家の屋敷へと戻る。その道中、馬車の中で彼はシェラに礼を述べた。
「今日は本当に充実した視察になりました。これもシェラ様のおかげです。あなたがいなければ、ここまで詳しい話は聞けなかったかもしれません」
「とんでもありません。私なんて何もしていません。皆さんの声を聞いただけで……」
「いいえ、あなたは自分の言葉で、領地の現状をしっかりと伝えてくれました。誰にでもできることではありません。私も、大いに参考になりましたよ」
その言葉に、シェラは嬉しさと照れ臭さが入り混じったような感情を覚える。そして同時に、「もし私がずっとアレクシスの婚約者のままでいたら、こんな経験はできなかったかもしれない」とさえ思った。辛い過去を経てこそ見える景色もあるのだ、と。
やがて馬車は屋敷へ着き、アレストは夜の晩餐に招かれていた。大広間には多くの料理が並び、侯爵夫妻が王太子をもてなそうと準備を整えている。シェラも同行し、テーブルで話を交わすこととなった。
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晩餐の席では、公的な場である以上、父が主にアレストとの会話を進める。国政の話や領地の経営方針など、やや固い話題が続くが、時おりアレストがシェラに言葉を振ってくれるおかげで、ぎこちなさは和らいでいた。
母も上品に微笑みを絶やさず、「先日は大変申し訳ございませんでした。公爵家との件で娘がスキャンダルに巻き込まれてしまい……」と切り出す。やはり婚約破棄の騒ぎは王宮にも届いているようで、アレストは「お気になさらず。私はシェラ様を高く評価しています」と静かに返した。
その一言で、母はほっとした表情を浮かべる。シェラも心の奥で安堵を感じると同時に、アレストへの信頼がさらに深まるのを覚えた。
しかし、食事がひと段落した頃、ふいに屋敷の外が騒がしくなった。廊下を走る足音が聞こえ、執事が慌てた様子で大広間に駆け込んでくる。
「し、失礼いたします! 侯爵様、大変です……公爵家のアレクシス様が、この屋敷を訪れております。しかも、だいぶ荒れたご様子で……」
「アレクシスが……? なぜこのタイミングで……」
父が不快そうに顔をしかめる。アレストがここに滞在していることを聞きつけ、何か用があって押しかけてきたのか。あるいはミレイアが何か吹き込んだのかもしれない――嫌な予感が駆け巡る。
すると程なくして、大広間の扉が荒々しく開け放たれた。そこには、酒の匂いさえ感じさせるような乱れた様子のアレクシスが立っている。いつもは取り繕っている端整な容姿が台無しになるほどの形相だ。
彼はまっすぐシェラを睨みつけると、低い声で言い放った。
「シェラ……お前は、俺を見捨てるのか。勝手に王太子と一緒に行動して、何を企んでいる……?」
まるで当たり散らすような口調。晩餐に同席していた使用人たちは一斉にたじろぎ、母は思わず口元を押さえる。アレストは席を立ち上がり、静かな怒りを含んだ視線でアレクシスを見る。
この瞬間、シェラの胸に燃え上がったのは、恐怖ではなく強烈な嫌悪感と怒りだった。――裏切ったのはそちらなのに、なぜ今さら「見捨てる」という言葉で責められなければならないのか。
晩餐の場は一気に緊迫する。王太子アレスト、そしてシェラとアレクシスの三人が一堂に会し、火花が散るような空気が漂う。この先に待ち受けるのは、さらなる混乱か、それとも……。
息を呑むような沈黙のなか、シェラは意を決して立ち上がる。自らの意志で裏切りを許さないと宣言する時が来たのだ――これが、婚約破棄の真の「ざまあ」となるかもしれない。
周囲の視線が集中し、夕餉の席は一瞬にして修羅場と化す。王太子アレストの存在がどう影響するのか。アレクシスとシェラは、ここで何を語り合うのか――。
そうして、シェラの運命の歯車が、さらに大きく回り出そうとしていた。
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