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第4話 新たな幸せ

 王太子アレストを迎えての晩餐の席へ、酒臭い息を吐きながら押しかけてきたアレクシス。

 その姿は、かつてシェラが敬意すら抱いた婚約者の面影など微塵もなく、乱れた髪と険しい形相が視線を集めている。険悪な空気が漂う中、王太子アレストは席を立ち、硬い表情でアレクシスを見据えた。


「アレクシス殿、いったい何のご用件でしょう? ここは侯爵家の屋敷で、現在は私がご招待を受けている最中です。あまり無礼な振る舞いはお慎みいただきたいのですが」

 王太子の静かな語調には、明確な怒りと警告が含まれている。アレクシスはその声にわずかにビクッと身を強張らせるものの、すぐにシェラへと視線を戻した。


「そんなことはわかっている……だが、俺はシェラと話があるんだ。お前は……お前は公爵家にとって大切な駒だったのに、勝手に俺を捨てて、王太子殿下に媚びを売って……」


 ――勝手に捨てた、ですって? 頭の中でシェラは怒りに似た感情を噛み締める。裏切られ、捨てられたのは私のほう。ミレイアと手を組んで婚約破棄を宣言したのはアレクシスではないのか。それでもなお「捨てた」とは、どの口が言うのだろう。


 シェラは恐怖こそ感じなかったが、強い嫌悪感が込み上げる。息を整えつつ、ゆっくりと立ち上がってアレクシスに向き直る。もはや遠慮はいらない。今ここで、はっきりとケリをつけるべきなのだ。


「アレクシス様。あなたが私を婚約者と見なさなくなったのは、随分と前からなのでしょう? それなのに、あなたは一方的に婚約破棄を宣言し、私を蔑ろにしておきながら……今さら何を言いに来たのですか。私はもう、あなたなどに振り回されるつもりはありません」


 周囲の空気が、一気に張りつめる。王太子アレストは腕を組みながら無言でそのやりとりを見守っているが、その視線は冷たく、アレクシスを断罪するかのようだ。

 一方、アレクシスは呂律も怪しげな口調で、さらに言葉を続ける。


「お、俺は……別に、お前を捨てたわけじゃない! ただ、ミレイアが……ミレイアが俺を……」

 しかし、そこまで言いかけてアレクシスはハッと口をつぐんだ。まるで、ミレイアの名を出すことがまずいと気づいたかのように視線を逸らす。


 その挙動を見逃さず、王太子アレストが低い声で問いかける。

「ミレイア嬢が、なんだというのです? あなた方がどういう経緯でシェラ様の婚約を破棄したのか、私も興味がありますね。下手をすれば、公爵家が国の秩序を乱す存在となりかねない。はっきり言って、このまま黙っているつもりはありませんよ」


 その鋭い追及に、アレクシスは唇をわななく。だが、それでも彼の酔いと焦りは収まらないらしい。テーブルに手をつき、荒い呼吸をしながら続ける。


「そ、そうだ……シェラがいないと、公爵家の財産が足りなくて困るんだ。ミレイアは、金を持っているようで実は大した持参金がない。おまけに派手な暮らしを好むし……思った以上に、あいつも勝手で、すべてを俺に任せきりで……。お、俺はどうすればいいんだ……」


 何という醜態。周囲にいた使用人たちは凍り付いたように動けなくなり、シェラの父も母も、憤りと呆れが入り混じった表情をしている。今やアレクシスは、公爵家嫡男としての威厳をかなぐり捨て、ただ混乱と後悔を口走る男に成り下がっていた。

 シェラはその姿を、まるで別人を見るかのような気持ちで眺める。幼い頃には「頼れるお兄様」のように感じていた相手が、ここまで無様に崩れてしまうとは――なんとも悲しい。


「だから、戻ってきてくれ……シェラ。お前がいれば、公爵家は安泰だ。お前は家柄もあるし……ちょうど王太子殿下の気にも入っているようじゃないか。ぜひ力を貸してくれ……」


 周囲がざわつく。アレクシスの言っていることは、聞くに堪えないほど身勝手だ。要するに「捨てたけれど戻ってこい。財産を補ってくれ」というだけ。

 シェラの胸には強い怒りがこみ上げたが、ここは感情に飲まれて言い争いをするよりも、毅然とした態度を取るべきだと理性が告げる。彼女はスカートの裾を掴み、きっぱりと答えた。


「お断りします。私はもう、あなたに利用されるだけの存在ではありません。あなたは私を裏切った。それが事実です。私はあなたと公爵家のために生きるつもりなど微塵もありません」


 その言葉を聞くや否や、アレクシスはがくりと肩を落とす。糸が切れた人形のように、その場でへたり込んでしまった。彼はうわ言のように「ち、違う……そんなはずじゃ……」と繰り返し、視線を宙に泳がせる。

 王太子アレストが溜息をついた後、執事へ向けて低く命じる。


「アレクシス殿を別室へ案内し、休ませて差し上げてください。状況が落ち着いたら、国の方でも対応を検討しましょう」


 執事と使用人たちが、アレクシスを支えるようにして部屋を出ていく。晩餐の席には重苦しい空気が流れたままだが、父と母はほっと安堵の息をついたようだ。シェラは微かに手を震わせながら、自分の席に戻る。

 ――醜態を晒したアレクシスを見ていると、かつて抱いていた想いが粉々に砕け散るのがわかる。愛情とは呼べないまでも、それでも一時は婚約者として慕っていた相手だったから、寂しさすら感じる。しかし、今の彼を見ていると、もう未練など何も残らない。


「申し訳ありません、殿下。侯爵家の席にこのような無礼者が押しかけるなど……」

 シェラの父が深々と頭を下げると、アレストは「気にしないでください」と首を振る。


「私としては、むしろ真実を知るきっかけになりました。アレクシス殿のような人物が公爵家を継ぐのは、国としても由々しき問題だと思っています。今後、王宮と協議して何らかの対策を講じましょう。とはいえ、今日はシェラ様の辛い思い出を再び掘り起こすような場面になってしまい、申し訳ありませんでした」


 シェラは思わず首を振る。

「いえ……私こそ、殿下に無様な姿をお見せしてしまって。ですが、もう決心がついたんです。あの人との過去は捨て去って、新しい人生を歩みます」


 その言葉を聞いたアレストの瞳は、どこか安堵の色を帯びているようにも見えた。視線が合った一瞬、シェラの胸には何か温かいものが広がる。――かつて自分を森で救ってくれたあの少年と、今またここで交錯し、新たな道を示されているかのようだ。



---


 晩餐の中断後、アレクシスは翌朝に公爵家の従者たちによって連れ戻されていった。一晩の間に、彼が頭を冷やすことはなかったらしく、明け方まで執事たちが対応に追われていたという。それを尻目に、王太子アレストは早朝から侯爵家の庭を散策していた。

 朝靄の立ちこめる庭園の奥――シェラが花の様子を確認しようと向かった先で、彼女は偶然アレストの姿を見つける。小鳥のさえずりと、まだうっすらとした朝日の光が差し込む中、アレストは緑の芝生を見つめながら何か考え込んでいるようだった。


「あ……おはようございます、殿下。こんな朝早くに申し訳ありません、何かご用でしょうか」

 遠慮がちに声をかけると、アレストは穏やかな笑みを浮かべて振り返る。


「いえ、私こそ勝手に散策していました。夜が明ける頃、この庭の花が一斉に開き始めるそうですね。噂で聞いていたので見に来ていたのですが……」


 シェラが立ち止まると、朝露をまとった花々が、紫から淡紅色へ、あるいは白から薄緑へと移り変わっていく瞬間が視界に入る。まるで夜から朝への移ろいを告げるかのように、庭園がゆっくりと目覚めているようだ。

 その神秘的な光景に、二人はしばし魅了される。アレストの横顔をそっと盗み見ると、金色の髪が朝の光を受けて淡く輝き、どこか神々しくさえ感じられる。


「美しい……ですね。まるで、新しい始まりを祝福しているみたい」

 シェラがそう呟くと、アレストは「ええ、本当に」と頷く。その場の空気が柔らかく溶け合い、昨夜の一件で荒んだ心が癒やされていくのを感じる。


「それにしても、アレクシス殿のことは大変でしたね」

 ふいにアレストが切り出す。シェラは微かに目を伏せる。

「はい……でも、もう吹っ切れました。むしろ、あれほど露骨に本性を見せられてよかったと思っています。これで迷いなく、次へ進めますから」


 シェラの言葉に、アレストはわずかに笑みを深める。

「あなたは強い方ですね。困難にあっても、たじろがずに立ち向かっているように見えます。もっとも、その強さが得られるまでに、どれほどの涙を流したのか……私には想像しかできませんが」


 その言葉は、心の奥を見透かされているようで、シェラは思わず胸が熱くなる。確かに、強いというより、泣いて、傷ついて、悔しさを噛み締めながら、それでも立ち上がるしかなかったのだ。けれど、アレストはそんな彼女の弱さや傷にも寄り添おうとしてくれている――それが分かるだけで、シェラは救われる思いだった。


 やや感極まりかけた自分を落ち着かせるように、一度呼吸を整えてからシェラは言葉を探す。

「アレスト殿下。私……改めて、領地経営を一から勉強し直そうと思います。父や母を助け、家や領民を守るために。それが、私が生きる意味だと感じられるようになったんです」

 すると、アレストは優しい表情のまま大きく頷いた。

「素晴らしい志だと思います。国にとっても、あなたのように真摯に領地を見つめる貴族は貴重です。私も、微力ながらあなたをサポートできるよう尽力したいと考えています」


 どこか固い言い回しであるにもかかわらず、その瞳は柔らかくシェラを見つめている。心臓がドキリと高鳴るのを感じ、シェラはわずかに視線をそらした。――自分は今、王太子に惹かれているのだろうか。それとも、憧れに近い気持ちなのか……どちらにせよ、かつてのアレクシスに抱いた思いよりずっと大きい。そんな気がする。


 朝靄が薄れ、日差しが強まるにつれて、庭園はさらに鮮やかさを増していく。アレストとシェラは並んでゆっくりと歩を進め、その美しい光景を分かち合いながら、一つひとつ言葉を交わしていた。



---


 それから数日後。王太子アレストは王宮へ戻った。侯爵家の領地視察を終えた彼は、そこで得た情報を基に国政へ反映させるべく、各地の領主との会合や書状の整理に忙殺されるという。

 シェラもまた忙しく日々を送っていた。というのも、ミレイアからの嫌がらせが激化していたのだ。ミレイアはアレクシスの醜態を目の当たりにしたのか、その後からシェラに宛てた手紙を次々と送りつけ、ありもしない噂を広めようとしているという話まで聞こえてくる。

 内容は「シェラが王太子に媚びを売って地位を狙っている」「婚約破棄になった腹いせに貴族社会を混乱させている」など、根も葉もない中傷ばかり。だが、ミレイアは社交界でそこそこ顔が広いだけに、火のないところに煙を立てるには十分な影響力を持っていた。


 シェラのもとに届いた手紙も悪意に満ちたものが多く、見るたびに胸が痛む。しかし、彼女は怯まなかった。婚約破棄が公になった時点で、いつかはこうした嫌がらせが起こり得ると覚悟していたからだ。

 それよりも、シェラにはもっと集中したいことがあった。父から正式に「侯爵家の跡継ぎ候補として、領地経営の基礎を学ぶ」機会を与えられたのだ。新しい出発を果たすために、まずは書類の整理や財務の把握、そして領民たちが抱える問題の解決――やるべきことは山積みだ。


「よし……今月の収支は概ね予想通り。問題は、やはり盗賊被害の懸念と、商業地区の税率か……」

 執務室で帳簿をめくりながら呟くシェラの表情は、真剣そのもの。かつてはこうした数字の羅列を見るだけで気が遠くなりかけたが、今は違う。彼女自身が当事者として、実際に人々の暮らしを守っているのだと思うと、不思議と力が湧いてくる。


 そんなある日のこと。シェラが執務室で作業に没頭していると、扉がノックされる。返事をすると、執事が控えめに入ってきた。

「お嬢様、王宮からの使者がいらっしゃっております。王太子殿下のご命令で、書簡を直接お渡ししたいとのことで……」

「アレスト殿下から……! わかりました、お通しして」


 少し胸が高鳴る。王太子が書簡を送ってきたということは、おそらく領地の件について追加の協議があるのだろう。シェラは急いで書類の整理をし、机の上を整える。

 間もなくして、使者が深々と頭を下げながら部屋に入り、手紙を差し出した。封蝋には王太子の紋章が刻まれており、それだけで背筋が伸びる思いだ。シェラは封を切り、中を読む。そこには、彼女の期待以上の内容が綴られていた。


 ――「シェラ様、先日の視察の折、私が伺った課題について国として検討を進めることになりました。つきましては、あなたにも正式に意見をいただきたいと思っています。近々、王宮で開く会合に参加していただけませんか。併せて、あなたに個人的にお話ししたいことがあります。ぜひ、お越しください」


 最後には「心よりお待ちしております」と、アレストの手書きと思われる署名が添えられている。

 シェラは思わず手紙を握りしめて顔を伏せた。――王宮での会合ということは、それなりに大きな決定事項に関わるかもしれない。自分の意見を国政に反映させるチャンスが来たというわけだ。しかも、個人的に話したいことがあるというのは、一体……。

 胸の奥が熱くなる。喜びと緊張とが入り混じり、手のひらに汗が滲むのを感じた。



---


 そうして迎えた王宮での会合の日。シェラは侯爵の父とともに王宮へ赴いたが、アレストは「シェラ様の席は私の隣に」と自ら希望し、彼女を驚かせる。会合には数名の貴族や官僚が出席し、侯爵家の領地の現状や課題が議題の中心となった。

 シェラがこれまで集めてきた住民の声や問題点を示すと、官僚たちも真剣に耳を傾け、アレストは時折「なるほど」と頷きながら議論をリードする。かつてのシェラでは想像もつかなかった展開だった。王太子の隣で、しかも国の要人たちと対等に話し合う機会が訪れようとは――。


 会合は実りの多いものとなり、国としての支援策や新たなルールづくりに向けた具体案が次々と決まっていく。最後にアレストがまとめを述べ、「本日はたいへん有意義でした。皆さん、ありがとうございます」と会合を締めくくった。出席者が順に退室していく中、アレストはシェラに「少しお時間をいただけますか」と声をかける。

 シェラの父や官僚たちは不思議そうにしながらも、王太子の意向には逆らわず部屋を後にした。こうして二人きりになると、アレストは席から立ち上がり、シェラの前に歩み寄る。


「シェラ様。先ほどの会合でも、あなたの意見がとても参考になりました。領地を実際に回っていない者には出せない着眼点だったと思います」

「そんな……私は、ただ皆さんの声を伝えたにすぎません」

 シェラが視線を落とすと、アレストは首を振る。


「いえ、あなたは自分自身の意志で動いています。私にはその強さが、何よりも尊く思えるのです。――あの日、森で出会ったときもそうでした。小さかったあなたが必死に立ち上がろうとした姿に、私も勇気をもらったんですよ」


 その言葉に、シェラの心臓が大きく跳ねる。幼い頃から彼女が秘めてきた“森での記憶”――それが、アレストにとっても特別なものだったとは。思えば、ずっと忘れられない優しい記憶だったのだ。

 アレストは深く息をつき、意を決したようにシェラの瞳をまっすぐ見つめる。


「シェラ様。もし私が、あなたに近い存在になれたら……あなたと未来を共に描けたら……そんな夢を抱いてはいけないでしょうか」

 突然の言葉に、シェラは言葉を失う。これは、まるで――。

 彼の瞳は真剣そのもので、決して軽い気持ちではないと伝わってくる。シェラの頭の中には、過去の婚約破棄の苦い記憶が一瞬よぎったが、今ここにいるアレストは、アレクシスとはまるで次元が違う。人を裏切るような男ではない。彼女は、自分がどんな思いを抱いているのかを改めて理解していた。


 ――私も、彼と同じ未来を見てみたい。彼が王となる道を支えながら、一緒に国を良くしていきたい。


 胸が熱くなるのを押さえつつ、シェラは意を決して、そっとアレストの手に触れる。

「私なんかで、よろしいのですか……? 婚約破棄の汚名を着せられた私が、あなたのそばにいても……」

「そんなこと、問題ではありません。私が信じるのは、あなたの真摯さと優しさです。私はあなたと共に国を支え、共に未来を切り拓きたい。もちろん、まだ正式なプロポーズという形にするには手順がありますが……」


 そこで、アレストは言葉を切り、わずかに微笑む。その表情には、王太子という立場を超えた“一人の青年”としての想いが溢れていた。


「あなたの気持ちを聞かせてください、シェラ様。私と、これからも一緒に歩んでいただけませんか」


 心臓の鼓動が激しくなる。もう怖れる必要はない。かつての失敗があったからこそ、今の自分は強くなれた。その強さを支えてくれたのはアレスト――この人だ。

 ――答えは、決まっている。シェラは震える声をこらえながら、はっきりと頷く。


「はい……私でよければ、ぜひ。私は殿下とともに国を見つめ、領地を守り、そして、まだ見ぬ未来を創りたいです」


 その瞬間、アレストは安堵と歓喜の入り混じった表情を浮かべ、シェラの手を優しく握りしめた。二人の距離がすっと縮まり、胸の奥から熱いものがこみ上げる。過去の痛みが報われた――そんな感覚に満たされる。


 これこそが、彼女の新たな幸せの始まりなのかもしれない。婚約破棄という絶望の先には、未来を共に描きたいと願う真摯な相手が待っていたのだ。



---


 その後、アレストは王家の正式な手続きを経て、シェラとの婚約を準備し始める。もちろん一筋縄ではいかない。公爵家やミレイアは、王太子との縁談を認めたくないがために、裏から妨害工作を仕掛けるかもしれない。だが、アレストが王宮内での信頼を得ている以上、よほどの大義名分でもない限り、彼らが逆転するのは難しいだろう。

 何より、シェラにはもう揺るぎない決意がある。自分を捨てた者たちを振り返ることはしない。従妹ミレイアに恨まれようとも、心を蝕まれることはもうない。仮に仕返しがあったとしても、今のシェラはもう一人ではない。侯爵家の家族や領民たち、そしてアレストが支えてくれると信じられるからだ。


 噂によれば、アレクシスは酒に溺れて家を放り出すようになり、公爵家の当主である父から厳しく糾弾されているという。元々アレクシスが築いていた公爵家の信用は大幅に失墜し、ミレイアともうまくいっていないらしい。そう、彼らは自ら選んだ道を突き進んだ結果として、破綻を迎えようとしている。――シェラがなすべきことは、もう何もない。


 あれから数週間後、王宮での小さな舞踏会に招かれたシェラは、久しぶりに盛装して会場に足を運ぶ。彼女を招いたのはもちろんアレスト。貴族たちの視線が一斉に集まる中、アレストは笑みをたたえて近づいてくる。

 舞踏会の中央で、彼はシェラに手を差し出し、「踊っていただけますか」と促す。以前なら臆してしまったかもしれないが、今のシェラは躊躇わない。胸を張ってその手を取る。


 音楽が始まり、二人はゆったりとステップを踏む。周囲の好奇や羨望の視線を感じながらも、シェラの胸は不思議と落ち着いていた。かつての痛みはもう遠い記憶。今、腕の中にあるのは未来への大きな希望だ。

 アレストの瞳がこちらを見つめ、優しく口元がほころぶ。そこには、幼い頃の森で見せてくれた真っ直ぐな優しさがそのまま残っていた。シェラは微笑み返しながら、自分もまた同じ想いを抱いていることを確信する。


 ――もう、後ろを振り返らない。婚約破棄の傷は確かに深かったけれど、それさえも成長の糧となり、こうして幸せを手にできた。

 ステップを一つ刻むたびに、シェラは新しい自分を感じる。アレストとともに踊るこの瞬間こそが、あの陰鬱だった日々を明るく塗り替えていく証明なのだ。


 ざまあ――そう、かつてシェラを見下し、裏切った者たちは今頃後悔に苛まれているのかもしれない。だが、彼女はそんな連中を憎んではいない。もう興味すらないのだ。むしろ、あの婚約破棄がなければ、自分は本当の幸福に辿り着けなかったかもしれないと思うほどだ。


 音楽が終わると同時に、二人は息を合わせて舞台の中央で静止する。大きな拍手が巻き起こり、シェラはアレストの手を握りしめたまま、ほんの少しだけ恥ずかしそうに笑う。

 アレストもまた微笑み返すと、耳元でそっと囁く。


「さあ、ここからが新たな始まりです。あなたと一緒に、もっと先の未来を見たい――そう願っていますよ、シェラ様」


 シェラは目を潤ませながら、小さく頷いた。――彼と共に歩む道が、どこまでも続いていることを信じて。かつての絶望は、今はもう遠い過去。眩いばかりの光の中で、新たな幸せが二人を包み込もうとしていた。




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