2.1 屋敷に潜む影
結婚して数日が経った。しかし、セレナーデがライナーときちんと顔を合わせたのは、挙式の翌朝にほんの数言を交わした程度で、それ以降はすれ違うばかりの毎日だった。
彼は一日のほとんどを書斎や外出先で過ごし、食事の時間すら合わせようとはしない。新婚生活とは名ばかりで、まるで他人同士が同じ屋敷を共有しているだけのようだ。セレナーデが屋敷内のサロンでピアノを弾いていると、使用人が申し訳なさそうに伝えてくる。
> 「申し訳ございません、お嬢様。伯爵様はまた、夜分までお仕事のようで……」
仕事とは名目上の理由であり、本当は彼が何をしているのか、セレナーデには見当がつかなかった。もしかすると自分が知り得ない“裏の付き合い”でもあるのかもしれないし、あるいは本当に忙しいだけなのかもしれない。
そんな日々が続く中、セレナーデは使用人たちから不穏な噂を耳にする。最初は小さなささやき声程度だったが、ある日ふと、廊下の陰でメイド同士が交わす会話がはっきりと彼女の耳に届いたのだ。
> 「ねえ、あの方はもう何度もいらしているんじゃない?」
「シッ……声が大きいわ。万が一セレナーデ様や伯爵様に聞かれたら大変よ」
「でも、本当に来ているんだもの。昨夜だって奥の客間に忍ぶように入っていくのを……」
セレナーデは心臓がひときわ大きく鼓動するのを感じた。誰が“来ている”というのだろう。奥の客間とは、表の目につきにくい場所にある小部屋だ。少なくとも、侯爵家の正規の客を通す場所ではなく、裏口から出入りする人間しか利用しない――そんな部屋だと聞いたことがある。
彼女は意を決して、メイドたちの会話を遮るように声をかける。
> 「少し話を聞かせてちょうだい。『あの方』って、いったい誰のこと?」
驚いたメイドたちはサッと顔色を変え、「セレナーデ様……!」と口ごもった。
セレナーデはわざと落ち着いた口調を保つが、その胸中は渦巻く不安でいっぱいだ。しばし無言の攻防が続いたあと、メイドのひとりが意を決したように囁く。
> 「あれは……伯爵様の、昔からのご友人と伺っております。ですが、どうやら普通の間柄ではないようで……」
遠回しな物言いに、セレナーデは嫌な予感を覚える。親友なら隠す必要はないはずだ。わざわざ裏口から屋敷に侵入するように入り込むのもおかしい。すなわち“愛人”――そう考えるのが自然ではないか。
頭がくらりと揺れ、吐き気に似た胸のむかつきがこみ上げてきた。政略結婚だとわかっていたが、まさかこんなに早く夫の不貞を突きつけられる日が来るなんて……。
メイドたちもさすがに気まずそうに口を閉ざし、セレナーデから目をそらす。そして、きまり悪そうに頭を下げた。
> 「本当に申し訳ございません……私どもも、どうすればいいのか分からず、つい噂話になってしまいました……」
セレナーデは震える唇を噛んだ。怒りか悲しみかわからない感情が胸を突き上げる。だが、今ここで取り乱しても仕方がない。“白い結婚”という現実を甘んじて受け入れた時点で、こうした事態はある程度覚悟しなくてはならなかったのかもしれない。
愛人の存在――それは一介の噂話ではなく、すでに屋敷の使用人たちの間で広く知られた事実なのだろう。セレナーデの知らぬところで、ライナーは自分の欲求を満たすための相手を連れ込み、隠し立てをしているわけだ。
> (屈辱だわ……けれど、何とかしなくては)
メイドたちが立ち去ると、セレナーデは壁にもたれかかり、しばらく動けなかった。先日の結婚式で全員の祝福を受けながら夫婦となったはずなのに、その“はず”はすでに根本から崩れ去っている。そう、これは真っ白なウェディングドレスをまとったただの“偽り”だ。
しかし、このまま黙って耐え続けるつもりはない。セレナーデは、何よりもまず「事実」を突き止める必要があると決意する。生半可な臆測で動いては、ライナーに言い逃れを許す可能性が高い。
心に小さな炎を灯し、セレナーデは一歩踏み出す。伯爵ライナー・ランドールが築いてきた“裏”の関係を、なんとしてでも探りだそう――。
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2.2 再会と小さな安らぎ
その日の午後、セレナーデは気を鎮めるために、庭のサロンへと向かった。白いアップライトピアノの前で指を動かせば、少しは自分を取り戻せるかもしれないと思ったのだ。
扉を開けると、意外にも先客がいた。青年画家のレオン・コラールである。彼はサロンの窓から射し込む光を浴びながら、庭に咲くバラをスケッチしているところだった。
セレナーデが入ってきたのに気づくと、レオンはふっと柔らかい微笑を浮かべる。
> 「こんにちは、セレナーデ。きみも来ていたんだね。相変わらず良い場所だよ、ここは」
いつの間にか彼女のことを“セレナーデ”とファーストネームで呼ぶようになっていたが、いやな感じはまったくしなかった。むしろ形式だけで凝り固まった侯爵家や伯爵家の人々とは違い、芸術家の彼にはどこか温かい人間味を感じる。
セレナーデはピアノの前へと歩み寄り、鍵盤にそっと指先を当てる。しかし、今はあまりにも心がざわついていて、どうやってメロディを紡げばいいのかわからない。愛人の噂を知ったばかりで、内心は不安と屈辱に押し潰されそうなのだ。
気づけば、彼女の瞳には涙が滲んでいた。レオンはスケッチブックを閉じて椅子から立ち上がると、少し離れた位置で静かに声をかける。
> 「……どうしたんだい? つらそうだね。もし話したくなければ言わなくていいよ。けれど、ぼくにできることがあれば、何でもするから」
その言葉に、セレナーデの心がぐらりと揺れる。まだ出会って間もない相手に、夫の愛人疑惑など打ち明けられるものだろうか。実際、彼に話したところで何が変わるわけでもないかもしれない。
しかし、誰にも言えずに一人で抱えているのは、あまりにも苦しい。屋敷の使用人に相談するなどもってのほかだ。彼女は迷いながらも、小さく口を開いた。
> 「あの……もし、あなたが聞いてくださるなら、少しだけ……」
レオンは黙ってうなずく。その瞳は真剣で、飾り気がない。セレナーデは震える声を抑えようとしながら、夫との“白い結婚”、そして愛人の噂を耳にしたことなどをひと通り話した。もちろん、名前も詳細もわからない、ただの“噂”だが、彼女の胸を掻きむしるには十分な事実だった。
話し終えると、レオンはゆっくり息を吐き出して、言葉を選ぶように口を開く。
> 「……それは、つらいね。きみの心を想うと、ぼくも胸が痛い。だけど、きみは悪くない。何も悪いことはしていないのに、理不尽すぎるよ」
まるで自分のことのように怒りをにじませ、同情してくれる。その態度は、セレナーデが求めていた優しさだった。彼女はほっとしたように目を伏せる。
しかし、気を抜くと、今度は大きな虚しさが押し寄せてきた。どうして自分は愛されぬ結婚を強いられ、しかも夫が平然と愛人と密会しているなどという屈辱を味わわねばならないのか――。
> 「ごめんなさい……弱音を吐きたくなかったのに」
セレナーデがそう言うと、レオンは首を振った。
> 「謝らなくていい。むしろ吐き出したほうがいいんだ。きみはこれまで、誰にも言えずにつらかったんだろう?」
それは優しい、けれど揺るぎない言葉だった。セレナーデは胸の奥で小さく火が灯るような感覚を覚える。彼女はただの飾りじゃない――そう、レオンに打ち明けただけで、少しだけ自分の中の“生きる力”が呼び覚まされた気がした。
そのあと、レオンは「庭の描写をもう少し仕上げたい」と言い、再びスケッチブックを開いた。セレナーデはピアノの前で深呼吸をしてから、穏やかな子守唄のような曲を静かに弾き始める。
音を紡ぐたびに、ささくれ立った心がほんの少しだけほぐれていく。完全に癒されるわけではない。しかし、音楽を共有できる相手が側にいる。それだけでも、彼女にとっては救いだった。
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2.3 社交界の表舞台
数日後、セレナーデは父からの呼び出しを受け、屋敷の大広間へと向かった。グラシア侯爵はいつも通り厳かな表情で待ち構えている。隣には母と数人の家臣がいるが、ライナーの姿はない。
どうやら、社交界で開かれる大規模な晩餐会に、セレナーデを出席させるつもりらしい。この宴は名家の令嬢や貴族、さらに王宮関係者までも招かれる一大イベントで、結婚したばかりのセレナーデを人々に披露する絶好の場だという。
グラシア侯爵が低い声で言い放つ。
> 「セレナーデ、お前はランドール伯爵夫人として、しっかりと務めを果たせ。わがグラシア家の誇りを忘れるなよ」
セレナーデは押しつけがましい父の言葉に辟易しながらも、反論はしない。政略結婚に乗せられてしまった以上、今さら何を言ったところで仕方がないからだ。
一方、ライナーもこの晩餐会に出席する予定だと告げられる。嫌でも“夫婦”として振る舞わなくてはならない。愛人の噂を知ってからというもの、セレナーデの胸には怒りが渦巻いていたが、この宴は彼女にとっても“使い道”があるかもしれない。なにしろ、社交界には多くの情報が集まる。もしかしたら、伯爵家に関する新たな情報や、ライナーの裏の動きに関する噂を得られるかもしれない――そう考えると、悪い話ではない。
当日、晩餐会の会場となったのは、王宮に近い高級ホテルの広大なホールだった。煌びやかなシャンデリアが幾重にも飾られ、床には豪華なカーペットが敷き詰められている。各貴族の家紋や紋章が刺繍された垂れ幕が並び、壮麗な調度品が来客を出迎えていた。
セレナーデは純白のドレスに、銀の刺繍をあしらったショールを纏って入場する。隣にはライナーがいるが、彼は相変わらず無表情で、よそよそしいままだ。周囲の人々には「仲睦まじい夫婦」を演じるように見せかけているものの、実際は並んで歩いているだけにすぎない。
> 「セレナーデ、笑顔を絶やさないで。俺の評価にも関わることだからね」
ライナーは小さくささやくが、その口調はあくまで命令に近い。まるで自分のアクセサリーに「笑顔を保っていろ」と言っているようだ。
セレナーデは胸の奥で反発心を覚えながらも、うまく作り上げた微笑みを浮かべてみせる。ここで感情的になっても、自分の立場を悪くするだけに終わる。それよりも大事なのは“情報”だ。
会場にはグラシア侯爵家やランドール伯爵家に関係する貴族たちも多く訪れており、セレナーデは丁寧に挨拶を交わしていく。ライナーも一応夫として隣にいるが、会話のほとんどは彼女が引き受けていた。彼は短く相槌を打つだけで、賓客たちとの交流にもどこか熱心さを欠いている。
しばらくすると、場の中心にいる国王の使者が乾杯の音頭を取り、華々しい宴がスタートした。音楽隊の演奏が始まり、テーブルには豪華な料理が並ぶ。人々はワインのグラスを傾けながら、あちこちで談笑を楽しんでいる。
そんな中、セレナーデがふと気づくと、ライナーがどこかへ消えていた。いつの間にか姿が見えない。彼を探し回るのも癪に障るが、放っておけば周囲に変な印象を与えかねないと考え、彼女はホールを出て隣接する控室や廊下をのぞいてみる。
すると、廊下の先でライナーが誰かと親しげに話している姿を見つけた。相手は女性――漆黒のドレスをまとい、挑発的な微笑みを浮かべている。艶やかな黒髪と、鋭い眼差し。どこかで見覚えがあるような、そうでないような……。
セレナーデは物陰に隠れ、こっそり様子をうかがう。彼らは声をひそめながらも、親密そうに身を寄せ合っている。ライナーは普段ほとんど見せない穏やかな表情を浮かべ、相手の手を取って何か囁いていた。
その女性は、しなやかな指先でライナーのネクタイを直しながら、唇をゆがめるように微笑む。そして、ライナーの胸元にそっと手を這わせた。
その場面を目にした瞬間、セレナーデは息を呑む。これが、メイドたちが噂していた愛人なのだろうか――。明らかにただの社交辞令を超えた親密さだ。
> (ここで飛び出して問い詰めても……いいえ、今はまだ時期じゃない)
怒りに駆られてしまいそうだったが、セレナーデは必死で自制した。いま飛び出して場を荒立てれば、向こうは上手に言い逃れするだろう。そして、社交界中の噂となり、最終的に笑い者にされるのは“妻”である自分だ。
ならば、もう少し証拠を固めてから追及するほうが得策だ。噂や目撃談だけではなく、確固たる証拠をつかみ、ライナーを追い詰めてやる――。
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2.4 自分はただの飾りではない
宴が終わりに近づく頃、セレナーデはホールの隅でひと息ついていた。ライナーはすでに戻ってきて、表面上は「仲睦まじい夫婦」のふりを続けているが、その実、彼の心は完全に別の女性へ向いているのだろう。
すると、そのとき、背後から声が聞こえた。
> 「セレナーデ、こんなところで休んでいていいのかい?」
振り返ると、そこにいたのはレオンだった。彼もまた貴族の知人に招かれ、宴に足を運んでいたらしい。普段は画家として控えめな立ち振る舞いをしているが、彼の佇まいは貴族のそれに引けを取らない優雅さがある。
> 「レオン……ここにいたのね。わたし、少し疲れてしまって」
セレナーデは苦笑まじりに答える。豪華絢爛な場でも、夫に放置され、愛人の姿まで見てしまえば、気分が沈むのも無理はない。
レオンは周囲に視線を走らせると、まるで彼女を元気づけるように微笑んでみせる。
> 「少し外の空気を吸いに行かない? この会場の外にバルコニーがあるんだ。人目につかないし、星空が綺麗に見えると思う」
セレナーデは一瞬迷った。夫以外の男性と二人きりでバルコニーへ行くのは軽率かもしれない。だが、このまま不貞にまみれた愛のない夫のそばにいても、ただ心がすり減るだけだ。
意を決して頷くと、レオンは彼女をそっとエスコートするようにホールを出た。
バルコニーへ出ると、夜風が心地よく頬をなでる。夜空には瞬く星が散りばめられ、遠くには王宮の灯りが見える。ふたりは手すりに寄りかかりながら、しばし無言で星を眺める。
やがて、レオンが口を開いた。
> 「セレナーデ、きみはただの飾りじゃない。そう、ぼくは思う。きみの瞳には、まだ希望が宿っている。それを消さないでほしいんだ」
セレナーデは思わず目を見張る。今まさに自分が抱えている葛藤を見透かすかのような言葉だった。彼女は拳をぎゅっと握る。
> 「……本当にそう思ってくれる? みんなはわたしを『伯爵夫人』『侯爵令嬢』としか見ないわ。いわば家のために生きる道具。夫だって同じ」
そう口にすると、レオンは力強く頷く。
> 「きみにはきみの人生がある。もちろん、今の環境の中では何かと制約もあるだろう。でも、きみが行動すれば、少しずつでも未来は変わるんじゃないかと、ぼくは思う。それに……ぼくはきみの力になりたい」
まっすぐな眼差しを向けられて、セレナーデの胸は熱くなる。彼の言葉がどこまで実現可能かはわからない。しかし、その“想い”は嬉しかった。
もし彼がいなければ、セレナーデの心はすでに潰えていたかもしれない。それほどに、孤独と屈辱の日々は重くのしかかっていたのだ。
ふと、ライナーの姿を思い出す。愛人と密会し、こちらを顧みようともせず、社交界でセレナーデをただの“飾り”として扱う男。許せない、と思うと同時に、そんな相手に自分の人生を支配されてしまうのはあまりにも理不尽だ。
> (私は変わらなければならない。だれかの操り人形のまま終わるなんてまっぴらよ)
その強い思いが、セレナーデの瞳に小さな光を宿す。レオンはその表情の変化を見て察したようで、静かに微笑む。
外から戻ると、宴は終盤を迎えていた。ライナーは何食わぬ顔でホールの中央に戻っており、セレナーデを見つけると「どこへ行っていた?」と軽く咎めるように言う。しかし、彼女は笑顔を作って応じる。
> 「星空が綺麗だったものですから。少しだけ外の空気を吸っていただけですわ」
ライナーは「ふうん」と興味なさそうに呟くと、再び別の貴族との会話に移ってしまった。その横顔を見つめながら、セレナーデは決意を新たにする。このままでは終わらせない、必ず何かを変えてやる、と。
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